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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第5章

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第10話 風が渡る場所で


テオの長靴は、まだ新しかった。


革の色が明るい。履き慣れていない。足首のあたりが少しだけ大きくて、歩くたびにかぽかぽと音がする。


「テオ、こっち!こっちー!」


リーゼが玄関の階段を駆け下りてきた。マルタの「走らないでくださいまし」が追いかけてくる。追いつかない。リーゼの足の方が速い。十歳の足は、いつだって大人より速い。


テオが馬車から降りた。その後ろから、エーリヒが降りた。


春の光がまぶしかった。リンデン伯爵邸の中庭に、水仙が咲いている。二ヶ月前の冬には何もなかった花壇に、黄色い花が揺れている。


「テオ、おひさしぶり!あのね、つくったの!」


リーゼが両手を差し出した。


花冠。


水仙と蜂蜜草を編んだ、小さな花冠。不格好だった。花の向きが揃っていない。茎が一本飛び出している。けれど蜂蜜草の甘い匂いがした。


「テオのぶんもつくったー!」


テオの手が、ゆっくりと伸びた。


花冠を受け取った。


両手で持って、見つめた。蜂蜜草の匂いを嗅いだのだと思う。鼻がほんの少し動いた。


テオが──笑った。


嬉しい時だけ笑う。本を読む時に笑う。蝶を見つけた時に笑う。あの笑い方だ。唇の端がほんの少しだけ上がって、目が細くなる。大げさではない。小さい。けれど本物の、嬉しさだけでできた笑顔。


「……ありがとう」


テオの声は小さかった。


リーゼは満足そうに頷いて、エーリヒの腕を引っ張った。


「エーリヒのぶんもあるよ!へやにおいてある!」


「……僕のは後でいい」


エーリヒは苦笑していた。けれどその目は、テオの花冠を見ていた。テオが笑ったのを、見ていた。


私は玄関に立ったまま、三人を見ていた。


テオ・グラーフェンベルク。


その名前が、学園の記録に刻まれている。認知書類に、テオ自身の手で書かれている。もう「メルツ」ではない。もう「名前のない子供」ではない。


花冠をかぶったテオが、新しい長靴をかぽかぽ鳴らして、リーゼの後を追って中庭に入っていく。


──よかった。


それ以外の言葉が、見つからなかった。



午後。作業場。


ニコラウスがテオを呼んだ。


「堤防を見に行かないか」


テオの目が、ぱっと開いた。


「……いいのですか」


「設計図がある。見るか」


テオが頷いた。小さく、けれど速く。


ニコラウスが図面を広げた。クレン河の下流域。堤防の断面図。石積みの配置。導流堤の角度。テオの目が図面の上を走った。指が、等高線をなぞった。


「この線は──」


「河床の勾配だ。ここから下流に向けて千分の三で下がる」


「千分の三」


テオが数字を繰り返した。目が輝いている。本を読む時の目だ。植物図鑑の頁をめくる時と同じ目。けれど、もっと──もっと明るい。


「テオ」


ニコラウスの声が、少しだけ柔らかくなった。


「お前の目は、数字を読む目だ」


テオが顔を上げた。


「堤防は数字でできている。勾配と石の大きさと水量の計算で、壊れない壁を作る。──お前に向いていると思う」


ニコラウスが図面の隅を指した。


「ここに、公国技師見習いの応募要項をまとめてある。卒業後の選択肢の一つとして、見ておけ」


テオが図面の隅に目を落とした。


私も見た。


応募要項の隣に──余白があった。


ニコラウスの字。小さな字。いつもの、図面の余白に書く癖。


『カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙。テオの紅茶にも半匙。』


息が止まった。


いつから書いてあったのだろう。いつから、この人はテオの分の蜂蜜を数えていたのだろう。


図面の余白。この人が数字を書く場所。設計図を引く場所。勾配と水量と石の配置を計算する場所に──蜂蜜の分量が書いてある。


半匙。


私と同じ。テオにも、同じ半匙。


(……この人は)


ニコラウスはテオに図面の説明を続けていた。等高線の読み方。石積みの原理。声は低く、簡潔で、いつも通りだった。蜂蜜のことなど何も言わない。紅茶のことも言わない。


言わない。


図面の余白に書いただけだ。数字で書いただけだ。


それが、この人の──


「ニコラウス」


声をかけた。


ニコラウスが振り向いた。


何か言おうとした。「蜂蜜」と言おうとした。「ありがとう」と言おうとした。「あなたは最初からテオを家族にするつもりだったのですね」と言おうとした。


──言わなかった。


「紅茶を淹れますね」


「ええ」


「テオの分も」


「──ええ」


ニコラウスの声が、ほんの僅かだけ低くなった。いつもの「ええ」より、半音だけ低い。


それだけで、わかった。


テオの紅茶にも蜂蜜半匙。この人はそれを、ずっと前から設計していた。



夕方。


六人で堤防の上を歩いた。


カタリーナ。ニコラウス。エーリヒ。リーゼ。テオ。マルタ。


リーゼが両手でカタリーナとニコラウスの手を繋いでいた。左手がカタリーナ、右手がニコラウス。腕を大きく振って歩く。長靴が石の上でぱたぱた鳴る。


テオがエーリヒの隣を歩いていた。花冠がまだ頭に乗っている。少し傾いている。蜂蜜草が一本、耳のあたりに垂れている。


「テオ、はなかんむりずれてるよ」


「……いい。このままでいい」


テオの声は、朝より少しだけ大きくなっていた。


エーリヒが黙ってテオの花冠を直した。傾きを正して、蜂蜜草を耳の後ろに挟み直した。テオは何も言わなかった。エーリヒも何も言わなかった。


マルタが少し後ろを歩いていた。六人分の影が、堤防の上に長く伸びている。春の夕日が低い。影が河の方に向かって伸びている。


風が吹いた。


追い風だった。


背中から吹いて、前に押す風。堤防の石を撫でて、河面を渡って、向こう岸の畑に届く風。


あの秋の日、五人で堤防を歩いた。あの日も追い風だった。今日は六人だ。一人増えた。テオが──ここにいる。


新しい長靴をかぽかぽ鳴らして、花冠を頭に乗せて、エーリヒの隣を歩いている。


遠くの丘の稜線に──


人影が見えた。


見えた、気がした。


目を凝らした。夕日が丘の上を焼いていて、輪郭がぼやけている。人かもしれない。木かもしれない。風に揺れる何かかもしれない。


もう見えない。


見えなくていい。


「おかあさま、はやくー!」


リーゼの声が風に乗った。


「いま行くわ」


歩いた。


テオが堤防の上で立ち止まって、河を見ていた。夕日が水面を染めている。テオの目が光を映していた。名前のある子の目だ。自分の手で名前を書いた子の目だ。


「テオ、行こう」


エーリヒが言った。


「──うん」


テオが歩き出した。


六人の足音が、堤防の上に重なった。石を踏む音。長靴の音。マルタのスカートの裾が風に鳴る音。リーゼの笑い声。


風が渡っている。


追い風。


全員の名前を知っている。全員の名前を呼べる。全員の名前が、どこかに刻まれている。堤防の銘板に。学園の記録に。条約の書面に。図面の余白に。紅茶の蜂蜜の、半匙の中に。


テオの長靴が、かぽかぽと鳴った。


──追い風だった。

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