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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第6話 綻びる仮面


「辺境伯閣下の奥方は、夫を捨てて実家に逃げ帰ったのですって」


──そんな噂が王都で流れていると、父が渋い顔で教えてくれた。


「それだけではない。『子供を連れ去った』『夫の留守中に荷物をまとめて出ていった』とも言われているらしい」


父の書斎。朝の光が差す窓際で、アルブレヒトは手紙の束を机に置いた。王都の旧友から届いた、社交界の動向を伝える私信だ。


「出所は辺境伯の周囲にいる女性——名はメルツと言うらしい。『遠縁の未亡人』を名乗っている。控えめで上品な振る舞いで、王都の夫人方に取り入っているそうだ」


ロゼッタ・メルツ。


あの別邸の庭で、穏やかに微笑んでいた女性。


(……控えめで上品、ね)


確かにそう見えた。あの日、馬車の窓からほんの数秒見ただけだが、佇まいに品があった。社交の場で「可哀想な未亡人」を演じるのが巧い人なのだろう。


「カタリーナ。何か手を打つか」


父の声には、怒りが滲んでいた。父は穏やかな人だが、娘の名誉が傷つけられることには別だ。


「いいえ。噂は放置しましょう」


「放置?」


「噂で反論しても、噂を大きくするだけです。事実が明らかになれば、自然と消えます」


(噂は水のようなものだ。低い方に流れて、やがて乾く。けれど事実は石。動かない)


——辺境伯領で十年、領民の間の噂と向き合ってきた経験が、こんなところで役に立つとは思わなかったけれど。


「それよりお父様。持参金返還請求の件で、何か動きはありましたか」


「ああ——それなのだが」


父は机の上の別の書簡を取り上げた。


「王都の代理人から連絡があった。請求書に添付した帳簿の写しが、王家の財務官の目に留まったらしい。『辺境伯領の収支に不審な点がある』と」


「不審な点」


「収入に対して支出の計上が七割しかない。残り三割の使途が不明だ、と。お前が指摘していた通りだな」


帳簿を添付したのは、持参金返還の根拠を補強するためだった。正当な請求であることを、数字で裏づけるため。


それが、予想外の波紋を広げ始めているらしい。


(持参金返還の審査で、帳簿を精査するのは当然のことでしょう。それだけのこと)


「もう一つ」


父が続けた。


「堤防決壊の報が王都にも届いているそうだ。王都の貴族たちの間で、こんな声が上がり始めたらしい——『あの優秀な辺境伯の領地で、なぜ堤防が崩れたのか』と」


思わず、苦笑が漏れた。


「あの優秀な辺境伯、ですか」


「王都での評判はそうだ。……いや、そうだった、が正しいか」


父が私を見た。


「考えてみなさい、カタリーナ。『逃げ帰った無能な妻』と、『妻が去った途端に堤防が崩壊した領地』。その二つが同時に存在するのは——」


「矛盾しますね」


「そうだ。無能な妻なら、去っても何も変わらないはずだ。ところが現実には、妻が去って三ヶ月で堤防が決壊し、交易路が寸断され、領民が避難を始めた」


父は茶を一口飲み、静かに言った。


「噂を流した人間は、辺境伯領の実態を知らないのだろう。だから噂と事実が食い違う。——お前が言った通り、放置でいい。事実が噂を食い破る」


私は頷いた。


頷きながら、少しだけ胸が軽くなった。十年間の仕事は、紙にしなくても残るものがあったのだ。堤防という形で。交易路という形で。領民の記憶という形で。


壊れたからこそ、初めてその価値が見えた。


——皮肉な話だけれど。



午後、作業場で導流堤の詳細設計をニコラウスと詰めていると、扉が勢いよく開いた。


「おかあさまー!」


リーゼが駆け込んできた。マルタが「お嬢様、お待ちください」と追いかけてくるのが見える。


「リーゼ。ここは仕事場ですよ」


「だって、お花が咲いたの。見せたいの」


小さな手に握られた野の花。茎が少しつぶれている。全力で走ってきたのだろう。


「……きれいね。でも、先生がお仕事中だから」


「先生?」


リーゼがニコラウスを見上げた。ニコラウスは図面にペンを走らせる手を止め、椅子ごとこちらを向いた。


「リーゼ嬢。それは何の花ですか」


「わかんない。でもきれい!」


「アカツメクサですね。蜜が甘い花です」


「えー! なめていいの?」


「……それは、お母上に聞いてください」


ニコラウスの口元が微かに緩んだ。困ったような、けれど嫌がっていない表情。この人は子供との距離の取り方をよく知らない。技術の話なら何時間でもできるのに、花の蜜をなめていいかと聞かれると視線が泳ぐ。


リーゼがニコラウスの手を掴んだ。


「先生の手、大きいね。父上の手より大きい」


ニコラウスの目が、一瞬だけ揺れた。


何に揺れたのか——リーゼの無邪気さにか、「父上」という言葉にか——私には分からなかった。けれどニコラウスはすぐに視線を逸らし、図面に目を戻した。耳の端が、わずかに赤い。


「リーゼ、先生にご迷惑だから——」


「構いません」


ニコラウスが短く言った。声が少し硬い。


そこへ、エーリヒが現れた。リーゼを追いかけてきたのだろう。書庫から持ち出した本を小脇に抱え、作業場の入口で足を止めた。


「母上、リーゼが勝手に——」


「いいのよ。もう花は見せてもらったから」


エーリヒはニコラウスに向き直り、背筋を伸ばした。


「ヴェーバー先生。母上のお仕事を手伝ってくださって、ありがとうございます」


深いお辞儀だった。九つの少年が、年上の技師に向かって、一分の崩れもなく。


ニコラウスが椅子から立ち上がった。


「……こちらこそ」


それだけだった。それだけしか、この人は言わなかった。けれどお辞儀を返す動作が丁寧で、エーリヒの目をまっすぐ見ていた。


(この人は不器用だけれど、不誠実ではないわ)


——そう、思った。思っただけ。


マルタが子供たちを連れて出ていき、作業場にまた二人だけの静けさが戻った。ニコラウスは何事もなかったように図面に向き直り、ペンを走らせ始めた。


私も、同じようにした。



子供たちを寝かしつけた後、私室の窓辺に椅子を引いて座った。


月が出ている。薄い雲の向こうに、青白い光。


この一ヶ月、子供たちが笑う回数が増えた。


辺境伯領にいた頃、エーリヒはあまり笑わない子供だった。九つにしては大人びていて、父親の不在を寂しがるそぶりも見せず、黙って本を読んでいた。リーゼは人懐っこいが、夜になると「父上はいつ帰るの」と聞いた。そのたびに「もうすぐよ」と答えるのが、私の仕事だった。


今は違う。エーリヒは祖父の書庫で好きなだけ本を読み、夕食の席で「この本に書いてあったんだけど」と話し始める。リーゼは庭を駆け回り、花を摘み、マルタに怒られ、それでも笑っている。


あの領地にいた頃は、私が笑わせなければ子供たちは笑えなかった。ここには祖父がいて、マルタがいて、広い庭があって、本があって——


(ニコラウスがいて——)


違う。


(ヴェーバー技師は仕事の方。子供たちが懐いているのは、たまたま仕事場に出入りしているから。それだけのこと)


窓の外、月が雲から顔を出した。


あの別邸の庭を見た日から、もう四ヶ月が経つ。四ヶ月前の私は、こんな夜に月を見上げる余裕すらなかった。帳簿をつけるか、堤防の図面を見るか、子供たちの明日の支度をするか。やることは常にあって、空を見る暇などなかった。


今、月を見ている。


子供たちは眠っている。明日の仕事の段取りは組んである。導流堤の設計は順調だ。帳簿の不一致は父が対処してくれている。


──それでも。


王都では、私の名前が「逃げ帰った妻」として囁かれている。ロゼッタという女性が、十年間奪われたものの上に座りながら、被害者の顔をしている。


(……噂は、放置すると言ったわ。事実が食い破ると)


自分で言った言葉を、もう一度飲み込んだ。


帳簿は王家の目に届いた。堤防は崩れた。噂と事実の矛盾は、誰の目にも見え始めている。私が何もしなくても、綻びは広がっていく。


──けれど、あの女性が次に何をするか。


社交界で噂を流す才覚のある人間は、噂が通じなくなった時、別の手を打つ。どんな手か、今はまだ分からない。


月が再び雲に隠れた。


私は窓を閉め、蝋燭を吹き消して、寝台に入った。


明日は、護岸工事の現場確認がある。ニコラウスとの打ち合わせは午前十時。


──あの人は、明日も一分も遅れずに来るだろう。


その確信だけが、今の私には少しだけ眩しくて、少しだけ怖かった。

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