第4話 紙の裏側
声が出ない朝に限って、言いたいことが溢れる。
風邪だった。喉の奥が焼けるように痛くて、声にならない。昨夜から咳が止まらず、朝には声が枯れきっていた。水を飲んでも、うがいをしても、喉の奥で何かが腫れ上がって、音を通さない。
技師にとって声が出ないのは致命的だ。現場で指示が出せない。報告ができない。設計の意図を伝えられない。
けれど約束は十時だ。
十時に伺います、と言った。言ったからには行く。一分も遅れない。声が出なくても。熱があっても。それだけが、この五年間で私が守り続けた唯一のものだ。
書簡の返信も、視察の日程も、全て、約束した時間に、約束した通りに。時間の正確さだけが、私にできる誠実だった。言葉にできないものの代わりに──時計が、私の気持ちを語っていた。
◇
作業場の扉を開けた。
カタリーナ殿が机に向かっていた。図面を広げて、ペンでメモを取っている。窓から差す午前の光が、指先のインク跡を照らしている。髪の一筋が額に落ちかかっていた。
──カタリーナが。
名前で呼ぶのは頭の中だけだ。声に出したことはない。「カタリーナ殿」。殿をつける。いつも。技師として。公式に。一線を越えないように。
声が出ないことをジェスチャーで伝えた。喉を指差し、首を横に振る。カタリーナ殿が少し目を丸くした。それから、ばつの悪そうな顔をした、と思ったのは、私の顔がよほどひどかったからだろう。
「……風邪ですか」
頷いた。
「お帰りになった方が、」
首を横に振った。鞄から紙とペンを取り出し、さらさらと書く。
『流速データの照合が残っています。今日中に終わらせたい』
カタリーナ殿の目が、一瞬だけ、柔らかくなった。呆れているのか、感心しているのか。
(声が出ないのに来た、と思っているのだろう。──当たり前だ。約束したのだから)
「分かりました。では、筆談で進めましょう」
机に図面を広げた。いつも通り、カタリーナ殿の側から読める向きに。私は逆向きの図面を読む。五年間、一度も変えていない配置だ。
筆談が始まった。
『合流点の流速、先月比で三パーセント増。降雨量の影響。設計上の許容範囲内』
「三パーセント。護岸への負荷は?」
『導流堤が機能している限り問題なし。ただし冬季の凍結融解で目地が緩む可能性あり。一月に再点検を推奨』
ペンの音だけが作業場に響く。声はない。私の咳き込む音すら、我慢して止めている。この静けさの中で、ペンが紙を擦る音と、カタリーナ殿の声だけが交互に重なる。
不便ではなかった。
五年間の書簡がそうだった。紙の上の数字と文字だけで、堤防を守り、水門を運用し、治水を設計した。声を交わすようになったのは、この一年のことだ。それ以前の五年間はずっと、こうだった。
声がなくても通じる。数字と図面の上では。
(この人と数字を並べている時間だけが、)
、考えるな。仕事だ。
◇
昼前。照合が一通り終わった。
咳き込んだ。声にならない咳だ。肩が揺れる。喉に負担をかけまいとしているのに、体が勝手に反応する。
「少し待っていてください」
カタリーナ殿が作業場を出ていった。足音が廊下を遠ざかり、厨房の方向に消えた。
しばらくして戻ってきた。湯気の立つ杯。甘い匂いと、少しだけ苦い匂い。
「どうぞ。喉に効きます」
セイヨウニワトコと甘草の根。辺境伯領にいた頃、領民の子供が風邪をひくたびに作っていた薬湯だという。
杯を受け取った。一口含んだ。
苦い。
顔に出たらしい。カタリーナ殿が口元を押さえている。笑いをこらえている。
、紙を引き寄せた。感想を書こうとした。「ありがとう」と。「苦いけど温かいです」と。
指が勝手に動いた。
『この薬湯の薬草、クレン河の上流に自生しています。夏に採取すれば来年分を備蓄できます』
書いてから、自分で呆れた。
薬湯の感想が、薬草の採取計画。何をやっているのだ。感謝の言葉より先に、自生地の地理情報が出てくる。技師の脳はどうなっているのか。
(「ありがとう」が書けない。五年間の書簡でも書けなかった。「お体を大切に」の遠回しな表現しか。この不器用さは、治るのだろうか)
カタリーナが笑った。声に出して。
「ヴェーバー技師。薬湯を飲んだ感想が、薬草の採取計画ですか」
困った。笑われている。けれどあの笑顔は、仕事の微笑みではなかった。おかしくて笑っている。目が細くなって、口元に皺が寄って。本当に楽しそうに。
もう一度あの笑顔が見たい、とは思わなかった。思わなかったことにした。
『技師なので』
カタリーナがまた笑った。
「来年の夏に、採りに行きましょうか」
ペンが止まった。
来年の夏。一年先の約束。二人で。河の上流に。薬草を採りに。
(、それは、約束だ)
いつもの「明日の十時」ではない。もっと先の、もっと長い約束。技術報告とは関係のない、仕事ではない約束。
紙に書いた。
丁寧に。とても丁寧に。今日の筆談の中で、一番きれいな字で。
『はい』
◇
カタリーナが作業場を出た後。
筆談の紙を整理していた。流速データ。計算式。薬草の話。一枚ずつ揃えていく。技師の几帳面さで。
最後の一枚を裏返した。
何も書かれていないはずの裏面に、インクの跡があった。
「カタリーナ」
自分の筆跡だった。
いつ書いたのか分からない。流速データを照合している間に、ペン先が紙の裏に触れていたらしい。無意識に。数字を追いかけている表の指と、名前を書いている裏の指が、同時に動いていた。
もう一度書いてあった。少し大きく。
「カタリーナ」
三度目は、小さく。躊躇うように。消えかけのインクで。
「カタリーナ」
声が出ない日に、声に出せない名前を、紙の裏に書いていた。
五年間、「カタリーナ殿」としか呼んだことがない。書簡でも。打ち合わせでも。一度も敬称を外したことがない。
けれど紙の裏でなら。声の出ない日なら。呼べた。
敬称のない、ただの名前を。
(声が出ない日は、指が正直になる)
紙を裏返して、他の紙と一緒に重ねた。捨てるべきだろう。マルタ殿が片づけに来る前に。
、捨てなかった。
そのまま紙の束に混ぜて、机の上に置いた。表は流速データ。裏は名前。同じ紙の、表と裏。技師の仕事と、技師ではない私が、同じ一枚に重なっている。
明日は声が戻るだろう。戻ったら、また「カタリーナ殿」と呼ぶ。いつも通りに。殿をつけて。一線を越えないように。
紙の裏は、紙の裏のままでいい。
けれど薬湯の苦みが、まだ喉に残っていた。苦いのに、温かい。
、来年の夏に、と言ってくれた。
あの約束だけは、紙の裏ではなく、表に書かれている。




