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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第5章

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第1話 名前のない卒業


エーリヒの手紙は、いつもより長かった。


いつもなら便箋二枚。近況報告と、テオの様子と、最後に「お体に気をつけて」の一文。あの子なりの、きっちり折り畳まれた優しさ。


今日届いた手紙は、四枚あった。


『母上。


学園の進路指導室で、就職斡旋の条件一覧を確認しました。斡旋を受けるには「正式な姓」の提出が必須です。通称使用では、学園からの推薦状に記載できる範囲が限られます。


テオは「メルツ」のまま卒業すると、平民枠の就職先しか選べません。


テオは何も悪いことをしていません。


それなのに、名前が壁になっています。


条約の第七条を読み直しました。「管理地域の住民の法的保護」という条項があります。テオは旧辺境伯領で生まれた住民です。この条項が使えないか、まだ調べている途中です。


取り急ぎ、ご報告まで。』


──四枚⽬の最後に、エーリヒの字が少し乱れていた。


「テオは何も悪いことをしていません」の一行だけ、筆圧が違う。あの子が感情を字に出すことは、めったにない。


便箋を机に置いた。


秋の陽が書斎の窓から差して、手紙の端を暖めている。半年前、この窓から追い風を受けて薬草採りに出かけた。あの日、テオは蜂蜜パンを三切れ食べて、エーリヒの隣で本を読んでいた。嬉しい時だけ笑う子。


その子が、名前に阻まれている。


通称の「テオ・グラーフェンベルク」は学園の中では通る。だが学園の外──就職斡旋の書類、身分証明、法的な届出──は、全て「正式な姓」を求める。テオの正式な姓は「メルツ」。ロゼッタの旧姓だ。


庶子認知。


この手続きを経なければ、テオは「グラーフェンベルク」を名乗れない。そして庶子認知の申請資格は、爵位を有する当主にのみ認められている。


ルートヴィヒに、爵位はない。



作業場に入ると、ニコラウスが図面を広げていた。


クレン河の下流域の測量図。秋の増水期に向けた点検計画を組んでいるのだろう。図面の端に、何か小さな文字が並んでいるのが見えたが、私の目は手紙の内容でいっぱいだった。


「エーリヒから手紙が来ました」


椅子に座りながら言うと、ニコラウスは図面から顔を上げた。


「テオの進路ですか」


「──知っていたの?」


「通称使用には限界があります。卒業後の法的手続きでは、正式な姓が必要になる」


知っていた。この人は知っていた。


(……なんで先に言ってくれないのだろう)


いや、違う。言わなかったのではなく、私が自分で気づくのを待っていたのだ。ニコラウスはいつもそうだ。答えを先に渡さない。問いが生まれる場所を、黙って整えておく。


「技師見習いであれば、姓は問わない」


ニコラウスが言った。私は一瞬、息を止めた。


「ザールフェルト公国の制度では、技術職の採用に出自証明は求められません。テオの適性は──」


「──待って」


私は手を挙げた。


「公国の制度はこの国では通用しない。テオがこの国で生きていくなら、この国の制度の中に道を作らないと」


ニコラウスは黙った。それから、小さく頷いた。


「テオの卒業は再来年ですが」


図面に目を落としながら言う。


「今から設計を始めるべきです」


設計。


治水事業の設計スケジュールのことだろう。秋の増水期が終われば、冬の計画策定に入る。ニコラウスはいつも二年先を見ている。


「──ええ。設計しましょう。制度の設計を」


私が言うと、ニコラウスの目が少しだけ動いた。


「エーリヒが条約の第七条に目をつけています」


手紙の該当箇所を差し出した。ニコラウスが受け取り、読む。読み終えると、黙って図面の脇に手紙を並べた。条文の構造を読み解くように、視線が二つの文書を行き来する。


「管理地域の住民の法的保護」


ニコラウスが声に出した。低い声が、条文の輪郭をなぞる。


「テオは旧辺境伯領で生まれた住民に該当する。条約の保護範囲に入る可能性がある」


──可能性。


確定ではない。けれど、道の匂いがした。行き止まりではない。この条文の奥に、何かがある。


エーリヒはそれを十三歳の目で見つけた。あの子は法律書を読む。制度の中に隙間を探す。それはかつて、入学手続きの保証人欄で「ニコラウス・ヴェーバー」の名前を選んだ時と同じ目だ。


道は制度の中にある。



父の書斎の扉を叩いた。


「入りなさい」


アルブレヒト・フォン・リンデン伯爵は、いつもの椅子に座っていた。手元には領地の収支報告書。秋の収穫の数字を確認しているのだろう。


「テオの件で相談があります」


「座りなさい」


座った。手紙の内容を簡潔に伝えた。庶子認知の壁。爵位保持者にしか申請資格がないこと。ルートヴィヒにはその資格がないこと。条約第七条の可能性。


父は黙って聞いていた。


私が話し終えると、父は収支報告書を閉じた。


「カタリーナ」


「はい」


「制度が子供を守らないなら──」


父は私の目を見た。


「──制度を変えろ」


一言だった。


いつもそうだ。この人は必要な言葉だけを渡す。多すぎず、少なすぎず。堤防の要石のように、一つ置くだけで全体の向きが決まる。


「はい」


立ち上がった。


書斎を出る時、父が背中に向かって言った。


「紅茶を飲んでいけ」


「──いただきます」


振り返ると、父の机の端に、湯気の立つカップがもう一つ置いてあった。


最初から二つ分、淹れてあったのだ。


……この人は。


(知っていたんだ。私がここに来ることを)


紅茶を飲んだ。少し甘かった。蜂蜜が入っている。



窓の外で、風が木の葉を払っている。秋が深まっている。


作業場に戻ると、ニコラウスが図面を片付けていた。その手が止まって、一枚の図面を見つめていたが、私が入ると音もなく巻き上げた。


「父に相談しました。制度を変えろ、と」


「……伯爵らしい」


ニコラウスが僅かに口の端を上げた。笑ったのだ、この人なりに。


「条約第七条の適用範囲を精査します。エーリヒの調査と合わせて、制度提案の形にまとめましょう」


「ええ」


私は頷いた。


テオの名前。


あの子が「メルツ」ではなく、自分の名前で立てる日を。


──まだ見えない。けれど、道は制度の中にある。エーリヒが見つけた。ニコラウスが設計する。父が方角を示した。


私は、歩く。



王都。貴族院。


受付窓口の椅子は硬かった。


俺は三十分待たされた末に、窓口係の男と向かい合っていた。


「庶子認知の申請書を一通」


「お名前は」


「ルートヴィヒ・グラーフェンベルク」


窓口係が帳面をめくる。ぺらぺらと。ぺらぺらと。めくる音が妙に大きく聞こえた。


「──グラーフェンベルク」


男が顔を上げた。


「旧辺境伯ですか」


「ああ」


「庶子認知の申請資格は、爵位を有する当主にのみ認められています」


知っている。知っていて来た。それでも、来た。


「あなたは現在、爵位をお持ちではありませんね」


「……ああ」


「申し訳ありませんが、申請書はお渡しできません」


資格がない。


その四文字が、窓口の向こうの男の唇から落ちた。


俺は立ち上がった。外套のポケットに手を入れた。指先に、紙の束が触れる。テオへの手紙だ。出していない手紙が、七通。書いては直し、書いては直し、まだ出せずにいる手紙が、七通。


窓口を出た。


秋の風が吹いた。追い風ではなかった。

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