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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第2話 三つの不備


「問題は三つあります、母上」


 エーリヒは法律書を開いた。


 入学者一覧を見せた翌日の午後。私室の机に向かい合って座った息子は、王国貴族法概論の付箋だらけの頁を指で押さえていた。その横に、王国学制要覧。さらにもう一冊、庶子認知に関する判例集。


 十歳の机に、この本の山は重すぎないだろうか。


「一つ目。認知」


 エーリヒの声は淡々としていた。感情を排して事実を並べる時の、あの声だ。


「テオ・メルツは、父上──元辺境伯ルートヴィヒの庶子です。けれど庶子認知の申請は、爵位保有者にしか提出資格がありません。父上は爵位を剥奪されています。つまり、今からでは認知手続きができない」


 頁をめくった。


「二つ目。姓。認知が未了である以上、テオにはグラーフェンベルクの姓を名乗る法的根拠がありません。入学申請が母方の姓『メルツ』で出されているのは、そのためです」


 もう一度めくった。


「三つ目。入学資格。貴族子弟としての入学枠は『爵位保有者の嫡子』または『貴族院に登録された家門の子弟』に限られます。テオはどちらにも該当しない。平民枠──学力試験による特別入学枠でしか、学園に入る道がありません」


 法律書を閉じた。


 十歳の指が、表紙の上で止まった。


「三つとも、父上の不作為が原因です」


 その一言が、静かに、私室の空気に落ちた。


 ──不作為。


 認知の手続きを放置したのは、ルートヴィヒだ。面倒だったから。公にしたくなかったから。ロゼッタとの関係を書類という形で残したくなかったから。あの人はいつもそうだった。判断を先延ばしにする。面倒なことから目を逸らす。


 その癖が、九つの子供の足枷になっている。


「エーリヒ。──あの子のことを、調べてくれたのね」


「調べたというか、法律書を読めば分かることです」


 素っ気なかった。けれど、付箋の数がその言葉を裏切っている。ニコラウスが貼った一枚の付箋から関連規定を辿り、庶子認知の条文を見つけたのが半年前。そこからさらに、入学資格の要件と突き合わせたのだ。一晩二晩でできる作業ではない。


「あの子に罪はない。問題は制度です」


 エーリヒが私を見た。


 まっすぐに。あの応接室でルートヴィヒに問いかけた時と同じ、容赦のない目。けれど今日のその目は、誰かを責めるためではなく、何かを組み立てるための目だった。


「平民枠は、学力試験さえ通れば入学できます。あの子がどれだけ勉強しているか、僕は知りません。けれど制度上、道はあります」


「……ええ」


「僕が気にしているのは、そこではありません」


 エーリヒの声が、わずかに硬くなった。


「学園で、あの子と僕が顔を合わせることです。同じ学園に──元辺境伯の嫡男と、認知されなかった庶子がいる。周りが何を言うか。あの子にとっても、僕にとっても」


 十歳が、ここまで見通している。


(この子は大人になりすぎている)


 そう思うべきなのか。それとも──この子なりの戦い方が、法律書の中にあることを、認めるべきなのか。


「エーリヒ。あなたは、嫌?」


「嫌かどうかは問題ではありません。制度の問題を感情で片づけたくないだけです」


 ──この子は、私に似ている。


 十年間、感情を帳簿の下に押し込めてきた私に。数字で戦い、記録で証明し、一箇所の間違いもなく生きてきた私に。


「分かったわ。あの子の件は、必要になったら動きましょう。今は、あなたの入学を整えることが先よ」


「はい」


 エーリヒが法律書を脇に寄せた。代わりに、入学書類の束を取り出す。不備のない、角の揃った書類。


「──それで、保証人欄の件なのですが」


「ええ」


「母上は、どうお考えですか」


 保証人欄。


 学園の入学願書には、保護者と保証人の署名欄がある。保護者は親権者──私だ。保証人は、家門の後見人、または入学者の生活を保証する成人男性。


 リンデン伯爵家の外孫として入学するエーリヒの保証人は、祖父アルブレヒトが適任だ。実際、父の名前を書くのが最も自然な選択ではある。


 けれど──もう一つの選択肢が、机の上にある。


 ニコラウスの名前。


 名誉技術顧問。両国の条約に共同設計者として名を連ねた、公国の功労者。特別許可婚により、エーリヒとリーゼの保護者としての法的権利が認められている。


 保証人として名前を書く資格は、ある。


「あなたの意見を聞きたいわ、エーリヒ」


「僕の意見ですか」


「あなたの入学よ。あなたが決めていいの」


 エーリヒは少し黙った。法律書に手を伸ばしかけて、止めた。法律書には載っていない問題だと、この子も分かっている。


「……少し、考えさせてください」


「ええ。急がなくていいわ」


 エーリヒが書類を抱えて部屋を出ていった。足音が廊下を遠ざかる。書庫の扉が開く音はしなかった。庭に出たのだろうか。



 夜。


 作業場の蝋燭を灯して、旧辺境伯領の復興資料を広げていた。王家から正式な委託はまだだが、クラウスの手紙で現状は把握している。堤防は応急処置のまま。次の増水期までに本格的な補修が要る。


 扉が静かに開いた。


 ニコラウスだった。


 外套を脱いで椅子の背にかけ、机の向かいに座った。手に、何も持っていない。報告書も、図面も。仕事で来たのではないことが分かった。


「……エーリヒから、聞きましたか」


「ああ」


 短い返事だった。ニコラウスの声は平静だったが、椅子に座る動作がいつもより慎重だった。言葉を選んでいる時の、あの空気だ。


「保証人欄の件」


「はい」


 沈黙が落ちた。


 蝋燭の火が揺れる。作業場の窓の外は暗い。春の夜は冷える。


「書くべきだと思う」


 ニコラウスが、先に口を開いた。


「私の名前を。──保証人として」


 声は低かった。技術の話をする時の安定ではなく、堤防の上で求婚した時の、あの少し不安定な声に近い。


「けれど、押しつけるつもりはない」


 付け足した。視線が私ではなく、机の上の図面に落ちている。


「エーリヒの入学はエーリヒのものだ。保証人の欄に誰の名前を書くかは──あの子自身が決めることだ」


 正しかった。正しい考えだった。


 なのに、胸の中で何かが引っかかった。


(書くべきだと思う、と言った。──けれど押しつけないと)


 その言い方に、覚えがあった。覚えがあるのではなく、覚えがないのだ。


 ルートヴィヒは判断を先延ばしにした。面倒なことを避けた。ニコラウスは──自分の意見を言った上で、決定権を相手に預けている。


「ルートヴィヒのように判断を先延ばしにしたくない」


 ニコラウスが、低い声で言った。


 初めてだった。


 この人が、前夫の名前を口にしたのは。


 五年間の書簡で一度も。再会してからの一年半で一度も。条約交渉の場でも、公聴会でも、婚姻の席でも。ニコラウスはルートヴィヒの名前を避けてきた。意識してか無意識か──あの名前に触れることを、この人は選ばなかった。


 今、初めて。


「……エーリヒにとって、保証人の名前は記号ではない。あの子が学園で五年間背負う名前だ。だから──私がどう思うかではなく、あの子がどう思うかだ」


 蝋燭が、ぱちりと音を立てた。


 私は──何も言えなかった。


 言えなかったのは、喉が詰まったからではない。胸の奥で、ごく小さな──ほんの一瞬の身構えが、溶けていったからだ。


(また男の人の判断に従うのか)


 そう、思いかけた。反射だった。十年間の癖だ。夫が何かを決める。私がそれに従う。あるいは、夫が何も決めない。私が全部背負う。どちらにしても、対等ではなかった。


(──違う)


 この人は、判断を押しつけていない。自分の意見を述べた上で、決定権をエーリヒに渡している。私に渡しているのではない。エーリヒに。


 それは──対等よりも、もう少し先にあるものだ。


「ありがとうございます」


 声が、思ったより穏やかに出た。


「エーリヒに任せましょう」


 ニコラウスが頷いた。


 沈黙が戻った。けれど、先ほどとは違う沈黙だった。重さが消えて、夜の作業場の静けさだけが残っている。


 私は椅子から立ち上がり、棚の奥から茶器を取り出した。薬缶に水を注ぎ、小さな火にかける。


 背後で、椅子が鳴った。


 振り返ると、ニコラウスが立ち上がっていた。私の手から茶器を取ろうとして──止まった。代わりに、棚からカップを二つ出した。


 私が湯を沸かし、ニコラウスがカップを並べる。


 私が茶葉を量り、ニコラウスが湯を注ぐ。


 言葉はなかった。


 二つのカップに茶が満ちた。湯気が、蝋燭の灯りに透ける。


 ニコラウスが一つを私に差し出し、もう一つを自分の手に取った。


 ──何も言わず、同じ時間に、同じ温かさを飲む。


 それだけのことが、今はひどく確かだった。



 翌朝。


 朝食の席に、エーリヒが入学書類を持ってきた。


 昨日と同じ、角の揃った書類の束。けれど一箇所だけ、違っていた。


 保証人欄に、名前が書かれていた。


「先生の名前で、お願いします」


 エーリヒは紅茶のカップを持ったまま、ニコラウスを見た。


 ニコラウスの手が──止まった。パンを千切りかけた指が、空中で固まっている。


「母上にもおじいさまにも相談しませんでした。僕が決めました」


 声は硬かった。けれど、揺れてはいなかった。


「先生は、母上の仕事を名前で呼んでくれた人です。僕の入学書類にも、先生の名前があっていいと思いました」


 ニコラウスが──パンを皿に置いた。


 何か言おうとした。口を開いて、閉じた。もう一度開いて──やはり、声にならなかった。


 耳が赤い。


 リーゼが「ニコラウスがほしょにんー?」と聞いた。父がリーゼの頭を撫でた。マルタが朝食の皿を並べる手を止めて、窓の方を向いた。目元を拭うためだろう。


「……ありがとう」


 ニコラウスの声が、ようやく出た。掠れていた。


 エーリヒは答えず、紅茶を飲んだ。十歳の仕草は、いつも通り大人びていた。


 私は何も言わなかった。言う必要がなかった。この子は自分で決めた。自分の足で。


 ──そこへ、マルタが封書を持ってきた。


「奥様。クラウスより急信です」


 受け取った。封を切る。短い文面。


『カタリーナ様


 ご報告いたします。元辺境伯ルートヴィヒが、テオの入学手続きのため王都の学園事務室に現れたとの情報が入りました。入学資格の確認を求めたようですが、爵位剥奪済みの人物に保護者としての権限はなく、事務室は対応を保留しているとのことです。


 筆頭家臣 クラウス』


 手紙を膝の上に置いた。


 ルートヴィヒが──動いている。テオのために。


 遅すぎる。遅すぎるけれど、初めてかもしれない。あの人が「子供のために」動いたのは。


 朝食の席に、春の光が差し込んでいた。エーリヒの書類の束。ニコラウスの赤い耳。リーゼの蜂蜜。父の穏やかな叱り声。


 そして──学園の向こうで、爵位のない男が、認知もできない息子のために事務室の前に立っている。


 方法が、全部間違っている。


 けれど──初めて、あの人が親の顔をしようとしていることだけは、否定できなかった。

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