第1話 マルタの十年
奥様は泣かなかった。
十年間、一度も。
代わりに、私が泣いた。全部。残らず。一滴も残さず。
◇
お仕えしたのは、あの方が十八の朝からだ。
銀木犀の門の前。秋の匂いがしていた。舌の奥に甘さが残るような匂い。地面に落ちた花弁が朝露に濡れて、金色に光っていた。花弁を踏むたびに、甘い匂いが靴の底から立ちのぼる。
アルブレヒト様が「体に気をつけなさい」と短く仰った。伯爵様は言葉の少ない方だ。少ないくせに、一言一言が鉛みたいに重い。
カタリーナ様は振り返らなかった。白い花嫁衣装の背中が、馬車の暗がりに吸い込まれていく。
泣いた。なんで泣いたのかは分からない。嫁入りだ。おめでたいことのはず。なのに鼻の奥がつんとして、涙が勝手に出た。まるで銀木犀の匂いが涙腺に直結しているみたいに。
(……侍女の仕事内容に「代理で泣く」はなかったはずだけれど)
辺境伯領に着いた日。広い屋敷。硬い椅子。暖炉に火が入っていたのに、空気だけが妙に冷たかった。廊下を歩くと足音だけが響いて、足音が壁に跳ね返って、もう一人の自分が隣を歩いているみたいだった。人の体温が足りない屋敷。
ルートヴィヒ様は笑顔で出迎えてくださった。余裕があって、温かくて、何も心配いらないと思わせる完璧な笑顔。
磨きすぎた銀食器みたいだった。光っているのに、触ると冷たい。
三日後にはもう、王都に発たれた。
「出張だ。月末には戻る」
カタリーナ様は「お気をつけて」と微笑んで、それから執務室の椅子に座った。
帳簿を開いた。
嫁いで三日目に。帳簿を。
(……普通じゃないわ、この方)
普通じゃなかった。最初から最後まで。ずっと。
◇
一年目。治水の専門書を取り寄せて、夜ごと蝋燭の下で読んでいた。
茶を持っていくと「ありがとう、マルタ」と言って、一口も飲まない。朝になると冷めた茶がそのまま机の上にある。蝋燭の蝋が垂れて、茶碗の縁に白い跡をつけている。灯り台の真鍮に、蝋の涙が筋を引いている。
蝋が泣いていた。奥様の代わりに。
いや、蝋が泣くわけがない。泣いていたのは私だ。温め直した茶を持っていくたびに、冷めた茶碗を下げるたびに。
奥様が飲まなくても、温め直す。それが私の仕事だ。飲まなくても、茶が温かいという事実だけは、あの執務室に置いておきたかった。冷たいものばかりの部屋にせめて一つだけ。
二年目。エーリヒ様が生まれた。ルートヴィヒ様は「よくやった」と仰って、一週間で王都に帰られた。
よくやった。
よくやったのは産んだことだけじゃない。その三日後に帳簿を開いたこと。片腕に赤ん坊を抱えて、「水門の開閉日程が明後日なの。確認しないと」と。
お乳と石鹸のやわらかい匂いと、帳簿のインクの匂いが、同じ執務室で混じっていた。赤ん坊がぐずれば乳をやり、静かになれば帳簿に戻る。背中を丸めて。蝋燭の灯りで。エーリヒ様の小さな寝息と、ペンの走る音だけが響く夜。
一人で。
泣きそうになった。泣いてはいけない。奥様が泣いていないのだから。
三年目、四年目、五年目──。リーゼ様が生まれ、堤防が整備され、識字教室が始まり、交易路が動いた。全部カタリーナ様がやった。月の半分は空席の執務室で。蝋燭を灯して。一人で。
朝五時。長靴を履いて出ていく背中を、窓から見送る。空が白みかける頃に帰ってきて、泥だらけの長靴を玄関で脱いで、子供たちに「おはよう」と微笑む。
泥の匂い。河の匂い。冷えた空気の匂い。あの匂いがカタリーナ様の朝の匂いになった。
千日以上。
私は数えていた。数えていたことは、誰にも言わなかった。数えても何も変わらない。でも、数えることだけは、できた。奥様の代わりに泣くことと、朝を数えること。それが十年間の、マルタ・ホフマンの仕事だった。
◇
あの日。
王都の馬車が、迂回した住宅街を通った。
門柱の「グラーフェンベルク」。庭を走る少年。ベンチの女性。薬指の指輪。
(あの指輪──五年前に無くしたと仰っていた、あの青い石の──)
全部、見えた。
カタリーナ様が目を閉じた。しばらく。
目を開けた時、微笑んでいた。辺境伯夫人の微笑み。十年間、どんな場面でも浮かべてきた仕事の顔。泣いてもいない。震えてもいない。ただ、目の奥が、凍っていた。
「マルタ」
窓の外を見たまま。
「帰ったら、引き継ぎ資料を作ります」
折れたのではなかった。
決めたのだ。すぐに。暗闇の中で何かが切れて、代わりに鋼の芯が据わった。あの方はいつもそうだ。壊れるのではなく、切り替える。涙が出る前に、次の仕事を決める。
泣いた。声もなく。馬車の揺れに紛れて。窓の外の住宅街がにじんで見えた。高級住宅街の白い壁が、涙でぼやけて銀食器の光みたいだった。
奥様は泣かなかった。代わりに三百二十四頁を書いた。
◇
資料の束を両手で持ち上げようとして、目を見張った。
重い。
紙の重さだけじゃない。十年分の朝五時。泥だらけの長靴。蝋燭の蝋。冷めた茶。「おはよう」の微笑み。赤ん坊の石鹸の匂い。帳簿の角を揃える指先。識字教室の子供たちの笑い声。水車小屋の老人の感謝の言葉。全部が、ここに。
「これを、全部お一人で……」
「普段やっていることを書き出しただけよ」
(嘘だわ。嘘ではないけれど嘘だわ。「普段」の量が普通じゃなかったのよ。十年間ずっと。一日も休まず)
涙がこぼれた。
「……泣かないで、マルタ」
「申し訳ございません。ただ、」
資料の束を胸に抱いた。紙とインクの匂い。蝋燭の夜の匂い。ああ、これが、カタリーナ様の十年間の匂いだ。泥と、蝋と、インクと、冷めた茶と、子供の石鹸の匂い。
「これだけのことを、十年間、お一人で」
◇
領地を去る日。広場に領民が集まっていた。朝靄の中に見慣れた顔がずらりと並んでいる。
「お母さま、行かないでください」
カタリーナ様は微笑んだ。「大丈夫です」と。いつもの微笑みだった。仕事の顔。
馬車の扉に手をかけた奥様に、言った。
「奥様は、何一つ恥じることがございません」
十年間、ずっと言いたかった言葉。朝五時の長靴。泥まみれの手。冷めた茶。赤ん坊を片腕に。一銭の狂いもない帳簿。水門を開け、堤防を直し、子供を育て、領民を守った十年間。
何一つ。恥じることは。ない。
奥様の声が、ほんの少しだけ震えた。
あの震え。十年間で唯一の弱さ。宝物のように胸にしまった。大事に。大事に。冷めた茶を温め直すように、大事に。
◇
それから。
堤防が壊れたと聞いて泣いた。噂を流されたと聞いて泣いた。査察報告の日に泣いた。条約の日も泣いた。
泣く。泣く。泣く。
(全部の涙が嬉しいものだったら、どんなによかっただろう)
そして結婚式の日。
銀木犀の下。あの朝と同じ匂いがした。十年前の朝と同じ木。同じ匂い。でも、花弁を踏む足が違う。今日は白い花嫁衣装ではない。隣にいるのは辺境伯ではなく、首の後ろまで赤くなっている技師だ。
カタリーナ様がニコラウス様の手を取った。
声を上げて泣いた。
初めてだった。嬉しくて泣くのは。十年分の涙は全部、悲しいか悔しいかやるせないかだった。今日のは違う。全部が全部、嬉しさだけでできている。
「マルタ」
「も、申し訳ございません、奥様、」
「ありがとう」
肩を抱いてくれた。温かかった。図面を引き、条約を書き、堤防を直す、強くて、あたたかい手。冷めた茶を温め直し続けた十年間の果てにようやく触れた、奥様の温かさ。
「……十年間、ありがとう」
声にならないことを言った。何を言ったのか自分でも分からない。
(聞こえなくてよかった。聞こえたら奥様も泣いてしまう)
奥様は泣かない人だ。
だから私が泣く。十年前も。今日も。これからも。
奥様の代わりに。奥様の分まで。
涙だけは引き継ぎ資料に、書けないものだから。




