第9話 名前の重さ
朝の貴族院は、昨日より静かだった。
法制委員会の部屋に入ると、委員たちは既に席に着いていた。七人。保守派三名が右側、中立派二名が中央、改革派二名が左側。昨日と同じ配置。だが──昨日と同じではなかった。
中立派の一人が、手元にエーリヒの書面を広げていた。昨夜、読み直したのだろう。頁の端に鉛筆の書き込みがある。
もう一人の中立派は、ダールベルクの意見陳述の記録を見ていた。
保守派の三名のうち──ブルクハルトの隣に座る男が、窓の外を見ていた。目がここにない。昨日のダールベルクの「記録に残っている」が、この男の中でまだ響いているのだ。
ブルクハルト男爵が入室した。
法服の襟は整っている。歩き方も変わらない。だが目が──目だけが、昨日と違った。一ヶ月前の「法の番人」の目ではない。何かを測っている目。退路を探す目。
「採決に入ります」
ブルクハルトの声は平静だった。だが、昨日のように反対弁論を展開しなかった。追加の論点も出さなかった。
「法の安定性に関する懸念は、昨日申し上げた通りです。委員諸氏には慎重な判断を求めます」
──それだけだった。
一ヶ月前、「法の濫用」と言い切った男が。昨日、「法の安定性」で押し返そうとした男が。今朝は「慎重な判断を」としか言わなかった。
(……折れかけている)
折れてはいない。だが、曲がっている。ダールベルクの一言が、帳簿の存在が、この男の足元を揺らしている。
「それでは、『旧領地住民の法的保護に関する特別認知制度の設立について』の採決を行います」
ブルクハルトが採決を宣言した。
「賛成の委員は挙手を」
手が上がった。
改革派の二人。──予想通り。
中立派の一人。──昨夜エーリヒの書面を読み直していた委員。迷いのない手だった。
中立派のもう一人。──ダールベルクの記録を見ていた委員。少し遅れて、しかし確かに。
四人。過半数。
──もう一つ、手が上がった。
保守派の一人。ブルクハルトの隣に座っていた男。窓の外を見ていた男。その手が、ゆっくりと上がった。
五人。
「賛成五。反対──」
ブルクハルトが声を出した。
「反対の委員は挙手を」
ブルクハルト自身の手が上がった。そして保守派のもう一名。
「反対二」
沈黙が一瞬あった。
「賛成多数により、本改正案は可決とします」
ブルクハルトの声は、最後まで平静だった。だがペンを置く音が、少しだけ大きかった。
可決。
特別認知制度が、可決された。
◇
採決の後、ダールベルク伯爵が別の書面を委員会に提出した。
「旧辺境伯領における農地売買記録に関する査察要請です。貴族院議員として正式に提出します」
ブルクハルトの手が、机の上で止まった。
「……受理します」
それだけだった。受理しないという選択肢は、もうなかった。法制委員会の委員長が農地の不正取得に関わっている疑いがある以上、査察要請を拒否すれば、それ自体が新たな問題になる。
ダールベルクは書面を置いて、部屋を出た。
私と目が合った。
ダールベルクは頷いた。小さく。あの日、旧辺境伯領の復興完了宣言の後に「人間として認めさせていただく」と一礼した時より、もっと小さな頷きだった。
けれど、重かった。
自分の判断で動いた男の、自分の判断に対する頷きだった。
◇
貴族院を出た。
十一月の王都は寒い。吐く息が白い。石畳が冷たい。空は高く、雲が薄い。
ニコラウスが隣を歩いていた。
何も言わなかった。昨夜の手の温もりが、まだ指先に残っている気がした。けれど今は昼で、王都の通りで、人が行き交っている。手を繋ぐ場所ではない。
──肩が触れた。
ニコラウスの肩と、私の肩。歩幅が違うから、時々触れて、時々離れる。触れる。離れる。触れる。
「帰りましょう」
私が言った。
「ええ」
ニコラウスが答えた。
それだけだった。それだけで十分だった。
あの馬車の中の沈黙とは違う。正論が通らなかった日の沈黙ではない。今日の沈黙は、言葉がいらない沈黙だ。数字が正しかった。制度が動いた。子供の名前が、一つ守られようとしている。
肩が触れた。離れた。また触れた。
王都の通りを、二人で歩いた。
◇
リンデン伯爵邸に戻ってから三日後。エーリヒから手紙が届いた。
早馬だった。
『母上。
テオの認知手続きの書類が、学園に届きました。
王家の特別認知。認知者欄には「血縁者:ルートヴィヒ・グラーフェンベルク」と記載されています。「認知した父」ではなく「記録上の血縁者」です。
テオは書類を読みました。全部、読みました。時間をかけて。
それから、署名欄にペンを入れました。
「テオ・グラーフェンベルク」
自分の手で、書きました。
ペンを持つ手が震えていました。でも字は震えていませんでした。あの子の字は、いつも通りまっすぐでした。
書き終わった後、テオは顔を上げました。僕を見ました。
笑っていました。
嬉しい時だけ笑う、あの笑い方で。
母上。テオの名前は、テオが決めました。』
手紙を膝に置いた。
指が震えていた。
テオ・グラーフェンベルク。
あの子が、自分の手で、自分の名前を書いた。
「僕の名前は、誰が決めるのですか」と聞いた子が。自分で決めた。自分の手で書いた。震える手で、震えない字で。
──ああ。
目頭が熱かった。
(泣くな。まだ泣くな。あの子は笑ったのだ。笑ったなら、私も笑え)
笑った。
たぶん、うまく笑えてはいなかった。けれど笑った。
◇
安宿の窓は、今日も丘を映さなかった。
俺はテオへの手紙を書いていた。何通目か、もう数えていない。
『テオへ。
お前の名前が変わると聞いた。
グラーフェンベルクという名前は──もう、お前のものだ。俺のものではない。
俺がその名前を持っていた時、俺はその名前に何もしなかった。堤防を直さなかった。帳簿を書かなかった。お前の名前を、呼ばなかった。
お前はその名前で、俺とは違うことをするだろう。
蜂蜜パンは好きか。前の手紙でも聞いた。返事はまだ来ていない。来なくてもいい。
ルートヴィヒ・グラーフェンベルク』
ペンを置いた。
──ルートヴィヒ・グラーフェンベルク。
同じ名字を、テオが名乗る。俺が何もしなかった名字を、あの子が自分の手で書いた。
認知書類の認知者欄には、俺の名前があるという。「記録上の血縁者」として。「認知した父」ではなく。
当然だ。
認知したのは王家だ。俺ではない。俺には資格がなかった。爵位を失い、「フォン」を失い、認知の資格を失った。十年間何もしなかった男に、残されたものは何もなかった。
──手紙だけだ。
手紙を書くことだけは、できる。
封をした。明日、出す。
窓の外を見た。丘は見えない。堤防も見えない。銘板も見えない。
けれど、どこかで──テオが笑っているかもしれない。
嬉しい時だけ笑う、あの笑い方で。
俺には見えない。見えなくていい。
笑っているなら、それでいい。




