第8話 数字で殴る日
「特別認知制度の設立に関する改正案について、提案者の説明を求めます」
ブルクハルト男爵の声が、法制委員会の部屋に響いた。
一ヶ月前と同じ部屋。同じ長机。同じ委員長席。同じ天井の低さ。けれど空気が違う。前回は私一人が提案者席に座っていた。今日は傍聴席にニコラウスだけでなく、ダールベルク伯爵の姿がある。
立ち上がった。
提案書を手に取った。一ヶ月かけて磨き上げた改正案。条約の論理構造。先例の新解釈。血縁情報の裏付け。──全てが、この束の中にある。
「本提案は、クレン河流域治水協力条約第七条に基づき、旧領地住民の法的保護の一環として、爵位剥奪後の旧当主の血縁者に対する王家の特別認知制度を設立することを求めるものです」
帳簿と同じ声。数字を読む声。感情を乗せない声。
「前回の審議において、委員長より百八十年前のヴェルデンフェルス伯爵の件は『戦時特例』であるとのご指摘をいただきました。本日は、この先例について新たな解釈を提出いたします」
エーリヒの書面を、委員に配った。学園から送付された封筒に入っていた、あの子の字。十三歳の手が、二百年分の記録を読み込んだ末に辿り着いた結論。
「ヴェルデンフェルス伯爵の庶子認知記録の備考欄には、確かに『戦時特例として処理』と記されています。しかし、認知の法的根拠として引用されている条文は、戦時特別法ではありません」
部屋が静かになった。
「引用されているのは、当時の王家家政法第十二条──『王家の裁量による身分の認定および変更に関する規定』です。この条文は戦時に限定されたものではなく、平時においても王家の裁量権の範囲内で適用可能です」
委員の一人がエーリヒの書面をめくった。もう一人が、手元の法典を開いた。
「すなわち、ヴェルデンフェルスの件は『戦時だから認められた例外』ではなく、『王家の裁量権に基づく認知』の先例です。戦時特例との付記は、当時の事務官の記録上の分類に過ぎず、法的根拠そのものは平時にも有効です」
私は提案書を閉じた。
「以上が、先例に関する新たな解釈です」
沈黙が三秒あった。
ブルクハルト男爵が口を開いた。
「提案者の解釈は承知しました」
声は平静だった。一ヶ月前と同じ、低く区切りのある話し方。
「しかし、法の安定性という観点から申し上げる」
男爵が立ち上がった。委員長席から一歩前に出た。法服の襟が揺れた。
「王家の裁量権は、濫用されてはなりません。百八十年前の一件を根拠に新制度を設立すれば、今後あらゆる法的変更が『王家の裁量』の名の下に正当化される。これは制度の根幹を揺るがす」
重い言葉だった。「法の安定性」。委員の何人かが頷いた。保守派の論理は、こういう時に強い。変えないことの正しさは、変えることの正しさより証明が簡単だ。
「認知制度は百八十年間、改正されていません。それは欠陥ではなく、安定です。安定を崩す根拠としては──」
「男爵」
私は声を上げた。
ブルクハルトの目が、私を見た。
「法の安定性は、重要です。それは私も認めます」
一歩。声を落とさない。数字を読む声のまま。
「しかし、百八十年間改正されなかったのは、安定ではなく放置です」
ブルクハルトの唇が、ほんの僅かに動いた。
「現行制度では、爵位剥奪後の血縁者に認知の道がありません。条文にも手続きにも、彼らの存在を想定した規定がない。それは法が安定しているのではなく、法がその人々を見ていないのです」
「──制度の不備を改正するのは立法の役目であり、裁量権の濫用ではありません。先例はその根拠として提示しています」
委員の一人がペンを動かした。記録を取っている。中立派の委員だ。
ブルクハルトが反論しようと口を開いた、その時──
「発言を求めます」
傍聴席から、声がした。
ダールベルク伯爵が立ち上がっていた。
「ダールベルク伯爵。傍聴者の発言は通常認められませんが──」
ブルクハルトの声に、僅かな硬さが混じった。
「貴族院議員として、関連事案に対する意見陳述の権利を行使します」
ダールベルクの声は落ち着いていた。法制委員会の規則上、貴族院議員には関連事案への意見陳述権がある。ブルクハルトもそれを知っている。拒否する法的根拠がない。
「──許可します」
「感謝します」
ダールベルクは一歩前に出た。委員たちの顔を一人ずつ見た。それからブルクハルトを見た。
「法の安定性について、私も一言申し上げたい」
声が低くなった。
「法の安定性は大切だ。それは同意する。だが──」
ダールベルクの目が、ブルクハルトを射た。
「法の安定性は、不正の安定を守るためにあるのではない」
部屋の温度が、変わった。
ブルクハルトの手が──動いた。机の上の書類に触れた。無意識の動作だろう。何かを隠すように。何かを押さえるように。
「旧辺境伯領の崩壊後、いくつかの土地取引が行われたことは、記録に残っています」
ダールベルクは書類を出さなかった。数字を読み上げなかった。帳簿を開かなかった。
ただ、言った。
「記録に、残っています」
それだけだった。
ブルクハルトの顔色が変わった。
白くなったのではない。赤くなったのでもない。──色が抜けた。一瞬だけ、表情のない顔になった。法服の襟を正す動作が、いつもより早かった。
「……ダールベルク伯爵の意見陳述を記録に留めます」
ブルクハルトの声は平静に戻っていた。だが、その平静は一ヶ月前のものとは違った。硬い。脆い硬さだ。力を入れすぎた石積みのような。
「本日の審議はここまでとし、採決は明日に持ち越します」
委員が席を立ち始めた。
ダールベルクが私の傍を通り過ぎる時、小さく頷いた。それだけだった。言葉はなかった。
私も頷き返した。
──記録に残っている。
ダールベルクは、農地の帳簿を見せなかった。数字を読み上げなかった。ただ「記録に残っている」と言った。それだけで、ブルクハルトの顔から色が抜けた。
帳簿は嘘をつかない。そして帳簿の存在を知られたことも、嘘にはできない。
◇
王都の宿。
審議の後、ニコラウスと二人で宿に戻った。部屋は一つ。夫婦だから当然だが、王都の宿で二人きりになるのは久しぶりだった。
窓の外は暗い。十一月の王都は、リンデン伯爵領より夜が早い。
ニコラウスが窓際に立っていた。外を見ているようで、見ていないようで。ガラスに映る自分の顔を見ているのかもしれない。
「明日の採決、どう見ますか」
「委員の反応から推測すると、中立派二名は賛成に回る可能性が高い。改革派二名と合わせて四票。過半数です」
「ブルクハルトは」
「反対するでしょう。しかし、彼の票を入れても反対は三票が上限です。保守派の残り一名がダールベルクの発言をどう受け取ったかによりますが──」
ニコラウスが窓から離れた。
「──勝てます」
静かな声だった。
私は椅子に座ったまま、ニコラウスを見上げていた。この人の横顔を。蝋燭の光が片側だけを照らしている。巡回で日に焼けた肌。細い目。数字を読む目。図面を引く目。
──あの目が、私を見た。
ニコラウスが、私の前に立った。
手が動いた。
今度は、引かなかった。
私の手を──握った。
ニコラウスの手は温かかった。作業場の手だ。ペンを持ち、図面を引き、堤防の石を触る手だ。大きい。けれど力は入っていない。触れるだけ。包むだけ。
「計算式はない」
ニコラウスが言った。
「これが正しいかどうか、数字では出せない」
「……」
「だが、これが正しいと思う」
あの河岸で、この人は言った。「堤防のある場所にいたい。カタリーナのいる場所に堤防がある」と。あれは技師の語彙だった。堤防と設計図の言葉だった。
今夜の言葉は、違う。
計算式がない。数字がない。根拠がない。──この人が最も苦手とする種類の言葉だ。根拠のない言葉。証明できない言葉。
それを、この人は言った。
手を握ったまま。
引かずに。
「……正しいです」
私の声は、自分で思ったより小さかった。
「計算式はなくても、正しいです」
ニコラウスの手に、ほんの少しだけ力が入った。
蝋燭の光が揺れていた。二人の影が壁に伸びて、重なっていた。
明日、採決がある。ブルクハルトが最後の抵抗を試みるだろう。
けれど今夜は、この手の温かさだけを信じていい。計算式のない温かさを。
窓の外で、風が止んでいた。嵐の前の静けさではない。嵐の後の、静けさだった。




