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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第7話 出る幕


「元辺境伯が、お見えになっています」


 クラウスの声は平坦だった。


 作業場の扉の前に立った筆頭家臣は、報告書を読み上げる時と同じ顔をしていた。眉一つ動かさず、声に感情を乗せず。ただ事実だけを述べている。


 ペンが止まった。


 図面の上に引きかけた線が、途中で途切れている。南東屈曲部の導流壁。昨夜からニコラウスと二人で詰めていた設計の、最後の一線だった。


「……どこに」


「管理事務所の玄関です。門番に止められましたが、押し問答になりまして。私が応対いたします」


「お願いします」


 それだけ言った。


 クラウスが一礼して、扉を閉めた。足音が廊下を遠ざかっていく。


 ペンを握り直した。途切れた線の続きを──引こうとした。


 引けなかった。


 指先が、動かない。


(ルートヴィヒが──ここに来た)


 この領地に。かつて自分の領地だった場所に。爵位を剥奪された男が、何の資格もなく。


 何をしに来たのだろう。復興を手伝いたいのか。旧領地に戻りたいのか。それとも──テオの件で何かを頼みに来たのか。


 どれであっても、答えは同じだ。


 ペンを置いた。置いて──三つ数えて、もう一度取り上げた。


 線を引いた。途切れた箇所から。まっすぐに。


 導流壁の最終線。角度が合っている。数値に誤差はない。ペンの先が紙を離れた時、線は完成していた。


「……続けましょう」


 ニコラウスが向かいの椅子に座っている。図面のこちら側──いつも通り、私の側から正しく読める向きに置かれた図面。あの人は何も聞かなかった。ルートヴィヒが来たことについて。


 当たり前だ。この人は、聞くべきでないことを聞かない。


「導流壁の厚さ、この区間は三割増しで」


「同意です。流速データとの照合は──」


「午後にやりましょう。昼までに石材の配置を決めてしまいたい」


 ペンが走る。二本のペンが、同じ図面の上を。


 廊下の向こうから、かすかに声が漏れ聞こえた。男の声。クラウスの声。低く、短く、言葉が交わされている。内容は聞き取れなかった。聞き取る必要もなかった。



 昼前に、クラウスが戻ってきた。


「お帰りいただきました」


 それだけだった。


「……何を言っていましたか」


 聞いたのは、必要だったからだ。感情ではなく、情報として。ルートヴィヒの動向は、復興事業に影響し得る。


「『俺にも手伝わせてくれ』と」


 クラウスの声が、初めてわずかに揺れた。揺れたのは怒りではなく──疲労だった。四十五年この領地にいた男の、深い疲労。


「お答えしました。『引き継ぎ資料をお読みになりましたか。あの資料を書いた方が、今、新しい堤防を設計しておられます。あなたの出る幕はございません』と」


 静かだった。


 クラウスの声には、嘲りもなく、怒りもなく、勝ち誇りもなかった。事実を述べただけだ。引き継ぎ資料を書いた人間が、新しい堤防を設計している。それ以上でも以下でもない。


「それで」


「しばらく立っておられました。それから、門を出ていかれました。馬で。一人で」


 一人で。


 ロゼッタはいなかったのだ。テオもいなかった。一人で来て、一人で帰った。


「……ありがとう、クラウス」


「いえ」


 クラウスが一礼して出ていった。


 作業場に、また二人きりの静けさが戻った。


 図面の上で、ペンが止まっている。さっき引いた導流壁の線。途切れずに、最後まで引けた線。


 ルートヴィヒが来ている間も──この線は途切れなかった。


 一瞬止まった。指が動かなくなった。それは認める。


 けれど、引き直した。続きを引いた。完成させた。


 それだけのことだ。



 昼食を挟んで、午後。


 石材の配置が決まり、図面の最終確認に入っていた。ニコラウスが赤いインクで修正線を入れ、私が数値を検算する。いつもの作業だ。


 ニコラウスのペンが、ふと止まった。


 図面の一箇所を見つめている。南東屈曲部の護岸設計。私が今朝引いた線──導流壁の角度と、護岸の曲線が接する部分だ。


「どうしました」


「この線」


 ニコラウスの指が、私の引いた曲線をなぞった。


「美しい」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……線が、ですか」


「護岸の曲率が、流速の変化に正確に対応している。角度の遷移が滑らかで、石積みの施工が無理なくできる形状になっている。──計算で出した線ではなく、現場を知っている人間の線です」


 技術者としての絶賛だった。


 美しい、という言葉を、この人は設計の精度に対して使っている。曲線の美しさではなく──その曲線が水と石と人の手に対してどれだけ誠実かということを、「美しい」と呼んでいる。


「褒めても何も出ませんよ」


「出ています」


 ニコラウスが真顔で答えた。


「良い堤防が」


 ──この人は。


 冗談ではないのだ。本気で言っている。図面の線が美しいことと、良い堤防ができることが、この人にとっては同じことなのだ。


「……ありがとうございます」


 笑いそうになるのをこらえて、検算に戻った。数字を追う。流速の照合。石材の重量計算。


 ペンを走らせながら、頬が緩んでいることに気づいた。こらえきれなかったらしい。


 ニコラウスは──気づいていないふりをして、赤い修正線の続きを入れていた。耳の端が、例によって赤い。



 ──同じ日の午後。旧辺境伯領からの帰路。


 馬の背に揺られていた。


 街道は空いていた。秋の午後。低い日差しが、丘陵地帯を橙色に染めている。かつての自分の領地が、馬上から見える。


 領主館の方角は──もう見えない。丘を一つ越えたところで背中に回った。


 代わりに見えるのは、ラウシュ河沿いの景色だった。


 河川敷。護岸。堤防。


 ──堤防。


 崩壊した箇所は、管理事務所の近くだ。もう視界から外れている。けれど街道沿いに、壊れていない区間が続いていた。


 馬の足を緩めた。


 河川敷を見下ろす形になる。護岸の石積みが、午後の光を受けて白っぽく光っている。


 石の積み方が──不揃いだった。


 いや、不揃いなのは上流側だけだ。街道に沿って下流に目を移すと、石積みが少しずつ変わっていく。目地が均等になり、石のサイズが揃ってくる。最初は粗くて不格好だった積み方が、下流に行くほど──上手くなっている。


(あの技師が言っていたことと同じだ)


 管理事務所で追い返された時、門番の後ろから技師の声が聞こえた。正確には聞こえていない。聞こえたのはクラウスの声だけだ。けれど作業場の窓が開いていて、中から二本のペンが走る音がかすかに漏れていた。


 カタリーナが、あの中にいた。


 図面を引いていた。俺が立っている間も。


 馬を止めた。


 河川敷に降りた。長靴は──履いていない。革靴のまま、枯れ草を踏んで護岸の前に立った。


 石積みに、手を触れた。


 冷たかった。秋の午後でも、水辺の石は冷えている。表面に苔がついている。安定している証拠だと──あの引き継ぎ資料のどこかに書いてあった気がする。


 目地を指でなぞった。


 均等だった。一つ一つの石の間隔が、ほぼ同じ幅で詰められている。手仕事の精密さ。機械ではなく、人間の手が──何年もかけて。


 視線を上流に戻した。最初の年の石積み。不揃いで、目地が粗くて、素人の仕事。


 素人が、七年かけて、ここまで上手くなった。


 毎年、冬になると。長靴を履いて。泥の中に膝まで浸かって。ひびを探して。目地を詰めて。石を積み直して。


 毎朝五時に。


 俺が王都の別邸でロゼッタと朝食を取っていた、あの時間に。


(これを──毎朝──)


 石から手を離した。


 指先に、目地の砂の感触が残っていた。ざらりとした、冷たい感触。


 堤防の向こうに、水門があった。小さな水門。木製の、古いもの。取っ手の部分が擦り減っている。何百回も何千回も、開閉を繰り返した跡。


 水門の柱に、刻み目があった。水位の目盛り。定規ではなく、刃物で一本一本刻んだもの。等間隔で、正確に。


 カタリーナの手だ。


 引き継ぎ資料に「水門の水位は目盛りで確認」と書いてあった。この目盛りのことだ。定規がなかったから、自分で刻んだのだ。


 俺はこの水門を知っていた。


 知っていた、はずだ。十年間、この領地の当主だった。この水門も、あの堤防も、あの石積みも──知っていたはずだ。


 知らなかった。


 十年間、この景色の中にいて──何も見ていなかった。


 月の半分は王都にいた。残りの半分は──領主館の執務室にいた。いや、執務室にすらいなかったかもしれない。書類はカタリーナが処理し、俺は最後に印を押すだけだった。


 堤防に足を運んだことは──一度もない。


 水門の目盛りを見たことは──一度もない。


 石積みの目地に手を触れたことは──一度もない。


 全部、ここにあった。十年間ずっと。毎朝五時に、妻が手を動かした跡が。


 馬に戻った。鞍に跨り、手綱を取った。


 振り返らなかった。


 振り返る資格が、もうなかった。


 街道を走る馬の蹄が、石畳を蹴る音だけが響いていた。秋の夕暮れ。丘の向こうに日が沈んでいく。


 背中に──あの堤防が遠ざかっていく。


 遅かった。


 何もかもが。

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