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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第1話 新しい長靴


 新しい長靴は、まだ足に馴染んでいなかった。


 革が硬い。踵の内側がわずかに擦れる。十年履き続けた辺境伯領の長靴は、最後には足の形そのものになっていた。あれを持ち出さなかったことを、たまに思い出す。


 ──持ち出さなくてよかった。新しい靴を履けばいい。


 クレン河の河川敷。朝の空気が冷たい。春とはいえ、日が昇りきる前の水辺には冬の名残がある。石積みの護岸に手を触れると、指先にざらりとした砂の感触。目地のモルタルに異常はない。苔が薄く張りついている。安定の証だ。


「カタリーナ様、上流の水門も確認してまいりました。問題ありません」


 フリッツが駆け寄ってきた。息が白い。この若い家臣が堤防点検に同行するようになって、もう半年になる。最初の頃は水位の記録を忘れたり、合流点と屈曲部を取り違えたりしていた。


 今は、違う。


「排水口は?」


「南東側に落ち葉が詰まりかけていたので、取り除きました。写真代わりに手帳に描いておきました」


 差し出された手帳を見た。排水口の略図。詰まりの位置と、除去した量の概算。字は癖があるが、情報は過不足ない。


「……よくできています」


「カタリーナ様の手帳を真似ただけです」


 フリッツが頭を掻いた。


 ──引き継ぎが、できている。


 あの領地では、引き継ぎ資料を三百二十四頁書いて、それでも引き継がれなかった。ここでは半年の点検同行で、フリッツが自分の手帳を作り始めた。


 一人で抱え込まない。それが、十年かけて学んだことの一つだ。


「明後日の朝は、フリッツだけで回ってみてください。報告は昼までに」


「え──一人でですか」


「大丈夫。あなたの手帳があれば、迷いません」


 フリッツが深く頭を下げた。その背中を見送りながら、河川敷を上がった。


 長靴の泥を門の前で落とす。半年経っても、この動作だけは変わらない。泥を落として、靴を脱いで、屋敷に入る。十年間、毎朝そうしてきた。場所が変わっただけだ。



 朝食の席に着くと、エーリヒが書類を広げていた。


 十歳の長男は、紅茶のカップの横に入学関連の書類を並べ、一枚ずつ確認している。入学願書、身分証明書、健康証明、保証人署名用紙。


「エーリヒ。朝食の席で書類は──」


「全部揃っています、母上。不備はありません」


 遮られた。エーリヒが書類の束を揃えて、私の前に差し出す。角がきっちり合っている。


「母上の書類術を学びました」


 その一言に、手が止まった。


 書類術。帳簿の角を揃えること。付箋の色を用途で分けること。不備を出す前に三度確認すること。辺境伯領の十年間で身についた、地味で、誰にも褒められない技術。


 それを、この子は「学んだ」と言った。


「……見せてちょうだい」


 受け取った。入学願書の記入欄。筆跡はまだ幼いが、一字の書き損じもない。身分証明書の添付書類も順番通り。保証人欄は──空欄のままだった。


「保証人の欄は、まだ書いていないのね」


「はい。それは母上に相談してからと思いまして」


 私は頷いた。保証人欄の件は、後で話す。


「おかあさまー、蜂蜜ー」


 リーゼがパンを振り回しながら手を伸ばした。九歳になっても蜂蜜への執着は変わらない。ニコラウスがリーゼの皿に蜂蜜を足してやりながら、エーリヒの法律書に目をやった。


 ──法律書?


 朝食の席の端に、分厚い本が置いてある。エーリヒのだ。王国貴族法概論。その横に、もう一冊。王国学制要覧。どちらにも付箋が貼ってある。


「エーリヒ、入学前から法律書なの」


「入学してからでは遅いので」


 この子は変わらない。


 エーリヒが紅茶を飲み、ふと顔を上げた。


「母上。一つ聞いてもいいですか」


「何かしら」


「作業場の椅子のことです」


 唐突だった。作業場の椅子。導流堤の設計図面を広げる、あの机と椅子のことだ。


「椅子がどうかしたの」


「毎朝、窓際に寄せてあるでしょう。日が当たる位置に」


「ええ。──掃除のついでに動かしたのかと思っていたけれど」


 エーリヒがニコラウスを見た。ニコラウスは紅茶のカップに口をつけたまま、微動だにしない。


「掃除は午後です」


 エーリヒが言い切った。


「先生は母上より先に起きて、作業場の椅子を窓際に動かしているんです。毎朝」


 沈黙。


 ニコラウスのカップが止まっている。紅茶の水面が揺れていない。


 リーゼだけが「ニコラウスはおかあさまのいすをうごかしてるのー?」と無邪気に聞いた。


「……点検のついでに、部屋の換気を確認しているだけです」


 ニコラウスの声は平静だった。平静だったが、耳の端が──赤い。


(換気の確認で、椅子が日当たりの良い位置に移動するのかしら)


 突っ込まなかった。突っ込んだら、この人は黙る。黙ったまま、明日もまた椅子を動かすのだろう。


「そうですか。──ありがとうございます、換気の確認」


 ニコラウスが紅茶を飲み干した。


 エーリヒが私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。全部見ている目だ。



 朝食の後、父の書斎に呼ばれた。


 重い樫の机。革張りの椅子。壁一面の書棚。いつものインクと古紙の匂い。父が椅子に座り、茶を注いでくれた。二人きりの時だけの癖だ。


「エーリヒの入学準備は順調か」


「書類は本人が揃えました。不備なく」


「……十歳がか」


「私の書類術を学んだそうです」


 父の口元がわずかに緩んだ。すぐに戻った。


「入学の件とは別に、一つ話がある」


 茶を一口飲んだ。


「カタリーナ。お前がリンデン伯爵家の次女であることは知っているな」


「はい」


「伯爵家の後継について、そろそろ整理しておきたい」


 後継者問題。


 読者──いや、周囲の者たちが気にしているであろうことだ。リンデン伯爵家は父アルブレヒトの代で、嫡流の男子がいない。私は次女で、姉は早世している。この家に一人娘を嫁に出した状態で後継がいないのは、確かに不安定に見える。


「ただ──お前も知っての通り、私には兄がいる」


「クラウディウス伯父様ですね」


「うむ。兄は五年前に隠居したが、兄の息子──お前の従兄弟のフランツが健在だ」


 フランツ・フォン・リンデン。父の兄の嫡男。私より三つ年上で、確か──


「今はザールフェルト公国に外交官として赴任中でしたね」


「ああ。フランツが伯爵家の正統な後継者だ。私はあくまで弟筋で、当主代行を務めている形になる。フランツが赴任から戻れば、家督はフランツに移る」


 つまり──伯爵家の存続に問題はない。


「お前が心配する必要はないということだ。ただ、フランツが戻るまでは領地の実務を私が見ている。──お前にも、しばらく手伝ってもらうことになるが」


「承知しています。クレン河の治水はそのまま続けます」


「それでいい」


 父が茶を飲み干した。表情が少し柔らかくなっている。後継の話を片づけたことで、肩の荷が一つ降りたのだろう。


「それから──もう一つ」


 父が机の引き出しから封書を取り出した。


「学園の事務局から、入学予定者の一覧が届いている。同年度に入る子弟の名と出身が記載されたものだ」


 受け取った。封を切り、一覧に目を通す。


 貴族子弟の名前が並んでいる。家門名と入学枠──「嫡子」「家門登録」「特別入学枠」。


 指が、止まった。


 一覧の下の方。特別入学枠の欄。


「テオ・メルツ」。


 母方の姓だった。


 グラーフェンベルクではない。メルツ。ロゼッタの姓。平民枠──学力試験による特別入学枠での申請。


(あの子は──グラーフェンベルクの姓を使えなかったのだ)


 使えなかった。エーリヒが法律書から見つけた通り、庶子認知が未了のまま爵位が剥奪された。テオには、あの姓を名乗る法的根拠がない。


 一年半前、王都の街路で辻馬車に乗り込む三人の姿を見た。ルートヴィヒと、ロゼッタと、小さなテオ。あの子は車輪を無邪気に眺めていた。


 あの子に罪はない。


 けれど、あの子がエーリヒと同じ学園にいることは──波紋になる。


「お父様。テオ・メルツの名前があります」


「……見えている」


 父の声が、低くなった。


「平民枠だ。グラーフェンベルクの姓を使えていない。──つまり、認知手続きが未了のまま、ということか」


「はい」


 一覧を机に置いた。


 エーリヒの書類の束が、鞄の中にある。不備のない、角の揃った書類。あの子が「母上の書類術を学んだ」と言って整えた、入学願書。


 テオの入学申請書は、誰が書いたのだろう。ロゼッタか。ルートヴィヒか。それとも──テオ本人が。


(考えても仕方ない。今は、エーリヒの入学を整えること)


「お父様。エーリヒの保証人欄について、後で相談させてください」


「ああ。──無理はするな」


 父の声を背中に受けて、書斎を出た。


 廊下の窓から、春の光が差し込んでいる。クレン河の水面が遠くに光っている。導流堤の石積みが、朝日に白く浮かんでいる。


 この家は大丈夫だ。


 後継者はフランツがいる。堤防はフリッツが引き継ぐ。エーリヒの書類は不備がない。


 ただ──一覧の中の「テオ・メルツ」の五文字が、胸の底に小さな石のように沈んでいた。


 あの子は今、どこにいるのだろう。


 新しい長靴は、まだ少し足に硬い。けれど明日の朝には、もう少し馴染んでいるはずだ。

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