第11話 蜂蜜半匙
図面の余白に、数字を書く癖がある。
設計に必要な数値。補助的な計算式。現場で気づいたメモ。全部、図面の空いた場所に書き込む。技師としての習慣だ。二十年近くやっている。
蜂蜜の分量を書いたのは、いつからだったか。
◇
カタリーナの紅茶に蜂蜜を入れるようになったのは、再会して三ヶ月目のことだ。
作業場で図面を広げている時、カタリーナが紅茶を淹れてくれた。二人分。カップを受け取った時、甘い匂いがした。茶葉の苦みの奥に、蜂蜜の丸い甘さ。
「蜂蜜を入れました。少しだけ」
「ありがとうございます」
一口飲んだ。甘い。疲れた体に沁みた。図面を引いた後の指先の強ばりが、甘さと一緒にほどけていく。
翌日から、私が茶を淹れる番の時にも蜂蜜を入れるようになった。カタリーナの分に。半匙。多すぎず、少なすぎず。茶の色が変わらない程度の量。甘くなりすぎない──けれど、飲んだ人にだけ甘さが分かる量。
カタリーナは何も言わなかった。黙って飲んで、図面に戻った。
──半匙でいいのか、確認はしなかった。確認すると「蜂蜜の量を覚えた」ことが露見する。それは技師の仕事ではない。茶に入れる蜂蜜の量を正確に記憶しているのは、合理的な理由がない。
けれど忘れないように。
図面の余白に書いた。
『カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙。』
石材の強度計算の隣に。導流堤の角度の隣に。設計の数値と、蜂蜜の分量が、同じ余白に並んでいる。
◇
テオが来た日。
学園の休みに、リンデン伯爵邸にテオが訪ねてきた。エーリヒの手紙で、テオという子供のことは知っていた。元辺境伯の庶子。認知されなかった子供。エーリヒの異母弟。
花冠を頭に乗せた子供が、作業場に入ってきた。
小さかった。栗色の髪。元辺境伯に似た顔立ち──けれど目が違った。元辺境伯の目は余裕があった。自信に満ちていた。テオの目は静かだった。何かを観察している目。慎重な目。周囲の空気を読んで、自分がどこに立てるかを測っている目。
(、この子は、ずっとこうしてきたのだろう。自分の居場所を確かめながら)
図面を広げた。テオの目が等高線の上を走った。指が線をなぞった。
「この線は、」
「河床の勾配だ。ここから下流に向けて千分の三で下がる」
「千分の三」
数字を繰り返した。目が輝いている。本を読む時の目だ。慎重に周囲を見ていた目が、数字を前にした瞬間、変わった。好奇心だけが残って、警戒が消えた。
「テオ」
声をかけた。自分でも驚くほど自然に。
「お前の目は、数字を読む目だ」
言ってから気づいた。この子を「テオ」と名前で呼んでいた。初対面で。呼び方を決める前に、口が先に動いた。
(なぜ、)
花冠の蜂蜜草の匂いがした。甘い匂い。カタリーナの紅茶に入れる蜂蜜と同じ匂い。
、あの時、決めた。
◇
図面の余白に、書き足した。
『カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙。テオの紅茶にも半匙。』
技師として不適切なメモだ。図面の余白は設計の数値を書く場所であって、蜂蜜の分量を記す場所ではない。石積みの配置図の隣に、紅茶の蜂蜜。堤防の断面図の横に、子供の名前。
(分かっている。分かった上で、書いた)
テオは法的にはこの家に属する子ではない。認知もされていない。元辺境伯の庶子だが、認知手続きが未了のまま爵位が剥奪された。この家の食卓に座る法的根拠はない。
法的根拠はない。
けれど蜂蜜の半匙に、法的根拠は要らない。
子供に紅茶を出す時、蜂蜜を入れるかどうかは、心が決めることだ。条文ではなく。判例ではなく。
エーリヒが法律書で守ろうとしているものを、私は蜂蜜の半匙で守ろうとしている。方法が違うだけだ。あの子は条文で。私は図面の余白で。
◇
カタリーナに見つかった。
テオに図面の説明をしていた時のことだ。等高線の読み方。石積みの原理。テオの目が輝いていた。千分の三の勾配を口の中で繰り返して、指で線をなぞっている。
カタリーナが茶を持ってきた。三人分。ふと、カタリーナの目が、図面の余白に止まった。
『カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙。テオの紅茶にも半匙。』
(、しまった)
膝の裏に汗が滲んだ。技師としてあるまじき失態だ。図面の余白に私的なメモを残すなど。しかも、蜂蜜。設計図に蜂蜜。
カタリーナが何か言おうとした。「蜂蜜」と。「ありがとう」と。「あなたは最初からテオを家族にするつもりだったのですね」と。
、言わなかった。
「紅茶を淹れますね」
「ええ」
「テオの分も」
「、ええ」
自分の声が、半音だけ低くなった。いつもの「ええ」より半音。
分かっている。カタリーナにも分かっている。蜂蜜の半匙に、全部詰まっていることが。
計算式はない。数字では証明できない。法的根拠もない。
けれどテオの紅茶にも、半匙。
カタリーナと同じ量。同じ甘さ。同じ温かさ。
それが、技師の設計だ。図面には描けない設計。数値では表せない設計。余白にしか書けない設計。
テオが紅茶のカップを受け取った。蜂蜜の匂いがした。花冠の蜂蜜草と同じ匂い。
テオが一口飲んで、少しだけ、目を細めた。
(甘い、と思ったのだろう。、そうだ。甘いのだ。半匙分だけ)
図面に向き直った。何事もなかったように。設計の続きを説明し始めた。
蜂蜜の匂いが、作業場に漂っていた。
◇
夜。子供たちが寝静まった後。
作業場で図面を広げていた。一人で。カタリーナはもう部屋に戻っている。蝋燭が一本だけ灯っている。
図面の余白を見た。
『カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙。テオの紅茶にも半匙。』
この一行が、いつから「設計」になったのか。
思い返す。最初は自分のためのメモだった。忘れないように。蜂蜜の量を間違えないように。技師の几帳面さで、数値を記録した。
けれどテオの名前を書き足した瞬間に、このメモは変わった。メモから設計になった。
設計とは、未来の形を決めることだ。堤防の設計は「この石がどこに置かれるか」を決める。導流堤の設計は「水がどこに流れるか」を決める。
蜂蜜の設計は、「この子がここにいていい」を決める。
(法的根拠はない。認知もされていない。条文には載っていない。けれど図面の余白に載っている。私の字で。私の判断で)
ペンを取った。図面の余白に、もう一行、書き足した。
『リーゼの紅茶には蜂蜜一匙。甘いもの好きだから。』
、書いてから、少しだけ笑った。
技師が笑うのは珍しい。数字の前では真顔だ。図面の前では真剣だ。けれど蜂蜜の分量を書いている時だけは、少しだけ、口元が緩む。
蝋燭の火が揺れた。窓の外で風が吹いたのだろう。
図面の余白。設計の数値と、蜂蜜の分量と、子供たちの名前。全部が、同じ紙の上にある。
技師の仕事と、技師ではない私の仕事が。
同じ余白に。




