第3話 正しさの外側
椅子が、一センチだけ近かった。
作業場に入った瞬間、足が止まった。いつもの椅子。窓際の、午前中の日差しがちょうど背中に当たる位置。半年前にニコラウスが動かしてくれた──いや、誰かが動かしてくれた、あの椅子。
いつもと違う。
窓からの距離が、ほんの僅かだけ縮んでいる。つまり、私の机に近い位置に寄っている。
(掃除の時に動かしたのかしら)
昨日、マルタが作業場の床を掃いていた。箒をかける時に椅子を引いて、戻す位置がずれたのだろう。──たぶん。
座った。日差しが背中に当たる。いつもと同じ温かさ。けれど視界の端に映るニコラウスの机が、ほんの少しだけ近い。
今日は──その近さを、素直に受け取れなかった。
◇
朝から、条約の条文と格闘していた。
管理権の常駐条件。王家からの書簡に記された三つの要件のうち、「常駐管理者の配置」だけが引っかかっている。残りの二つ──貴族院の審議と、条約に基づく合同管理体制の維持──は、既に満たしているか、満たす目処が立っている。
常駐だけが、壁だった。
条約の全文を、もう一度開いた。第七条。合同管理体制に関する規定。先日、線を引いた箇所だ。
『両国は、条約対象流域の治水施設について、共同管理の枠組みを維持する。共同管理の具体的な方法については、両国の合意に基づき、定期的な協議を通じて定めるものとする。』
──共同管理の具体的な方法は、両国の合意で定める。
つまり、「常駐」が唯一の管理方法ではない。条約の条文は「共同管理の枠組みを維持する」としか書いていない。常駐も、定期巡回も、その他の方法も──両国が合意すれば、どれでも条約の要件を満たし得る。
ペンを取り、手帳に書き出した。
『管理権の常駐要件 vs 条約第七条「共同管理の枠組み」
→ 条約は管理の「方法」を限定していない
→ 常駐以外の管理形態(例:定期巡回制)でも、条約上の合同管理は成立し得る
→ 貴族院への提案根拠:条約第七条+復興実績データ+現地管理体制(クラウス+フリッツ+作業員三名)』
数字と条文で、道が見えた。
常駐しなくても、定期的に巡回し、現地の管理体制を監督する形であれば──条約の枠組みの中に収まる。王家の要件も、実質的に満たせる。
(これなら──リンデン伯爵領を離れなくてもいい)
ペンを置いた。手帳を閉じた。
胸の中で、何かが軽くなった。数字と条文が道を開いてくれる。十年間、ずっとそうだった。帳簿が嘘をつかないように、条文も嘘をつかない。
作業場の扉が開いた。
「カタリーナ殿。上流域の水位データの件で──」
ニコラウスが入ってきた。鞄と書類の束。いつもの外套。いつもの──十時ちょうど。
「ヴェーバー技師。先に、管理権の件で相談したいことがあります」
「どうぞ」
手帳を開き、今朝の発見を説明した。条約第七条の条文。「共同管理の枠組み」の解釈。常駐ではなく定期巡回制でも、条約上の合同管理が成立する可能性。
ニコラウスは黙って聞いていた。手帳の数字を目で追い、条約の条文と照合し、顎に手を当てていた。技師が設計を検討する時の姿勢だ。
「合理的な解釈です」
最初の一言は、肯定だった。
「条約第七条は管理の方法を限定していない。定期巡回制でも、合同管理の枠組みは維持できる。法的根拠として、十分に成立します」
──よかった。
そう思った。思ったのは、一瞬だけだった。
「ただし」
ニコラウスの声が変わった。技師の声だ。数値を報告する時の、冷静で、正確で、感情の入る余地のない声。
「合理的に見て、カタリーナ殿が旧辺境伯領に常駐する必要はありません」
「それは──」
「定期巡回で十分です。現地にはクラウスがいる。フリッツが育っている。作業員三名の体制も機能している。カタリーナ殿が常駐しなくても、管理は回る」
正しい。
正しかった。数字の上では。
「感情的な理由で常駐を選ぶべきではない」
──感情的な理由。
ペンを持つ指が、止まった。
感情的な理由。
あの堤防は、私が七年かけて築いた。最初の年の不揃いな石積みから、七年目の均等な目地まで。毎朝五時に長靴を履いて、泥の中に膝まで浸かって、ひびを探して、補修の段取りを組んだ。
あの石に触れた時──ニコラウスだって絶句したはずだ。「これを一人で七年」と。石積みの目地から私の七年間を読み取って、言葉を失ったはずだ。
それを──「感情的な理由」と。
「あなたは正しい」
声が、自分で思ったより硬かった。
「技師として正しい。数字の上では、常駐の必要はないのでしょう」
ニコラウスがこちらを見た。
「でも──正しいだけでは、足りない時がある」
沈黙が落ちた。
作業場の時計の振り子が鳴った。窓の外で、鳥が鳴いた。図面の上で、赤いインクが乾いていく。
「……申し訳ない。言い方が悪かった」
ニコラウスの声が、少しだけ低くなった。
けれど──何が悪かったのか、自分でも分かっていない顔だった。目が泳いでいる。図面に視線を落として、ペンを取って、何も書かずに置いた。
(この人は──)
七年間の石積みを「感情的」と呼んだことが悪かったのだと、分かっていない。あの石の一つ一つに、どれだけの朝と、どれだけの泥と、どれだけの孤独が詰まっているか。数字にはならないものが。
──けれど、この人を責める気にはなれなかった。
ニコラウスは悪意で言ったのではない。技師として、合理的な判断を述べただけだ。感情を排除して設計図を引く。それが、この人の仕事だ。この人の──生き方だ。
ルートヴィヒは「隠す」人間だった。十年間、別邸を隠し、愛人を隠し、もう一つの家庭を隠した。
ニコラウスは隠さない。隠さない代わりに──感情を計算に入れない。感情が存在しないのではなく、計算の中に組み込む方法を知らないのだ。
それが、この人の欠点だ。
初めて見た。この人の欠点を。
「続きは、午後にしましょう」
立ち上がった。
ニコラウスが何か言いかけた。口が開いて、閉じた。
──この人は、正しいことしか言えない。正しくないことを言う方法を知らない。
◇
午後。
一人で作業場に戻った。ニコラウスは定期調査のために河川敷に出ている。
椅子に座った。窓際の、いつもの椅子。
──一センチ。
朝、気づいた時は「掃除のせいかもしれない」と思った。けれど今、改めて見ると──この椅子は半年間、ずっと同じ位置にあった。マルタが掃除をしても、フリッツが書類を運んでも、位置は変わらなかった。
今日だけ、違う。
一センチ。私の机に近い方へ。
(誰が──)
答えは、分かっていた。分かっていたけれど、今日は──その答えを受け取る気持ちの余裕がなかった。
あの言葉が、まだ胸の中に残っている。
「感情的な理由で常駐を選ぶべきではない」。
正しい。数字の上では、正しい。
けれど私は七年間、「感情的な理由」であの堤防を守ってきた。領民たちの顔を思い浮かべて、パン屋のおかみの声を聞いて、水車小屋の老人の手を見て。数字では計れない理由で、毎朝五時に長靴を履いた。
それを「感情的」と切り捨てられることが──
(怒っている、のとは違うわ)
怒りではない。苛立ちだ。この人に苛立つのは初めてだった。五年間の書簡。二年間の共同作業。雨の日に図面を守ってくれたこと。声が出ない日に筆談で仕事をしたこと。水源の石。堤防の銘板。
全部、知っている。全部、信じている。
それでも──今日は、椅子が一センチ近いことが、嬉しくなかった。
手帳を開いた。
定期巡回制の法的根拠。条約第七条。合同管理の枠組み。
仕事に戻った。仕事の中にいれば、数字が頭を冷やしてくれる。感情は──後で考える。
◇
夕食は、いつも通りだった。
リーゼの蜂蜜。父の週報。マルタの小言。ニコラウスは──いつもより少しだけ、口数が少なかった。紅茶を二杯飲んで、パンを一切れ残した。残すのは珍しい。
食後、廊下を歩いていた。
書斎の灯りが──点いていた。
扉の隙間から、蝋燭の光が漏れている。中で、ペンが紙の上を走る音がする。ニコラウスだ。
足を止めた。
以前なら──「聞くべきでないことを聞かないため」に通り過ぎた。
今日は違う。
まだ話したくないから、通り過ぎる。
あの言葉への苛立ちが、まだ胸の底に澱のように残っている。この苛立ちを抱えたまま書斎の扉を叩いたら、言わなくていいことを言ってしまう。
(明日にしよう)
足を動かした。
通り過ぎる瞬間、扉の隙間から見えた。ニコラウスの背中。猫背の、技師の背中。机の上に広げられた便箋は──公国のものだった。公国河川局の紋章が、蝋燭の光に浮かんでいる。
(公国に、何を──)
足が止まりかけた。
止めなかった。
通り過ぎた。
私室に戻り、蝋燭を灯した。机の上に、今朝の手帳が開いたままになっている。定期巡回制の法的根拠。条約第七条。数字と条文。
道は見つかった。
常駐しなくても、管理権の要件を満たす方法がある。明日から、提案書を書き始めればいい。数字を揃えて、条文を引いて、実績データを添えて。いつもの──帳簿をつける時の、あの淡々とした手順で。
けれど。
蝋燭の火が揺れた。
ニコラウスが公国に書いていた手紙は、何だったのだろう。先週も、同じ便箋を使って何かを書いていた。あの時も聞かなかった。今日も聞かなかった。
(聞けなかった、が正しいわね)
苛立っている相手に、優しくはできない。優しくできない時に無理をすると、十年前と同じになる。笑顔を貼りつけて、大丈夫だと言い聞かせて、一人で全部を抱え込む。
それはもう、しない。
明日、頭を冷やしてから。
蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、椅子の一センチを思った。
あれは──掃除のせいではない。
分かっている。分かっていて、今日は受け取れなかった。
明日は受け取れるだろうか。
分からない。
分からないまま、目を閉じた。




