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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第4話 同じ図面の上で


リンデン伯爵領の河川は、辺境伯領のそれより穏やかだ。


けれど穏やかな川こそ、荒れた時に手がつけられなくなる。


治水顧問の初日。私は長靴を履いて、クレン河の河川敷を歩いていた。実家の家臣が二人、少し離れてついてくる。どちらも私より年上で、リンデン伯爵領の河川管理を長年担ってきた者たちだ。


「カタリーナ様、その先は足場が——」


「大丈夫です。見えていますから」


護岸の石積みに手を触れながら、上流へ進んだ。水はまだ低い。冬の渇水期だ。だからこそ今のうちに点検しておく意味がある。増水してからでは、ひびの入った護岸には近づけない。


一箇所目。南西の合流点。ここは本流と支流が合わさる場所で、水流がぶつかって護岸を削る。石積みの目地が崩れていた。


「この合流点、直近で補修したのはいつですか」


「……五年ほど前かと」


「五年。増水期を五回やり過ごしたのなら、よく持った方です。けれど来春は持たないでしょう。目地を入れ替えるだけでは不十分で、合流角度を変える導流堤が要ります」


二箇所目。中流域の屈曲部。ここは流れが急に曲がるため、外側の護岸に水圧が集中する。石積みの上端に横方向のひびが走っていた。


「このひびは上から下に広がります。春の増水で水位がここまで来たら」


指先でひびの延長線をなぞった。


「護岸ごと持っていかれますね」


家臣二人が顔を見合わせた。


三箇所目。上流の浅瀬。一見安全に見える場所だが、川底の砂利が片寄っている。これは上流で何かが変わった証拠だ。


「ここ、砂が右岸に偏っていますね。上流で倒木か何か、流れを変えたものがありませんか」


「……先月の嵐で、大きな楢の木が倒れたと報告が」


「それです。倒木を除去しないと、この偏りが進んで、左岸の農地側に流路が寄ります」


私が言い終わる前に、家臣の一人が深く頭を下げた。


「……恐れ入りました。我々は五年間、あの合流点の目地が危ないことにすら気づいておりませんでした」


「気づかなくて当然です。普段は水の下に隠れていますから。渇水期に膝まで浸かって確認しなければ見えないものです」


辺境伯領で、七年間そうしてきた。毎年冬になると長靴を履いて、ラウシュ河の河川敷を歩いた。泥の中に膝まで入って、ひびを探して、補修の段取りを組んだ。


あの堤防は——今、誰が見ているのだろう。


(やめなさい。もう、あなたの仕事ではないでしょう)


頭を振って、手帳に三箇所の状況を書き留めた。導流堤の設計は、一人では荷が重い。流域図面を取り寄せて、専門家に相談する必要がある。


専門家。


……一人、心当たりがあった。



三日後。リンデン伯爵邸の会議室に、ザールフェルト公国の公印が押された訪問通知が届いた。


主任河川技師ニコラウス・ヴェーバー。隣国との治水協力に関する公式協議のため、リンデン伯爵領を訪問する、と。


父アルブレヒトが冒頭の挨拶を済ませ、「あとは専門家同士で」と言って退室した。扉が閉まる。会議室には、私とニコラウスの二人だけが残った。


二年ぶりだった。


二年前、辺境伯領の堤防視察に来た時と同じ、飾り気のない外套。日に焼けた手。少し癖のある黒髪を無造作に後ろへ流している。背は高い。辺境伯領の堤防で会った時、泥で汚れた長靴を気にもせず現場を歩いていたのを覚えている。


「カタリーナ殿。リンデン伯爵領の河川勾配について、資料をお持ちしました」


開口一番、技術の話だった。


離縁のことにも、辺境伯領のことにも、一言も触れない。噂で事情を聞いているはずだ。それでも、この人は——河川の話から入った。


「ありがとうございます、ヴェーバー技師。先日の視察で三箇所の危険地点を確認しました。図面と照合させてください」


「承知しました」


ニコラウスが鞄から流域図面を取り出し、会議卓の上に広げた。


大きな図面だった。クレン河の上流から下流までが、精緻な筆致で描かれている。等高線、流速の注記、護岸の材質。ザールフェルト公国の測量技術は、この国より進んでいる。


図面が広げられた時、私は気づかなかった。


ニコラウスは私の向かい側に立っていたのに、図面は私の側から正しく読める向きに置かれていた。つまりニコラウスは、上下が逆の図面を読んでいることになる。


(……会議卓が大きいから、向かい合うと仕方ないわね)


特に気にしなかった。会議室は広く、丸テーブルでも横並びの席でも使えるのだが、公式協議の形式として向かい合うのは自然なことだ。


「ここです。南西合流点。目地の劣化と、合流角度による護岸浸食」


「拝見します。……なるほど、この合流角は確かに急ですね。導流堤で角度を緩和すれば、護岸への負荷は六割減が見込めます。設計案をお出ししましょうか」


「お願いします。それから中流の屈曲部と、上流の砂利偏向についても」


「砂利の偏向は倒木が原因ですか」


「はい。先月の嵐で楢の大木が倒れたと」


「除去だけでは再発します。上流域の樹木管理計画も併せて——」


技術の話は尽きなかった。一つの問題を解決する案を出すと、そこから派生する別の問題が見えてくる。それをまた潰す。図面の上を、二人の指が行き来した。


ニコラウスの指が等高線を辿るのを、私は目で追っていた。節の太い、日焼けした手。現場で鋤を握る技師の手だ。


「——すみません。この区間の流速データ、二年前の視察時にお渡ししたものがあったはずですが」


「持っています。辺境伯領から持ち出した資料の中に」


「助かります。明日の午前、改めてお時間をいただけますか。流速の照合をしたい」


「明日の午前。十時でいかがですか」


「十時に伺います」


翌朝。


十時ちょうどに、会議室の扉が叩かれた。


一分も違わなかった。


時計の針を確認して、私は不意に立ち止まった。手が、扉の取っ手にかかったまま動かない。


──ルートヴィヒは、「帰る日」をいつも曖昧にしていた。


「今月の二十日頃に戻る」「月末には」「もう少しかかる」。正確な日時を言わなかったのは、王都の公務が忙しいからだと思っていた。急な予定変更があるからだと、十年間ずっと。


違った。


正確に言えなかったのではない。言わなかったのだ。愛人との都合を優先していたから、帰る日を確定させたくなかったのだ。


(……なぜ今、そんなことを)


頭を振った。扉を開ける。


「おはようございます、ヴェーバー技師」


「おはようございます。流速データの件、参りました」


何事もなかったように、私たちは図面を広げた。


ニコラウスは今日も、図面を私の側から読める向きに置いた。



仕事が終わったのは、夕刻近かった。


ニコラウスを門まで見送り、私室に戻ると、マルタが小さな封書を差し出した。


「奥様。辺境伯領から書簡が届いております」


差出人の名を見て、指先が一瞬冷たくなった。


ルートヴィヒ・フォン・グラーフェンベルク。


封を切る。短い文面だった。


『カタリーナ


話がしたい。都合のよい日を知らせてほしい。


ルートヴィヒ』


三行。


「出張」のたびに届いた手紙と、同じくらい短い。あの頃の手紙は「元気にしている。もう少しかかる。体に気をつけて」——定型文のような文面を、私は十年間、大切に保管していた。


(今さら、何を話すことがあるのかしら)


書簡を畳んで、引き出しにしまった。


返事は、書かない。


マルタが何も言わずに茶を淹れてくれた。私はそれを一口飲んで、今日の会議のまとめを書き始めた。


導流堤の設計案。護岸の補修スケジュール。上流域の樹木管理計画。ニコラウスが持参してくれた流域図面の写しを広げて、数値を書き写す。


──図面は、まだ温かかった。


今日一日、二人の手が何度も触れそうになりながら、等高線と流速の数字を追いかけた紙。インクの匂いと、微かな土の匂いが混じっている。


ニコラウスの匂いだ、と思って、すぐに打ち消した。


(図面の匂いよ。紙とインクの匂い)


ペンを取り、数字を書く。数字は嘘をつかない。流速も、水位も、護岸の厚さも。数字だけが、十年間裏切らなかったものだ。


引き出しの中で、ルートヴィヒの書簡が眠っている。


返事は、書かない。

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