第1話 穏やかな水位
蜂蜜草の匂いが薄くなると、夏が来る。
河川敷に降りた瞬間、それを鼻で知った。六月の朝。クレン河は穏やかだった。増水期の残り水が引いて、石積みの護岸が乾いた面を見せている。苔が去年より濃い。根を深く張っている証拠だ。動かない石にしか、苔はつかない。
──この堤防は、動いていない。
手帳を開いた。今朝のデータを確認する。水位。流速。護岸の目地。排水口。全て、昨日フリッツが点検した数字が並んでいる。
「カタリーナ様。本日の点検報告です」
フリッツが長靴の泥を気にしながら駆け寄ってきた。手帳を差し出す。息が上がっている。朝五時の点検に慣れたはずだが、この季節は日の出が早い分だけ起床も早い。
受け取って、数字を追った。
水位:先月比三センチ低下。流速:正常範囲。護岸目地:異常なし。排水口:南西合流点に微量の砂利堆積あり、除去済み。
「砂利の除去、手順通りですか」
「はい。排水口の下流側から掻き出して、上流側は触れないように。カタリーナ様に教わった通りです」
「よくできました」
フリッツの報告は、半年前より格段に的確になっていた。あの頃は「異常なし」としか書けなかった欄に、今は「微量の砂利堆積あり、除去済み」と具体が入っている。異常がないことと、異常がないことを確認したことは、違う。その違いが分かるようになった。
手帳を返した。
「明日の点検は、上流の合流点を重点的に。降雨がなくても、雪解けの遅い年は七月に水位が上がることがあります」
「承知しました」
フリッツが一礼して河川敷を戻っていく。背中がまっすぐだ。一年前は猫背だったのに。
(引き継ぎが、できている)
一人で抱え込まない。それが、十年かけて学んだことだった。
護岸の石積みに手を触れた。苔がざらりと指先に引っかかる。冷たい。朝露がまだ残っている。
立ち上がり、堤防の上に出た。風が吹いていた。夏の風には、もう冬の名残がない。草が揺れ、水面が光り、遠くで鳥が鳴いている。
──穏やかだ。
この穏やかさが、今の私の日常だ。
◇
朝食の席は、いつも通りだった。
いつも通り、というのはつまり、騒がしいということだ。
「蜂蜜もう一回!」
リーゼが瓶に手を伸ばした。九歳の指が蜂蜜の蓋に届く前に、マルタが瓶を三十センチ後退させた。
「三回目です、お嬢様」
「二回と半分!」
半分とは何だ。
向かいの席で、ニコラウスが紅茶を飲んでいた。いつもより半匙甘い紅茶を、何も言わずに。紅茶に蜂蜜を入れるのは私の癖で、ニコラウスはもともと甘くしない人だった。いつの間にか半匙だけ足すようになったのは──いつからだろう。聞いたことはない。聞かなくてもいい類のことだ。
父は庭に面した椅子で週報を読んでいた。紙を腕の長さまで離している。老眼鏡を勧めたが、「必要ない」の一点張りだ。来月、五十六歳になる。
「郵便です、奥様」
マルタが封書を持ってきた。学園の消印。
エーリヒからだ。
封を切った。あの子の文字は、一年半前よりずっと大人びていた。法律書を読み込んだ指が書く、条文のように正確で、条文のように素っ気ない文字。
『母上
二年目が始まりました。今年は比較法の講座を追加で取ります。おじいさまに相談したら「好きにしなさい」と言われたので、好きにします。
テオは元気です。商家の友人と、もう一人、西部出身の子と三人でよく昼食を取っています。あの子は相変わらず嬉しい時だけ笑います。先日、学園の庭で蝶を見つけた時に笑っていました。
リーゼの花壇はどうなっていますか。
ヴェーバー先生によろしくお伝えください。
エーリヒ』
手紙を畳んで、封筒に戻した。
「エーリヒは元気そうね」
「おにいさまー、夏に帰ってくる?」
リーゼが蜂蜜の瓶を諦めて、今度は私の袖を引いた。
「学期の終わりに帰ってくるわ」
「じゃあ薬草採り! えんそく!」
「夏休みになったらね」
去年の約束だ。ニコラウスが風邪で声を嗄らした日に、紙の上に「来年の夏に薬草を」と書いた。エーリヒが手紙で「僕も連れて行ってください」と言った。リーゼが「えんそく」と叫んだ。
あの約束を、まだ果たしていない。
ニコラウスが紅茶のカップを置いた。
「クレン河の上流域に、セイヨウニワトコの群生地がある。乾燥させれば一年分の備蓄になります」
仕事の話にすり替えている。この人はいつもそうだ。遠足の話を、薬草の採取計画に変換する。
(技師なので)
心の中で呟いた。笑いそうになるのを、紅茶で誤魔化した。
◇
朝食を終えて、父の書斎に呼ばれた。
子供たちの耳に入れたくない話がある時の合図──ではなかった。父の表情に、険しさはない。むしろ珍しく、目元が緩んでいた。
「座りなさい」
机の上に、重い封書が一通。王家の紋章入りの封蝋。
「今朝、王都の定例便で届いた」
受け取った。封蝋を丁寧に剥がし、中の書簡を広げた。
王家直轄領管理局。旧辺境伯領グラーフェンベルクに関する通達。
文面を追った。
『──復興顧問カタリーナ・フォン・リンデン殿の任期は、堤防復興完了宣言をもって終了するものとする。ただし、旧辺境伯領の恒久的な管理体制の必要性に鑑み、王家は同領の正式管理権を信任できる人材に委託することを検討している。つきましては、復興顧問任期中の実績を管理権審議の根拠として貴族院に提出する旨、通知する──』
二度、読んだ。
管理権の委託。
復興顧問は期限付きの暫定的な役職だった。堤防が完成し、領地の機能が回復すれば、任期は終わる。その先をどうするかは、王家の判断に委ねられていた。
直轄領の管理を続けるのか。誰かに委託するのか。
──その「誰か」の候補として、私の名前が挙がっている。
「ルートヴィヒの名前は」
書簡を端から端まで、もう一度目で追った。
なかった。
元辺境伯の名前は、文書のどこにもない。管理権の審議根拠として記載されているのは、「復興顧問カタリーナ・フォン・リンデンの実績」と「クレン河流域治水協力条約に基づく成果」だけだ。
十年間の仕事を、あの人の名前で報告されていた。帳簿も、堤防も、交易路も、全部。
今度は──私の名前で。
「……そうですか」
声に出したのは、それだけだった。
胸が晴れる、という感覚はなかった。ただ、書簡の文字を見つめながら、十年分の朝を思い出していた。五時に起きて長靴を履いた朝。帳簿をつけた夜。泥の中で堤防のひびを探した冬。
──全部、ここに繋がっていた。
「お父様。条件の詳細は」
「その先を読みなさい」
書簡を繰った。条件の記載があった。
『──管理権の委託にあたっては、以下の要件を満たすこと。一、貴族院での審議および承認。二、治水協力条約の枠組みに基づく合同管理体制の維持。三、常駐管理者の配置──』
指が止まった。
常駐管理者の配置。
「常駐──旧辺境伯領に、ですか」
「そうなるな」
父の声は平坦だった。けれど、目が私を見ていた。静かに、真っ直ぐに。
常駐。
それは──リンデン伯爵領を離れる、ということだ。
この屋敷を。朝食の席を。銀木犀の庭を。父の書斎を。リーゼの花壇を。
ニコラウスとの、作業場を。
「……考える時間を、いただけますか」
「急ぐことはない。貴族院の審議は秋以降だ」
書簡を丁寧に畳んで、封筒に戻した。
◇
作業場に入ったのは、午後だった。
ニコラウスが先に来ていた。机の上にクレン河の流域図面を広げて、何かを書き込んでいる。いつもの姿だ。少し猫背の、技師の背中。外套は椅子の背にかけてある。シャツの袖を捲って、ペンを走らせている。
「お待たせしました」
「カタリーナ殿。上流域の定期データが届いています。照合しましょう」
殿がついている。仕事の時間だ。
図面の前に立った。数字を読む。流速、水位、護岸の状態。フリッツの報告と、公国側の観測データを突き合わせる。
「上流の流速が先月比で一・五パーセント低下しています。雪解けの遅れが影響しているのでしょう。七月に一時的な上昇が見込まれますが、導流堤の許容範囲内です」
「同意します。七月中旬に追加の点検を入れましょう」
いつもの──やり取りだった。
図面の上を二本のペンが走る。私が数値を確認し、ニコラウスが修正線を入れる。線が交差し、等高線を横切り、合流点を示す。
その時、ニコラウスのペンが止まっている箇所に、目が留まった。
図面の隅。流域図の余白。本来なら何も書かれないはずの空間に──小さな文字があった。
ニコラウスの筆跡。几帳面で、硬質な文字。
『二人の堤防──リーゼの花壇、石積み点検記録(三段目やや傾斜、秋に補正要)』
──花壇の堤防の点検記録を、流域図面の余白に書いている。
(この人は……)
国家間条約に基づく導流堤の設計図面と、九歳の娘の花壇の石積み点検を、同じ図面の上に並べている。公私の境界が──溶けている。
「ヴェーバー技師」
「はい」
「これは設計図なのですけれど」
ニコラウスが余白の文字に目を落とし──耳が赤くなった。
「三段目の傾斜は事実です」
「それは知っています。先週リーゼが上に乗ったからです」
「補正は秋がいい。苔が根を張ってからの方が──」
「そこではなく」
黙った。ペンを持ったまま、こちらを見ない。図面の等高線を見つめている。
──消さないでおこう。
そう思った。設計図の余白に「リーゼの花壇」と書く人を、咎める気にはなれなかった。
◇
夕暮れ。
作業場の片付けを終えて、私室に戻った。
机の上に、王家からの書簡を広げた。
常駐管理者の配置。
あの三文字を、もう一度読む。
旧辺境伯領は、ここから馬車で三日。往復すれば一週間。常駐ということは──あの領地に拠点を構えるということだ。月に一度や二度の巡回ではなく。
(あの領地に戻る)
蜂蜜草の匂い。ラウシュ河の水面。壊れた堤防と、新しい堤防。クラウスの白髪。パン屋のおかみの声。
──そして、ニコラウスは。
この人はザールフェルト公国の主任河川技師だ。条約に基づいてリンデン伯爵領に駐在しているが、本務は公国にある。私が旧辺境伯領に常駐すれば──拠点が離れる。
蝋燭の火が揺れた。窓の外は、もう暗い。
王家の紋章が、封蝋の赤い残骸となって机の端に転がっている。
(一人で決めようとしている)
気づいた。
また、一人で抱え込もうとしている。十年間の癖だ。ルートヴィヒがいなかった夜、帳簿を一人でつけていた時と同じ。全部自分で考えて、全部自分で決めようとする。
──違う。
今は、違う。
蝋燭の火を見つめた。揺れている。風が窓の隙間から入り込んでいるのだろう。
立ち上がった。廊下に出た。
作業場の灯りが、まだ点いていた。ニコラウスがいる。定期データの整理を続けているのだろう。
扉を叩いた。
「──どうぞ」
中に入った。ニコラウスが図面から顔を上げた。ペンを持ったまま、私を見た。
「王家から、書簡が届きました」
「……何の件ですか」
「旧辺境伯領の管理権委託の打診です。条件があります」
ニコラウスのペンが──止まった。
「常駐管理者の配置、という条件です」
沈黙。
図面の上で、赤いインクが乾いていく。
「……常駐」
「ええ。旧辺境伯領に拠点を移すことになります」
ニコラウスの顔を見た。表情は変わらなかった。技師の顔だ。数値を聞いた時の、冷静な顔。
けれど──ペンを握る指の力が、ほんの少しだけ強くなった。指先が白い。
「ここから、離れることになる」
私の声だった。自分で言って、自分の声が思ったより静かだったことに驚いた。
「二人で考えましょう」
ニコラウスが顔を上げた。
「条件の詳細を見ないと判断できません。条約の枠組みの中に、常駐以外の管理形態が含まれるかどうか。──明日、書簡を見せてください」
仕事の話に戻している。この人はそうやって、感情を設計図の言葉に変換する。
けれど──「二人で考えましょう」と言ったのは、私だ。
一人で決めなかった。
それだけで、十年前の自分より少しだけ、前にいる。
「明日の朝、お見せします」
「十時に」
「十時に」
笑った。
ニコラウスは笑わなかった。図面に目を戻して、ペンを走らせ始めた。──けれど、余白の「二人の堤防」の文字の横に、もう一行、小さな文字を書き足していた。
読めなかった。遠くて。
読めなくてもよかった。
作業場を出た。廊下の窓から、夏の夜空が見えた。星が多い。こちらは辺境ほど空が広くないが、それでも星はよく見える。
蜂蜜草の匂いが、薄くなっている。夏が来る。
秋には、貴族院の審議がある。
それまでに──数字を揃えなければ。条約の条文を洗い直して、常駐以外の管理形態の根拠を探す。
数字は嘘をつかない。
数字だけが、十年間ずっと私を支えてきたものだ。
──けれど今夜は、数字ではない何かが、図面の余白に書かれていた。
蝋燭を吹き消した。
明日の朝、フリッツの点検報告を確認する。十時にニコラウスが来る。一分も遅れずに。
その確かさだけが、変わらずに、ここにある。




