第3話 空っぽの執務机
実家の門をくぐった時、銀木犀の匂いがした。
──十年前にこの門を出た朝にも、同じ匂いがしていたことを、不意に思い出す。
あの日、十八の私は白い花嫁衣装を着ていた。リンデン伯爵家の令嬢として、辺境伯グラーフェンベルク家に嫁ぐ朝。父が「体に気をつけなさい」と短く言い、母の形見の髪飾りを渡してくれた。銀木犀の香りの中を馬車に乗り込んで、振り返らなかった。
今日は振り返った。
門の向こうに、父が立っていた。
アルブレヒト・フォン・リンデン。五十四歳。十年前より白髪が増えて、少し背が縮んだように見える。けれど立ち姿は変わらない。温厚で、芯が強くて、感情を声に出さない人。
私に似ている。──いや、私が父に似たのだ。
父は何も言わなかった。
ただ、門から三歩だけ歩み出て、私の前に立った。それから両腕を広げた。
(……お父様)
私は父の胸に顔を埋めた。三秒だけ、目を閉じた。
銀木犀の匂い。母の形見の香り。十年間、一度も嗅がなかった匂い。
「おじいさま」
エーリヒの声で、我に返った。
九つの長男は、馬車を降りてまっすぐ祖父の前に立ち、背筋を伸ばしていた。その横で、リーゼが「おじいさまー!」と叫びながら走り出し、アルブレヒトの脚にしがみついた。
父の顔がようやく崩れた。目元のしわが深くなって、リーゼの頭をぎこちなく撫でる。
「おじいさま。母上を、よろしくお願いいたします」
エーリヒが、大人のような口調で言った。
父が目を見開いた。私も驚いた。九つの子供が言う台詞ではない。
「──ああ」
父の声が、わずかに詰まった。
「任せなさい」
その二言だけで、十分だった。
◇
子供たちをマルタに預け、父の書斎に入った。
重い樫の机。革張りの椅子。壁一面の書棚。十年前と変わらない、インクと古紙の匂い。ここだけ時間が止まっているようで、少しだけ安心した。
「座りなさい」
父が茶を注ぎながら言った。伯爵自ら茶を淹れるのは、二人きりの時だけの父の癖だ。
「お父様。お渡ししたいものがあります」
鞄から、帳簿の写しを取り出した。辺境伯領の過去五年分の収支記録。私が自筆で記帳し、王都から戻る前にすべて書き写してきたものだ。
「見ていただきたい箇所があります。ここと、ここ」
付箋を貼った頁を開く。
「領地の年間収入に対して、支出の合計が七割しか計上されていません。残りの三割——使途が、どこにも記載されていないのです」
父は帳簿を受け取り、数字を追った。指が頁を繰るごとに、眉間の皺が深くなる。
「……ルートヴィヒの決裁印が押された出金伝票が、この分だけ欠けている」
「はい。私は帳簿の記帳を任されていましたが、最終的な出金の承認はルートヴィヒ様の権限でした。月の半分は王都にいらっしゃいましたから、まとめて処理されていたようです。私の手元には、承認後の控えが残っていません」
父が顔を上げた。
「カタリーナ。これは流用の——」
「確証はありません」
私は遮った。
「計算が合わない箇所が複数ある、というだけです。ただ、持参金返還請求をお出しになるのであれば、添付資料として意味を持つと思いました」
父は、しばらく帳簿を見つめていた。
「……出す」
低い声だった。
「持参金返還請求を出す。嫁入り支度金の返還もだ。離縁事由が夫側にある以上、我が家には請求の権利がある」
「お父様——」
「十年間、よく耐えた」
父はそれだけ言って、茶を一口飲んだ。
私は何も答えられなかった。「耐えた」つもりはなかった。あの領地で過ごした十年は、耐えていたのではなく、ただ必死に走っていただけだ。走っている最中は、つらいかどうかを考える暇がなかった。
止まった今になって、足が震えていることに気づく。
「少し領地を見て回ってもいいですか」
震えを悟られる前に、私は立ち上がった。
◇
リンデン伯爵領は、辺境伯領より温暖で、土地も肥えている。
領地の南側を流れるクレン河に沿って歩いた。穏やかな流れだ。辺境伯領のラウシュ河のような荒々しさはない。
けれど──
「この護岸、ひびが入っている」
足を止めた。河川敷に降りて、石積みの護岸を手で触れる。指先にざらりとした砂の感触。目地のモルタルが崩れかけている。
「ここと、あそこ。それから上流の合流点。少なくとも三箇所、増水期に危ない」
独り言だった。十年間、堤防と睨めっこしてきた癖が抜けない。
(……穏やかな川こそ、荒れた時に手がつけられなくなる)
辺境伯領で、嫌というほど学んだことだ。
陽が傾き始めた頃、屋敷に戻った。マルタが「書簡が届いております」と封書を差し出す。ザールフェルト公国の公印。
差出人は、ニコラウス・ヴェーバー。主任河川技師。
封を切った。
『カタリーナ殿
ご転居のことを伺いました。
リンデン伯爵領の河川事情でお力になれることがあれば、いつでもご連絡ください。
クレン河の流域図面は当局にございます。ご入用でしたらお送りいたします。
ニコラウス・ヴェーバー』
短い書簡だった。余計なことは何も書いていない。離縁のことにも、辺境伯領のことにも、一切触れていない。ただ、河川の話だけ。
(……仕事の方からの、転居の挨拶。それだけのこと)
それだけのことなのに、少しだけ口元が緩んだ。
この人は、五年間の書簡のやり取りで、一度も余計なことを言わなかった。技術の話をして、助言をくれて、私の判断を尊重してくれた。それだけの関係だ。
それだけの関係が、今は少しだけ、ありがたかった。
書簡を引き出しにしまう。クレン河の流域図面は——そうだな、もらっておこう。三箇所の危険地点を確認するのに、あった方がいい。
窓の外で、エーリヒが祖父の書庫から本を抱えて出てくるのが見えた。リーゼは庭で花を摘んでいる。マルタが傍について、何か笑いながら話しかけている。
(……この子たちは、大丈夫だ)
大丈夫。
その言葉の重さが、辺境伯領にいた頃とは違っていた。あの頃の「大丈夫」は、自分に言い聞かせる呪文だった。今の「大丈夫」は、もう少しだけ──本物に近い。
◇
——同じ頃。辺境伯領グラーフェンベルク。
執務室の椅子は、硬かった。
俺がこの椅子に座るのは、当主になって十年目にして初めてだ。カタリーナがいる間は、ここに座る必要がなかった。書類は全て彼女が処理し、俺は最後に印を押すだけでよかった。
机の上に書類が積まれている。カタリーナが去る前に仕分けて置いていったものだ。付箋が貼ってある。「至急」「今月中」「要確認」。
一番上の書類を取った。
『ラウシュ河水利権更新契約——期限:本月二十日(三日後)』
引き継ぎ資料を開く。治水の章。五十頁。
「水門の開閉スケジュールは季節ごとに異なり、上流ヴァルデン村との協定に基づく。春季の増水期は──」
文字を追う。頭に入らない。ヴァルデン村との協定の詳細は別紙参照、別紙は巻末資料の第七項——巻末を開く。別の書類が挟まっている。更に別の参照先が書いてある。
(……これを、あいつが一人でやっていたのか)
一瞬、そう思った。
だが、すぐに首を振った。
「家臣にやらせればいい。クラウスを呼べ」
声に出して、少し安心した。そうだ、家臣がいる。筆頭家臣のクラウスは四十五年この領地にいる男だ。あいつなら——
扉を開けて廊下に出た。侍従に「クラウスを呼べ」と命じる。
待つ間、もう一度机に目を向けた。書類の山。その向こうに、空っぽの本棚がある。
──カタリーナの本棚だ。
治水の専門書、農政の参考書、法律の写本。全て持っていかれた。棚に残っているのは、埃の跡だけだった。
(……なんとかなる)
俺は椅子に座り直し、水利権の書類をもう一度手に取った。
なんとかなる。
──なんとかなるはずだ。




