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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第10話 風の渡る場所


 新しい長靴は、もう足に馴染んでいた。


 河川敷に降りた瞬間、それを足の裏で知った。四月の朝。クレン河は穏やかだった。雪解けの水が引いて、石積みの護岸が朝日を受けている。苔が──去年よりさらに濃い。指で触れると、ざらりと厚い感触が返ってくる。根が深い。動かない石にしか、苔はつかない。


 この堤防は、動いていない。


「カタリーナ様。本日の点検報告です」


 フリッツが長靴の泥を気にせず駆け寄ってきた。手帳を差し出す。息が上がっていない。──一年前は朝五時の点検で息を切らしていたのに。慣れたのだ。体が。


 受け取って、数字を追った。


 水位:正常範囲。流速:正常。護岸目地:異常なし。排水口:全箇所確認済み、堆積物なし。


「上流域の合流点も確認しました。先月の雨で微量の砂利が流入していましたが、自然に排出されています。導流堤の設計通りです」


「よく見ていますね、フリッツ」


「はい。──見るべき場所は、もう体が覚えています」


 手帳を返した。


 フリッツの報告には、もう何も足す必要がなかった。この人は──引き継ぎが完了した人だ。一人で抱え込まない体制を最初から作る。あの日決めたことが、今ここで動いている。


 護岸の石積みに手を触れた。冷たい。春の朝の冷たさ。けれど苔の下の石は温かい。冬を越した石が、少しだけ体温を持っている。


 立ち上がった。堤防の上に出た。


 風が吹いていた。春の風。冬の名残はもうない。草が揺れ、水面が光り、遠くで鳥が鳴いている。


 ──穏やかだ。


 去年の夏にも、同じことを思った。この穏やかさが日常になるとは、十年前には想像もしなかった。



 朝食の席は、いつも通りだった。


 いつも通り──つまり、騒がしい。


「蜂蜜もう一回!」


「四回目です、お嬢様」


「三回と半分!」


 半分の定義が毎朝変わる。リーゼの算数は蜂蜜の量に関してだけ独自の体系を持っている。


 マルタが瓶を五十センチ後退させた。去年は三十センチだったのに。リーゼの腕が伸びているのだ。十歳になった。背が伸びた分だけ、蜂蜜の防衛線も後退する。


 向かいの席で、ニコラウスが紅茶を飲んでいた。


 湯はニコラウスが沸かした。茶葉は私が量った。いつからかそうなった分担だ。誰が決めたわけでもない。ある朝、ニコラウスが台所で湯を沸かしていて、私が茶葉の缶を開けていて──それがそのまま続いている。


 紅茶に蜂蜜を半匙。私の癖。ニコラウスはもともと甘くしない人だったのに、いつの間にか半匙だけ足すようになった。理由は聞いたことがない。聞かなくてもいい類のことだ。


 父は庭に面した椅子で週報を読んでいた。老眼鏡をかけている。先月までは頑として拒んでいたのに──五十六歳の頑固さは、孫の「おじいさま、かけたほうがかっこいい」の一言で崩壊した。リーゼの交渉力は貴族院より手強い。


「郵便です、奥様」


 マルタが封書を持ってきた。学園の消印。


 エーリヒからだ。


 封を切った。


『母上


 薬草採りの件、準備が整いました。以下、持ち物の提案です。


 一、採取用の布袋(大三枚、小五枚。リーゼが花を入れたがるので小袋は多めに)

 二、乾燥用の紙(セイヨウニワトコは摘んだ後すぐ包むと品質が保てます。ヴェーバー先生に確認済み)

 三、昼食(パン屋のおかみに頼めば蜂蜜パンを焼いてくれるそうです。リーゼ用に多めに)

 四、地図(クレン河上流域の群生地はヴェーバー先生が把握しています。念のため写しを同封します)


 テオは元気です。先日、学園の庭で薬草を見つけて、名前を当てました。「ニコラウスさんに教わった」と言っていました。教わった覚えはないはずですが、エーリヒさんの本棚にあった植物図鑑を読んだのでしょう。あの子は本を読む時だけ笑います。


 楽しみにしています。


 エーリヒ』


 手紙を畳んだ。


「エーリヒ、持ち物リストまで作ってきたわ」


「おにいさまー、蜂蜜パン頼んでくれたー?」


「頼んであるそうよ」


「やったー! えんそくー!」


 去年の約束だ。ニコラウスが風邪で声を嗄らした日に、紙の上に「来年の夏に薬草を」と書いた。エーリヒが手紙で「僕も連れて行ってください」と言った。リーゼが「えんそく」と叫んだ。


 あの約束を──今年、ようやく果たす。


 ニコラウスが紅茶のカップを置いた。


「セイヨウニワトコの群生地は上流の合流点から北東に二百メートルほどの場所です。斜面がやや急なので、リーゼは──」


「ニコラウスがだっこすればいいー」


「……斜面での抱っこは重心が不安定になるため推奨しません」


「じゃあおんぶー」


「おんぶは──」


 ニコラウスが言葉に詰まった。おんぶの力学的検討を始めている顔だ。重心の位置と歩行時のバランスを計算しているのだろう。


(技師なので)


 心の中で呟いた。笑いそうになるのを、紅茶で誤魔化した。



 午後。


 クレン河の上流域。


 エーリヒが学園の秋休みで帰省していた。馬車で迎えに行ったのは三日前。降りてきたエーリヒは──また背が伸びていた。顎の線が少しだけ大人びている。十二歳になる。法律書を読む指が長くなっていた。


 五人で歩いていた。私。ニコラウス。エーリヒ。リーゼ。マルタ。


 父は縁側で見送った。「楽しんでこい」とだけ言って、老眼鏡を押し上げて週報に目を戻した。あの人は──いつもああだ。送り出す時に余計なことを言わない。必要な一言だけを渡す。


 マルタが大きな籠を背負っている。中に布袋と乾燥用の紙と昼食。蜂蜜パンの匂いが籠から漏れていて、リーゼが五分おきに「もうたべていい?」と聞いている。


「まだよ。群生地に着いてから」


「あとどれくらいー」


「もう少し」


「もうすこしってどれくらいー」


「三百歩くらいです」


 ニコラウスが答えた。子供に「もう少し」は通用しないと学んだのだろう。数字で答える。技師らしい。


「さんびゃくぽー!」


 リーゼが数え始めた。「いち、にー、さん──」


 二十七で飽きた。


「ニコラウスー、だっこー」


「斜面ではないので──」


「だっこー」


 ニコラウスがリーゼを抱き上げた。力学的検討の結果、平地では許容範囲と判断したらしい。リーゼが両手を広げて笑った。春の風がリーゼの髪を揺らしている。


 エーリヒが横を歩いていた。手紙に書いてあった地図の写しを手に、群生地の方角を確認している。


「母上。北東に二百メートル。あの木立の向こうです」


「ヴェーバー先生の地図と合っていますか」


「合っています。──先生の地図は正確です」


 エーリヒがちらりとニコラウスを見た。ニコラウスはリーゼを抱えたまま、地図を覗き込んだ。


「合流点の北東。等高線から見て、やや南寄りの方が群生密度が高い。エーリヒ、地図の──」


「ここですね。等高線の間隔が広い場所」


「そうです。よく読めていますね」


 エーリヒの口元が──ほんの僅かだけ、緩んだ。褒められて嬉しいのを隠そうとして、隠しきれていない。十二歳はまだ、表情の制御が完璧ではない。


 セイヨウニワトコの群生地に着いた。


 白い小花が斜面を覆っていた。甘い匂い。蜂蜜草とは違う、もっと軽くて清涼な甘さ。ニコラウスが「花序ごと摘んで、すぐに紙で包む」と手本を見せた。エーリヒがそれを真似る。リーゼが花を摘むふりをして、花冠を作り始めた。


「リーゼ。薬草採りよ」


「はなかんむりもやくそう!」


 薬草ではない。けれど──まあいい。


 マルタが籠から蜂蜜パンを出した。リーゼが駆け寄った。エーリヒが「手を洗え」と言った。マルタが水筒を差し出した。


 五人で、斜面の上に座って昼食を取った。


 蜂蜜パン。パン屋のおかみが焼いてくれたもの。あの交易路を組み替えて小麦の仕入れ値を下げた日から──もう三年以上経つ。あの店は、まだ続いている。


 リーゼが蜂蜜パンを頬張りながら、ニコラウスの隣に座っている。エーリヒが地図を畳んで、パンを一切れ取った。マルタが「お嬢様、口の周りが蜂蜜だらけです」と布を差し出している。


(──テオも蜂蜜パンが好きだったわね)


 エーリヒの手紙に書いてあった。「テオは食堂でいつも蜂蜜パンを頼みます」。あの子は嬉しくない時に黙って蜂蜜パンを食べていた。今は──友達と一緒に食べているのだろうか。


 エーリヒに聞こうかと思って、やめた。今日は仕事の話も、法律の話も、しない。今日は遠足だ。


「おかあさまー、もういっこー」


「二個目よ」


「いっことはんぶんー」


 半分の定義が、また変わった。



 夕暮れ。


 帰り道。堤防の上を歩いていた。


 クレン河が夕日を映している。水面が橙色に光っている。導流堤の石積みが、長い影を落としている。苔が──厚い。春の苔。冬を越した苔が、石の表面を覆っている。


 リーゼが花冠を頭に載せて、右手にニコラウスの手を、左手に私の手を掴んでいた。


「えんそくー、たのしかったー」


「楽しかったわね」


「らいねんもー」


「来年もね」


 リーゼが両手を引いて走り出そうとした。


「走ると転ぶぞ」


 後ろからエーリヒの声が飛んできた。


「転ばないー!」


「石がある。足元を見ろ」


「みてるー」


 見ていない。花冠がずれて目に被さっている。


 マルタが走ってきた。「お嬢様、走ると──」


「転びますよ、でしょう。三回目だ」


 エーリヒが呟いた。声が呆れているのに、口元が笑っている。この子は──不満を口にする時だけ、素直に笑う。


 リーゼの手が、私の手を引いている。小さな手。十歳の手。蜂蜜パンの油がまだ残っていて、少しだけべたつく。


 反対の手は、ニコラウスの手に繋がっている。ニコラウスの手。日に焼けた、節の太い手。石積みを確認し、図面を引き、蝋燭を替え、花壇を直す手。


 三人の手が繋がっている。


 ──繋いでいるのは、リーゼだ。


 私とニコラウスは手を繋がない。繋がなくてもいい。肩が触れている。それで十分だ。


 けれどリーゼは繋ぐ。両方の手を、両方の人を、繋ぐ。この子は──繋ぐ人だ。蜂蜜の瓶に手を伸ばすのと同じ速さで、人と人を繋ぐ。


「ニコラウス」


 呼んだ。殿なしで。もう、殿はつけない。


「はい」


「来年も、ここに来ましょう」


「来年は──上流域の水質調査を兼ねれば、公務扱いにできます」


 遠足を公務にする。この人は。


「それなら経費で蜂蜜パンを──」


「経費の蜂蜜パンは認められないと思います」


「残念」


 笑った。


 ニコラウスも──笑った。不器用に。目だけが緩む、あの笑い方で。


 堤防の上を歩いている。五人で。私。ニコラウス。エーリヒ。リーゼ。マルタ。


 手は繋いでいない。けれど肩が触れている。リーゼの花冠が風に揺れている。エーリヒが地図を畳んで胸ポケットにしまった。マルタが籠の蓋を確認している。


 石積みの護岸が、夕日の中で灰色と橙色の境界を作っている。苔が厚い。この堤防は安定している。動いていない。


 ──十年前と同じ場所に、立っている。


 同じ河。同じ石積み。同じ風。


 けれど、隣にいる人が違う。後ろを歩く子供たちが違う。手を繋ぐ娘がいる。地図を読む息子がいる。籠を背負う侍女がいる。


 何もかもが──違う。


 リーゼが挿した花が、堤防の石の隙間で揺れていた。去年挿した花とは違う花だ。新しい花。けれど同じ場所に。


 風が吹いた。


 春の風。柔らかくて、温かくて、背中を押すような風。


(──追い風だ)


 十年前、この堤防の上で風に吹かれた時、風は横から吹いていた。どこへも連れていかない風だった。立っている場所を揺らすだけの風だった。


 今日の風は、違う。


 背中を押している。前へ。


 どこへ行くのかは、もう分かっている。明日の朝、フリッツの点検報告を確認する。十時にニコラウスが来る。定期巡回の計画を詰める。来月は旧辺境伯領に入る。クラウスの報告を聞く。パン屋のおかみに挨拶する。


 やることがある。やることがある限り、大丈夫だ。


 大丈夫──その言葉が、もう呪文ではなかった。


 呪文ではなく、事実だった。


 リーゼの手が、まだ私の手を握っている。蜂蜜でべたべたの、小さな手。ニコラウスの手が、リーゼの反対側にある。三人が繋がっている。後ろでエーリヒが「石がある」と言っている。マルタが「お嬢様」と言っている。


 全部、聞こえる。


 誰のためでもなく──笑った。


 子供たちのためでもなく。ニコラウスのためでもなく。父のためでもなく。領民のためでもなく。


 自分のために。


 ただ、嬉しいから。


 堤防の上を、風が渡っていく。


 ──今度は、追い風だった。

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