表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/63

第10話 一緒に


新しい堤防の上を、風が渡る。


春の風だった。冬を越えた草が芽吹き、水面が光り、石積みの目地に小さな苔が生え始めている。


──けれど、それはもう少しだけ先の話。



条約の締結式は、王都の貴族院で行われた。


大広間ではない。東棟の、条約専用の小部屋。重い樫のテーブルに、二通の羊皮紙が並んでいる。一通は王国の紋章入り。もう一通はザールフェルト公国の紋章入り。同じ文面が、二つの国の言葉で記されている。


『クレン河流域治水協力条約』


出席者は多くなかった。王国側は外務担当官、財務官、リンデン伯爵アルブレヒト。公国側は外交官二名と、河川局の局長。


そして──私と、ニコラウス。


条約文書の本文を、外務担当官が読み上げていく。流域の共同管理。技術協力。合同点検の頻度。水害予防の枠組み。一条ずつ確認していくその声を聞きながら、私は手元の羊皮紙を見つめていた。


条文の末尾。署名欄の上に、活版で刻まれた一行。


『共同設計者:カタリーナ・フォン・リンデン ニコラウス・ヴェーバー』


国家間の条約に、私の名前がある。


十年間──辺境伯領で堤防を直し、帳簿をつけ、識字教室を開き、交易路を拓いた。その全てが「辺境伯ルートヴィヒの功績」として王都に報告されていた。私の名前はどこにもなかった。


三百二十四頁の引き継ぎ資料。あの資料の全頁が私の手書きであることは、王家の筆跡鑑定官が認めた。領民九十七世帯が証言した。公聴会で、貴族院が承認した。


それでも──名前が「残る」こと、「刻まれる」ことの重みは、認定とは別のものだった。


この条約は、消えない。


王国とザールフェルト公国が存在する限り、この文書は両国の公文書館に保管される。百年後にも。その先にも。


「カタリーナ・フォン・リンデン」の名前が、ここにある。


ルートヴィヒの名前は、どこにもない。


(……復讐のつもりはなかった。一度も)


復讐のために堤防を直したのではない。復讐のために帳簿をつけたのでもない。引き継ぎ資料を作ったのも、治水顧問になったのも、条約交渉に臨んだのも──全て、目の前の仕事に向き合っただけだ。


けれど結果として、この場所に辿り着いた。


自分の名前で。自分の仕事で。


「署名をお願いいたします」


外務担当官に促されて、ペンを取った。


インクをつけた。羊皮紙の上に、自分の名前を書く。一画ずつ丁寧に。帳簿をつける時の筆跡で。十年間、毎晩蝋燭の下で鍛えた文字で。


署名が終わった。インクが乾くのを待つ間、隣でニコラウスが同じ条約文書に署名していた。


ペンを置く音が、静かな部屋に落ちた。



条約締結の翌日。公国の公爵フリードリヒ・フォン・ザールフェルトより、布告が届いた。


『ニコラウス・ヴェーバーに対し、両国の治水事業に対する功績を認め、名誉技術顧問の称号を授与する』


名誉称号。非世襲の称号ではあるが、公国の君主が公式に認めた功労者の証だ。


これにより──平民と貴族の婚姻に必要な「特別許可」の要件が、実質的にクリアされた。国家間の功労者に対する特別叙任の慣例。ニコラウスの治水功績がこれに該当すると、公国が認めた。


王国側の許可も、条約締結の功績を根拠に下りた。


二つの許可。


二つの国の主権者が、認めた。


知らせを受け取った時、私は作業場で導流堤の定期点検報告書を書いていた。マルタが封書を持ってきて、内容を読んで、ペンを置いた。


ペンを置いて──窓の外を見た。


クレン河が光っていた。春の水面が、午後の日差しに揺れていた。


「……マルタ」


「はい、奥様」


「お式の準備を、お願いできますか」


マルタの目が──潤んだ。


「……はい」


声が震えていた。けれど、泣かなかった。泣くのは、もう少し先に取っておくつもりなのだろう。



式は、盛大なものではなかった。


リンデン伯爵邸の庭。銀木犀の木の下。十年前にこの門を出た朝にも同じ匂いがしていた、あの木の下で。


参列者は少なかった。父アルブレヒト。エーリヒとリーゼ。マルタ。家臣のフリッツ。クラウス──旧辺境伯領から、わざわざ来てくれた。公国の河川局長が、ニコラウスの立会人として。


ニコラウスは、例の紺色の正装を着ていた。髪を撫でつけて、普段より少しだけ背筋が伸びている。けれど手は同じだった。日に焼けた、節の太い、技師の手。


私の手を取った時、その手が震えていた。


「……緊張していますか」


「していません」


嘘だった。耳が赤い。


「一分も遅れなかったでしょう」


ニコラウスが、ほんの少しだけ笑った。


式の言葉は短かった。立会人が誓約を読み上げ、二人が署名をする。それだけだ。貴族の婚姻は教会で行う慣習があるが、法的効力は貴族院への届出による。実質的な手続きは、紙の上で完結する。


署名をした。二度目の署名。条約に続いて。


──けれど今度は、自分の名前の隣に、もう一つの名前が並んでいる。


「カタリーナ・フォン・リンデン」と「ニコラウス・ヴェーバー」。


条約文書にも、婚姻届にも、同じ二つの名前が並んでいる。


父が、私の前に立った。


銀木犀の木漏れ日が、父の白髪に落ちている。十年前より白髪が増えた。背が少し縮んだ。けれど立ち姿は変わらない。


「幸せになりなさい」


短かった。父はいつもそうだ。多くを語らない。


十年前の嫁入りの朝にも、「体に気をつけなさい」と短く言った。あの時は──その一言に、どれだけのものが詰まっていたか、分からなかった。


今は、分かる。


「はい」


それだけ答えた。声は震えなかった。


マルタが──泣いた。


今度こそ、声を上げて。


十年間、何度も泣いた人だ。辺境伯領を出る日に泣いた。帳簿の写しを抱えて泣いた。堤防の完成式典の後にも泣いた。けれど今日の涙は、それまでの涙とは違った。


嬉しくて泣いている。


初めて見た。マルタが嬉しくて泣くのを。


「マルタ」


「も、申し訳ございません、奥様──」


「ありがとう」


マルタの肩を抱いた。小さな体が、腕の中で震えていた。


「……十年間、ありがとう」


マルタが、声にならない声で何か言った。聞き取れなかった。聞き取れなくてよかった。聞こえたら、私も泣いてしまう。


「母上、おめでとうございます」


エーリヒの声がした。


振り返った。十歳の長男が、まっすぐに立っていた。法律書は持っていない。背筋を伸ばして、少しだけ──笑っていた。


この子が笑うようになった。この一年で。


「ありがとう、エーリヒ」


「ニコラウスがおとうさまになった!」


リーゼが叫んだ。


庭に響き渡る声だった。八歳の娘は遠慮を知らない。ニコラウスが困った顔をした。父が咳払いをした。クラウスが笑いをこらえていた。


「リーゼ、もう少し小さい声で──」


「だっておとうさまでしょ!」


ニコラウスが──困った顔のまま、膝をついた。リーゼと同じ目の高さになって、頭についた花びらを取ってやった。


「……よろしくお願いします」


ニコラウスの声が、掠れていた。


リーゼはそんなことは気にせず、「よろしくー!」と叫んで庭を走り出した。マルタが「走ると転びますよ!」と追いかけた。


エーリヒが本を開いた。──いつ持ってきたのだろう。


銀木犀の下で、私はニコラウスの隣に立っていた。


隣に。


半歩後ろではなく。



春。


新しい堤防の上を、風が渡る。


導流堤の石積みが、朝日に光っている。合流点の水流は設計通りに分岐して、護岸を守っている。目地に苔が生え始めている。──苔が生えるということは、石が安定しているということだ。動かない石にしか、苔はつかない。


堤防の上を歩いている。


ニコラウスが隣にいる。半歩後ろではない。隣を、同じ歩幅で歩いている。


少し後ろを、エーリヒとリーゼが走っている。リーゼが「待ってー!」と叫び、エーリヒが「自分で追いつけ」と返している。マルタが「走ると転びますよ!」と追いかけている。


いつもの朝だった。


「風が強くなりますね」


ニコラウスが空を見上げて言った。


「水位を確認しないと」


「一緒に見に行きましょう」


一緒に。


一年前にも同じ言葉を交わした。あの時は──「一緒に」の意味が、まだ曖昧だった。仕事としての「一緒に」だった。


今は違う。


「ええ」


「一分も遅れません」


ニコラウスがそう言って──笑った。


不器用な笑い方だった。口元を少しだけ歪めるような、技師の笑い方。この人の笑顔は、いつもこうだ。大きく笑わない。けれど目が緩む。


笑い返した。


誰のためでもない笑顔だった。領民の前で浮かべる笑顔でもなく、辺境伯夫人としての微笑みでもなく、子供たちを安心させるための笑顔でもなく。


ただ──風が気持ちよくて、隣に人がいて、後ろで子供たちが笑っていて。


それだけで、笑えた。


堤防の上を歩く。水面が光る。風が草を揺らす。石積みが朝露に濡れている。


手を繋いだ。ニコラウスの手は温かかった。いつも温かい。


後ろで、リーゼの笑い声が弾けた。エーリヒが何か言っている。マルタの叱る声が風に流れてくる。


この堤防は壊れない。


一人で築いたものではないから。


返したものの重さを、もう量る必要はない。


手元にあるものが、全てだから。


堤防の上を、風が渡っていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ