第2話 付箋と手紙
「母上、至急ご報告したいことがあります」──エーリヒの手紙は、いつも報告書の書き出しに似ている。
封を切った。学園の消印。日付は五日前。転送に二日、配達に三日。この距離では標準的な日数だ。
朝食の席で読み始めて、二行目で手が止まった。
『テオのことです。
一学期は平穏でした。寮の友人もでき、授業にもついていけています。けれど二学期に入ってから、上級生がテオに絡むようになりました。「メルツの平民が」と。廊下で肩をぶつけられたこともあるようです。テオ自身は何も言いませんが、昼食を一人で取る日が増えました。食堂でいつも蜂蜜パンを頼みます。あの子は嬉しくない時は黙って蜂蜜パンを食べています。』
蜂蜜パン。
テーブルの向こうで、リーゼが蜂蜜の瓶を傾けていた。三回目のおかわりをマルタに制止されて、唇を尖らせている。
(蜂蜜が好きなのね。あの子も)
同じ父の血が、こんなところに出る。
手紙の続きを読んだ。
『そこで、おじいさまに手紙を送りました。学園法規に、嫌がらせへの対処規定があるはずだと思ったからです。おじいさまからはすぐにお返事をいただきました。「学園法規の第十七条を見なさい」と。
見ました。
第十七条は在学生の通称使用に関する規定です。本条に基づく先例を調べたところ、過去に二件、姓に関する事情を抱えた生徒が学園長の裁量で通称使用を認められた記録がありました。いずれも「本来の姓の使用が在学中の学業・生活に著しい支障を来す場合」が要件です。
テオの状況は、この要件に該当すると思います。
学園長への申請書を準備しています。先例の記録の写しも添付するつもりです。』
手紙を膝の上に置いた。
十一歳が、庶子認知の法律を調べた時と同じだ。感情で動揺して、三時間後に法律書を開いて、制度の中に道を見つけて戻ってくる。あの子は──怒りを知恵に変える。
けれど今回は、一人ではなかった。
祖父に聞いた。
エーリヒが法律書を読み始めた頃、あの子は全部一人で調べようとしていた。ニコラウスの付箋がなければ辿り着けなかった条文もあった。天才ではない。──信頼できる大人に聞くことができる子だ。
「どうしました、奥様」
マルタが私の顔を見ていた。
「エーリヒが、少し大人になったようです」
「まあ」
「祖父に助言を求めて、自分で道を見つけた、という報告が来ました」
マルタの目が──ほんの一瞬、潤んだ。すぐに瞬きで消した。この人は嬉しい時に泣き、悲しい時に泣かない。
「おじいさまー、エーリヒおにいさまがー」
リーゼが父の方を向いた。何の話か分かっていないはずだが、兄の名前が出れば反応する。
父は週報から目を上げなかった。けれど口元が、ほんの僅かに緩んだ。
(「学園法規の第十七条を見なさい」──お父様。それだけで十分だったのですね)
あの子に必要だったのは、答えではなく、どこを見ればいいかという道標だった。祖父はそれを一行で渡した。余計なことは言わない。言わないけれど、正確な場所を指す。
──ニコラウスの付箋と、同じだ。
◇
午前。作業場。
管理権の常駐条件を崩す法的根拠を探すため、条約の条文を広げていた。治水協力条約の全文。公国との合意書。復興顧問としての任命書。王家直轄領の管理規定。
四つの書類を並べて、条文の対応関係を洗い出す。帳簿をつける時の癖で、数字と条件を分解して書き並べた。
ニコラウスが作業場に入ってきた。十時ちょうど。手に鞄と、書類の束。
「カタリーナ殿。上流域の観測データが更新されました」
「ありがとうございます。照合は午後に回してもいいですか。今、条約の条文を──」
「管理権の件ですか」
「ええ。常駐条件の要件を、条約の枠組みと突き合わせています」
ニコラウスが鞄を机に置き、観測データを整理し始めた。その手が──止まった。
鞄の中に、もう一通。別の封書。
ザールフェルト公国の公印。河川局の便箋。ニコラウスが封を切り、文面に目を通した。
数秒の沈黙。
この人が文書を読む時、いつもは指先で行を追う癖がある。今日は指が動かなかった。目だけが文面を追い、それから──静かに書簡を畳んで、机の引き出しにしまった。
別の紙を取り出した。
白紙。罫線のない、計算用の紙。ペンを取り、数字を書き始めた。
(観測データの整理ではないわね)
使っている紙が違う。定期データは罫線入りの野帳に記録する。白紙を使うのは、設計計算の時だ。──何の設計だろう。
「ヴェーバー技師。何か──」
「石材の追加発注の件です」
ニコラウスの声は平静だった。ペンが紙の上を走っている。数字が並んでいく。
「夏の定期補修に向けて、導流堤の目地材を追加で手配しておきました。発注は昨日のうちに」
「昨日? まだ発注の承認をしていませんが」
「資材の手配は一日遅れると工期が一週間延びる──カタリーナ殿の言葉です」
私の言葉。
辺境伯領にいた頃、堤防の補修工事で何度も口にした台詞だ。石材商との交渉で、発注のタイミングが全てだと学んだ。一日遅れれば、商人は別の客に回す。別の客に回れば、次の入荷を待つ間に一週間が過ぎる。
あの言葉を──覚えていた。
「いつの言葉ですか、それは」
「三ヶ月前の護岸補修の際に」
三ヶ月前。現場でさらりと言った一言を、この人は覚えていて、実行している。
(自分の言葉を覚えていてくれる人がいる、というのは──)
胸の奥が、少しだけ温かくなった。少しだけ。
「……ありがとうございます。承認印は後で押します」
「承知しました」
ニコラウスは白紙の計算に戻った。数字が、静かに並んでいく。
何の計算なのか──聞かなかった。
聞くべきでない何かがある時、この人は黙る。大事なことほど黙る。──それは知っている。
条約の条文に目を戻した。
第七条。合同管理体制に関する規定。「両国は、条約対象流域の治水施設について、共同管理の枠組みを維持する」。
共同管理。
この条文が管理権の条件とどう対応するか、まだ整理がついていない。けれど──何かが引っかかる。常駐ではなく、共同管理の枠組みの中に、別の形態があるのではないか。
ペンで条文に線を引いた。後で精査する。
ニコラウスの白紙の計算が、視界の端でちらついていた。数字が三列に並んでいる。距離と、日数と、もう一つ──読めない。遠くて。
読めなくてもよかった。
この人が黙って計算しているものを、待つことはできる。
◇
夜。
私室の机で、エーリヒへの返信を書いていた。
蝋燭の火が安定している。ニコラウスが先月替えてくれた蝋燭は、芯が太くて持ちがいい。この人は毎月、書斎と私室と作業場の蝋燭を点検して、短くなったものを黙って替えていく。言わない。言わないけれど、灯りが途切れたことは一度もない。
ペンを取った。
『エーリヒ
報告をありがとう。テオのこと、あなたが動いてくれていることを嬉しく思います。
学園法規の第十七条。通称使用の先例を二件見つけたとのこと。先例の要件に照らして、テオの状況が該当するかどうか、申請書を書く前にもう一度確認しなさい。要件の充足を示す具体的な事実を、箇条書きで添えること。学園長は多忙です。一読で要件との対応が分かる書面が、最も通りやすい。
おじいさまの助言はしっかり聞きなさい。あの方の一行には、あなたが三時間かけて読む本の要点が詰まっています。
あなたの判断を信じています。
母より
追伸──テオが蜂蜜パンを好むとのこと。リーゼと同じですね。』
最後の一文を書いて、少し迷った。消すべきだろうか。蜂蜜パンの話は、手紙の本題とは関係がない。
──消さなかった。
関係がなくても、書いておきたかった。あの子が蜂蜜パンを食べている姿を、エーリヒが見ていてくれていることが、ただ嬉しかったから。
封をした。明日の朝、マルタに託す。学園に届くのは五日後。
蝋燭の火を見つめた。
テオは嫌がらせを受けている。十歳の子供が、姓を理由に。あの子に罪はない。認知の手続きを放置したのは──ルートヴィヒだ。
(あの人が、辺境伯だった時に済ませていれば──)
頭を振った。
済ませていなかった。それが事実だ。事実は変えられない。変えられるのは、今この瞬間から先のことだけだ。
エーリヒが道を見つけた。通称使用の先例という、制度の中の道を。祖父の助言と、自分の調査で。
(あの子は大丈夫だ)
大丈夫。
その言葉が、辺境伯領にいた頃とは違う重さで響いた。あの頃は自分に言い聞かせる呪文だった。今は──信じている。あの子を。あの子が自分で考えて、自分で動く力を。
蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、今日のことを並べ直した。テオの蜂蜜パン。エーリヒの先例。ニコラウスの白紙の計算。自分の言葉を覚えていてくれた、あの一言。
そして──ニコラウスが公国からの書簡を読んだ後の、あの数秒の沈黙。
(何を、読んだのだろう)
聞かなかった。聞く必要があるかどうかも、まだ分からない。
ただ──あの人が黙って引き出しにしまった書簡と、その直後に始めた白紙の計算が、同じ夜の暗闘の中で、ぼんやりと繋がっている気がした。
気のせいかもしれない。
明日の朝、フリッツの点検報告を確認する。十時にニコラウスが来る。条約の第七条を精査する。常駐条件の突破口を、数字と条文の中に探す。
やることはある。やることがある限り、大丈夫だ。
──あの引き出しの中身は、いつか分かる。
この人は隠す人ではないから。




