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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第9話 名前を呼ぶ


 公国の公印は、蝋の匂いが少し甘い。


 父の書斎で封蝋を剥がした瞬間、蜜蝋に混ぜられた樹脂の匂いが指に移った。ザールフェルト公国河川局の紋章。公式書簡の厚い羊皮紙。


 文面を読んだ。


 『──クレン河流域治水協力条約第七条に基づく合同管理体制の提案を精査した結果、本提案は公国の河川管理政策と整合すると判断する。主任河川技師ニコラウス・ヴェーバーの駐在延長を正式に承認し、合同管理体制の運用開始に同意する──』


 二度、読んだ。


 承認。


 公国が──同意した。


 管理権の定期巡回制は貴族院で承認された。常駐条件は崩した。そして今、公国が合同管理体制に正式に同意した。ニコラウスの駐在延長が決まった。


 三つの書類。三つの壁。全て──通った。


「お父様」


「読んだか」


 父は窓際の椅子に座っていた。週報を膝に置いて、こちらを見ている。老眼鏡をかけていた。──いつの間に。先月まで「必要ない」と言い張っていたのに。


「……通りました」


「そうか」


 それだけだった。父はそれ以上何も言わなかった。週報に目を戻して──いや、目は戻していたが、読んではいなかった。口元が緩んでいた。ほんの僅かに。この人の笑い方はいつもそうだ。目ではなく、口元で笑う。


 書簡を丁寧に畳んで、封筒に戻した。


 窓の外で、秋の朝日がクレン河を照らしていた。


(全部、繋がった)


 条約の条文。定期巡回制の法的根拠。合同管理体制の提案書。フリッツの点検記録。クラウスの現地報告。ダールベルクの発言。ニコラウスの──数字。


 全部が、一つの道になった。


 数字は嘘をつかない。数字だけが、十年間ずっと私を支えてきた。


 ──けれど、数字だけでは、ここまで来られなかった。


 祖父の助言がなければ、エーリヒは先例を見つけられなかった。ニコラウスが「間違えた」と認めなければ、私は椅子の一センチを受け取れなかった。ダールベルクがあの場で立ち上がらなければ、定期巡回制は否決されたままだった。


 一人では──ここまで来られなかった。


「お父様。来週、旧辺境伯領に視察に入ります」


「子供たちも連れていくのか」


「ええ。エーリヒは学園が秋の休みに入りますので。リーゼは──」


「花を植えるんだと、朝から騒いでいたぞ」


 父の口元が、また緩んだ。



 馬車で三日。


 旧辺境伯領の入口に着いた時、蜂蜜草はもう枯れていた。秋が深い。丘陵地帯の草が茶色く乾いて、風に揺れている。


 けれど空気は覚えていた。土と、水と、枯れ草の匂い。あの匂いだけは変わらない。


 馬車を降りた。


 クラウスが待っていた。以前より少し──ほんの少しだけ──肉がついていた。白髪は増えたが、顔色がいい。


「お待ちしておりました、カタリーナ様」


「クラウス。お元気そうで」


「食事がまともになりました。パン屋のおかみが毎朝差し入れをくれるもので」


 冗談のつもりだろうか。この人が冗談を言うのは珍しい。一年半、一人で直轄領を支えていた頃には考えられなかった。


 クラウスの後ろに、フリッツが立っていた。長靴を履いて、手帳を胸に抱えている。


「カタリーナ様。本日の点検報告です」


「朝の点検は済ませたのですか」


「はい。水位は先月比二センチ低下。流速正常。護岸目地に異常なし。排水口は全箇所確認済みです」


 手帳を受け取った。数字を追った。


 ──正確だった。フリッツの報告は、もう何一つ訂正する箇所がない。


「よくできました、フリッツ」


 フリッツの背中が──伸びた。一年前は猫背だったのに。


「おかあさまー! はなー!」


 馬車の中からリーゼが飛び出してきた。両手に小さな鉢植えを抱えている。マルタが「走ると転びます!」と追いかけている。


「リーゼ。花壇はまだ整えていないのよ」


「でもー、ニコラウスがー、ここに植えていいって──」


 振り返った。


 ニコラウスが馬車の後ろから降りてきた。半日前から馬で先行してクラウスとの打ち合わせを済ませているはずだったが──戻ってきていた。


「花壇の石積みを確認しました。三段目の傾斜は補正済みです。植えても問題ありません」


「いつ補正したのですか」


「今朝。クラウスとの打ち合わせの前に」


(朝五時の堤防点検の前に、花壇の石積みを直してきたということね)


 この人は。


 国家間条約の合同管理体制と、九歳の娘の花壇の石積みを、同じ朝に処理する。公私の優先順位が──溶けている。


「……ありがとうございます」


「三段目の苔が定着していました。安定の証です」


 花壇にも苔の話をする。技師なので。



 堤防を歩いた。


 ラウシュ河の南東屈曲部。新しい石積みの護岸が、秋の日差しの中で灰色に光っている。目地が均等だ。石のサイズが揃っている。設計図通り──いや、設計図より少しだけ丁寧に積まれている。


 クラウスが同行していた。フリッツが手帳にメモを取りながら、護岸の状態を指差し確認している。作業員の三名も来ていた。名前を覚えている。ヴィルヘルム。ゲオルク。ヨハン。


「導流堤の水圧分散、設計通りに機能しています。春の増水期にも余裕がありました」


 クラウスの報告を聞きながら、石積みに手を触れた。


 冷たい。秋の石は冷たい。苔がざらりと指先に引っかかる。


 ──この石の下に、私が七年間積んだ石が残っている。


 崩壊した箇所は新しく積み直した。けれど、崩壊しなかった上流側の石積みは──まだある。最初の年の不揃いな石から、七年目の均等な目地まで。全部、この堤防の中に埋まっている。


 見えない。けれど、ある。


「おかあさまー、ここにうえるー!」


 リーゼの声が堤防の上から響いた。花壇の前にしゃがみ込んで、鉢植えの花を石の隙間に押し込もうとしている。


「リーゼ。花壇の土に植えなさい。石の隙間には──」


「でもー、前もここにさしたー!」


 前に挿した黄色い花は──まだ残っているのだろうか。石の隙間に挿しただけの野花が、秋まで持つとは思えない。


 エーリヒが堤防の石積みの前に立っていた。手を触れている。指先で、石の表面をなぞっている。


 ──ニコラウスと同じ仕草だ。


 あの日、崩壊した護岸の残骸の前で、ニコラウスが石積みの目地を指で辿った。上流から下流へ。年代の古い方から新しい方へ。「年ごとに技術が上がっている」と言った。


 エーリヒは──何を読んでいるのだろう。


「母上」


「何ですか」


「この石積み。上流側と下流側で、積み方が違う」


 心臓が、一つ跳ねた。


「上流の方が粗くて、下流に行くと揃ってくる。──母上が、毎年少しずつ上手くなったんですね」


 十一歳の指が、石の表面をゆっくりと辿っている。ニコラウスが読んだのと同じものを──この子も、読んでいる。


「……そうね。最初の年は、ひどいものだったわ」


「ひどくない」


 エーリヒが振り返った。


 ──ニコラウスと同じ言葉だった。あの日、河川敷で。「ひどくない」と即答した、あの声と。


 エーリヒの目が、私を見ていた。法律書を読む子の、条文のように正確な目。けれど今日は──その目の奥に、条文では書けないものが光っていた。


「最初の年の石が、まだ残ってる。七年持ってる。──すごいと思います」


 声が出なかった。


 出なくてもよかった。


 この子は大丈夫だ。法律書だけではない。石積みの目地から七年間を読む目を、いつの間にか持っている。


「……ありがとう」


 エーリヒは何も言わず、石積みに手を戻した。



 夕暮れ。


 堤防の上に立っていた。


 ラウシュ河の水面が橙色に染まっている。導流堤の石積みが、夕日の中で長い影を落としている。風が吹いていた。秋の風。冷たくなり始めた、けれどまだ柔らかい風。


 リーゼが花壇に花を植え終えて、マルタに手を引かれて管理事務所に戻っていった。「おなかすいたー」という声が遠ざかっていく。エーリヒはクラウスと一緒に、堤防の記録簿を見せてもらっている。法律書ではなく、現場の記録に興味を示し始めたのは──いつからだろう。


 ニコラウスが隣にいた。


 半歩後ろではなく、同じ高さで。肩が触れそうな距離。触れてはいない。けれど、風が吹くたびに外套の裾が触れる。


「石積みの状態は良好です。苔の定着率も高い。来春の増水期は──問題ないでしょう」


 技師の報告だ。堤防の上で、夕日を見ながら、技師の報告をしている。この人はいつもそうだ。


「ニコラウス」


「はい」


「報告はもういいです」


「……はい」


 黙った。二人で、夕日を見ていた。


 ラウシュ河が光っている。新しい堤防の石積みが、橙色と灰色の境界で影を作っている。遠くで、パン屋の煙突から煙が上っている。あのおかみは今日も店を開けているのだろう。


「リーゼがね」


「はい」


「花壇に花を植える時、『ニコラウスがここに植えていいって言った』と。あなたの名前を呼んでいたわ」


「……ええ」


「エーリヒは手紙にいつも『ヴェーバー先生』と書くけれど、リーゼは最初から『ニコラウス』よ」


 ニコラウスの耳が──赤くなっていた。夕日のせいだけではない。


「子供は、正直ですから」


「ええ。正直ね」


 風が吹いた。外套の裾が触れた。


 ニコラウスがリーゼの方を見た。管理事務所の入口で、マルタに手を拭かれているのが見える。泥だらけの手。花壇の土を素手で掘ったのだろう。


「リーゼ」


 ニコラウスが呼んだ。遠くから。大きな声ではなかった。この人は声を張らない。けれど低い声はよく通る。


「はーい」


 リーゼが振り返った。


「この花の名前。覚えていますか」


「えっとー、セイヨウニワトコ!」


「そう。乾燥させると薬草になる」


「やくそうー! えんそくー!」


 ニコラウスの口元が緩んだ。あの不器用な笑い方だ。大きく笑わない。けれど目が緩む。


 それから──振り返った。


 私を見た。


「カタリーナ」


 ──殿が、ない。


 敬称が、ない。


 五年間の書簡。二年間の共同作業。条約の締結。堤防の設計。花壇の石積み。紅茶の蜂蜜。蝋燭の交換。椅子の一センチ。全部、「カタリーナ殿」だった。仕事の時間は「殿」がつき、仕事の後も──たいていは「殿」だった。


 今日は──ない。


 子供たちの前で。クラウスの前で。フリッツの前で。


 名前だけで、呼んだ。


「──はい」


 声が出た。掠れていなかった。震えてもいなかった。


 ただ、胸の奥が温かかった。じんわりと。蝋燭の火が灯るように。


「ニコラウスがおかあさまのなまえよんだ!」


 リーゼの声が、管理事務所の入口から響いた。マルタが慌てて口を押さえようとしている。遅い。


 クラウスが──笑っていた。この人が声を出して笑うのを、初めて見た。


 エーリヒは何も言わなかった。記録簿から目を上げて、こちらを一瞬だけ見て──何も言わずに、記録簿に目を戻した。


 あの子は大人だ。十一歳の大人。


「……リーゼの声は、よく通りますね」


 ニコラウスの耳が、さっきより赤かった。


「あなたの声も、よく通りますよ」


「──殿をつけ忘れました」


「つけなくていいです」


 沈黙。


 風が吹いた。堤防の上を、秋の風が渡っていく。


 その時──ふと、視界の端に何かが動いた。


 堤防の向こう。丘陵地帯の、遠い稜線の上。人影が──見えた気がした。


 一瞬だった。


 目を凝らした時には、もうなかった。夕日が丘の稜線を照らしていて、草が風に揺れているだけだった。見間違いかもしれない。鹿か、旅人か。この季節、街道を歩く人は珍しくない。


(──気のせいね)


 誰だったのか、分からない。分からないまま──風に髪を揺らされて、隣を見た。


 ニコラウスがいた。


 同じ高さで。同じ風の中で。夕日が石積みを橙色に染めている。この人の横顔が、設計図を見つめる時と同じ角度で、水面を見ている。


 ──けれど、目の奥が違う。


 設計図を見る目ではない。数字を追う目でもない。もっと──柔らかい。


「帰りましょう。夕食の支度が始まっている頃です」


「ええ」


 堤防を降りた。二人で。


 管理事務所の窓から、灯りが漏れている。リーゼの笑い声が聞こえる。マルタの「手を洗いなさい」という声。エーリヒが何かをクラウスに質問している声。


 ──全部、聞こえる。


 十年前、この領地にいた頃、夕方の管理事務所は静かだった。私一人で帳簿をつけていた。蝋燭の火と、ペンの音と、遠くのラウシュ河の水音だけだった。


 今日は──声が聞こえる。


 子供たちの声。マルタの声。クラウスの声。


 そして、隣を歩く人の足音。


 長靴が砂利を踏む、静かで確かな足音。


「カタリーナ」


 また──呼んだ。


 殿なしで。


「夕食の前に、明日の巡回ルートを確認したい」


 仕事の話だ。名前を呼んだ直後に、仕事の話。この人らしい。


「十時に」


「十時に」


 笑った。声は出さなかった。唇だけが弧を描いた。


 管理事務所の扉を開けた。温かい空気が流れ出してきた。パンの匂い。パン屋のおかみが差し入れてくれたのだろう。蜂蜜の匂いも混じっている。リーゼが早速おかわりを要求している声がする。


 ──ここにいる人たちの声が、全部聞こえる。


 十年前は聞こえなかった声が。


 扉をくぐった。ニコラウスが後に続いた。


 堤防の向こうで、丘の稜線に夕日が沈んでいく。さっきの人影は──もう見えない。


 見えなくていい。


 ここにいる人たちの声だけが、今の私には聞こえていればいい。

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