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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第5話 崩れた堤防


報せは、穏やかな朝食の席に届いた。


パンに蜂蜜を塗っていたリーゼが「おじいさま、おかわり」と手を伸ばし、エーリヒが歴史書を片手に紅茶を飲んでいる。父アルブレヒトがリーゼの皿にパンを載せてやりながら、「行儀よく食べなさい」と穏やかに叱る。


実家に戻って三ヶ月。ようやく、この食卓が日常になりつつあった。


侍従が駆け込んできたのは、そんな朝だった。


「伯爵閣下。至急の報せでございます。辺境伯領より——」


父が封書を受け取り、目を通した。眉間に皺が刻まれる。私を見た。


「カタリーナ」


その声の響きだけで、分かった。


封書を受け取る。文面は短かった。辺境伯領の筆頭家臣クラウスの名で、近隣の領主経由で届いたもの。


『春季増水によりラウシュ河の堤防が決壊。被害甚大。農地の約三割が冠水。穀物倉庫二棟が損壊。交易路の一部が寸断——』


文字を追う目が、途中で止まった。


ラウシュ河の堤防。南東の屈曲部。


知っている。あそこは毎年春に水圧が集中する。護岸の石積みが内側から押されて膨らむ箇所があり、冬のうちに裏込め材を補充しなければ持たない。引き継ぎ資料の治水の章、三十二頁目に書いた。図面も添えた。補修に必要な資材の量と、発注先の石材商の名前まで。


「……そうですか」


声に出したのは、それだけだった。


リーゼが蜂蜜のついた指で私の袖を引いた。


「おかあさま、どうしたの?」


「なんでもないわ、リーゼ。パンを食べなさい」


エーリヒが本を閉じて、私の顔を見ていた。九つの目は鋭い。何かを察したのだろう。けれど何も聞かなかった。この子は聞かなくていいことを聞かない子だ。誰に似たのか——私だ。


父が「子供たちは先に部屋へ」とマルタに目配せし、私と二人になった。


「……堤防か」


「はい。毎年、冬の終わりに点検と補修を行っていました。今年は——行われなかったようです」


「引き継ぎ資料には」


「書きました。手順も、時期も、資材の発注先も」


父は何も言わなかった。言う必要がなかった。書いてあっても、読んで実行する人間がいなければ紙は紙だ。


朝食室の窓から、春の陽光が差し込んでいる。穏やかな朝。こちらの川は、まだ静かだ。


(あの堤防は、私が七年かけて築いた)


最初の年は何もわからなかった。治水の専門書を取り寄せ、夜ごと読み漁り、ヴェーバー技師に書簡で質問を送った。二年目に最初の補修計画を立てた。三年目に石積みの工法を変えた。四年目に上流村との水利協定を結び直した。五年目にようやく「これで増水期も耐えられる」と確信を持てた。


それが、三ヶ月で壊れた。


(引き継ぎ資料は渡した。水門の点検手順も書いた。実行しなかったのは、私の責任ではない)


言い聞かせた。正しいはずだ。


なのに、胸が痛む。


領民たちの顔が浮かぶ。堤防工事を一緒に進めた若い農夫。水車小屋の老人。毎年春になると「お母さま、今年も大丈夫ですか」と聞きに来た、パン屋のおかみ。


あの人たちの畑が、今、水の下にある。


「……お父様。私はここの仕事に戻ります」


立ち上がった。座っていると、考えなくていいことまで考えてしまう。


「ああ。——無理はするな」


父の声を背中に受けて、朝食室を出た。



クレン河の現場に出たのは、その日の午後だった。


導流堤の設計が大詰めを迎えていた。合流点の角度を変えるための石積みの配置を、ニコラウスと二人で検討している。現場には作業員が五名。護岸の仮補修を進めながら、本工事の段取りを組む。


「この位置に導流壁を入れると、合流角度が約十五度緩くなります。護岸への衝撃は——」


「計算上は六割減。ですが実際の水流は計算通りにいきませんから、安全率を見て壁の厚さを二割増しにしたい」


「同意します。石材の追加発注は——」


「手配済みです。昨日のうちに」


ニコラウスがわずかに目を見開いた。


「……早いですね」


「辺境伯領で覚えました。資材の手配は一日遅れると工期が一週間延びる」


口に出してから、少しだけ胸が軋んだ。辺境伯領。あの領地で身につけた技術が、今ここで役に立っている。皮肉だと思うべきか、それとも——


「カタリーナ殿」


ニコラウスの声で、思考が途切れた。


「空が暗くなってきました。一度——」


言い終わる前に、降り出した。


春の通り雨。前触れもなく、一気に来る。


私は反射的に図面を抱えた。三ヶ月分の設計作業が描かれた大判の図面。雨に濡れたら、インクが滲んで使い物にならなくなる。


同じ瞬間、ニコラウスが動いた。


彼が守ったのは、私ではなかった。


自分の外套を脱ぎ、私が抱えている図面の上に被せた。外套の下で図面を庇いながら、雨に打たれる自分の肩には構わず——


「危なかった。貴方の三ヶ月分の作業が消えるところだった」


笑っていた。髪から雨が滴り落ちている。外套はびしょ濡れで、もう上着としての用をなさない。なのにニコラウスは図面が無事であることを確認して、満足そうに息をついた。


「……ヴェーバー技師。ご自身がずぶ濡れですが」


「図面は描き直せば三ヶ月。風邪は寝れば三日です」


(この人は——)


私を守ったのではない。私の「仕事」を守ったのだ。


三ヶ月分の設計。私が毎晩、蝋燭の灯りの下で線を引いた図面。あの図面が私の三ヶ月であることを、この人は知っている。


……ルートヴィヒは、知らなかった。


十年分の帳簿を、十年分の堤防を、十年分の交易路を。あの人は最後まで「妻のお遊び」くらいにしか思っていなかったのだろう。だから引き継ぎ資料の厚さに、あんな顔をした。


雨が、頬を伝った。


雨のせいだ。



雨は小半時で上がった。


作業員たちを帰し、私は書斎に戻って図面を広げた。外套のおかげで、滲みは一箇所もない。乾いた布で表面の湿気を丁寧に拭き取る。


机の隅に、見慣れない封書が置いてあった。マルタが預かっていたものだろう。ザールフェルト公国の公印——ニコラウスが公国に送る成果報告書の控えだ。次回の会議で内容を確認するため、私の机に届けてくれたらしい。


何気なく開いた。


公国河川局宛の公式報告書。リンデン伯爵領における治水協力事業の進捗について、技術的な記載が並んでいる。導流堤の設計案、護岸補修の工程表、資材の調達状況。


文面の中ほどに、目が止まった。


『——本事業の設計はリンデン伯爵家顧問カタリーナ殿の設計に基づき、当方は技術的助言を——』


私の名前が、あった。


成果報告書に。公式の文書に。設計者として。


「カタリーナ殿の設計に基づき」。


たったそれだけの一文が、視界を滲ませた。


(……当たり前のことでしょう。設計したのは私なのだから。名前を書くのは当然のこと)


当然のこと。


当然のことを、してくれる人がいる。


ルートヴィヒは——十年間、一度もそうしなかった。農地の再生も、堤防の建設も、識字教室の設立も、交易路の開拓も。全部、全部、「辺境伯ルートヴィヒの功績」として王都に報告されていたことを、この時の私はまだ知らない。


けれど、この報告書の一文が胸に刺さったのは——きっと、どこかで気づいていたからだ。


十年間、誰にも名前を呼ばれなかった仕事を、この人は名前で呼んでくれた。


涙が、一粒だけ頬を伝った。


雨はとっくに上がっていた。窓の外は晴れている。雨のせいには、もうできない。


(泣いている場合ではないでしょう。仕事があるのだから)


袖で目元を拭い、報告書の控えを元の位置に戻した。


そこへ、マルタが入ってきた。


「奥様。辺境伯領から続報が届いております」


受け取った封書の内容は、朝の報せよりさらに深刻だった。


堤防決壊により交易路の主要区間が冠水で通行不能。穀物商ブレーメ氏との春の取引が中断。領民の一部が隣領への避難を開始。


そして——報告の末尾に、こう記されていた。


『領民の間に「辺境伯夫人がおられればこのようなことには」という声が広がっており、治安維持の観点からも懸念される状況です』


報告書を机に置いた。


「お母さまがいれば」。


その言葉が、重い。嬉しいのではない。苦しいのだ。あの人たちは今、水に浸かった畑の前に立っている。私は、ここにいる。


(けれど——)


私は、引き継ぎ資料を残した。三百二十四頁。堤防の点検手順も、水門の操作方法も、全て書いた。


それを実行しなかったのは、私ではない。


その事実が、救いなのか、痛みなのか。今の私には、まだわからなかった。


書斎の窓から、夕暮れのクレン河が見える。穏やかな水面に、橙色の光が揺れている。この川は、まだ無事だ。


この川だけは、壊させない。


ペンを取り、導流堤の設計図に修正を入れ始めた。安全率二割増し。石材の追加発注は手配済み。明日の朝、ニコラウスに確認を——


(ニコラウス、ではなくて。ヴェーバー技師)


ペン先が、紙の上で一瞬止まった。


……いつから、この人のことを名前で考えるようになっていたのだろう。


その問いに蓋をして、数字を書き続けた。数字は裏切らない。水位も、流速も、石材の重量も。


今日もまた、数字に救われている。

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