第10話 一緒に
新しい堤防の上を、風が渡る。
春の風だった。冬を越えた草が芽吹き、水面が光り、石積みの目地に小さな苔が生え始めている。
──けれど、それはもう少しだけ先の話。
◇
条約の締結式は、王都の貴族院で行われた。
大広間ではない。東棟の、条約専用の小部屋。重い樫のテーブルに、二通の羊皮紙が並んでいる。一通は王国の紋章入り。もう一通はザールフェルト公国の紋章入り。同じ文面が、二つの国の言葉で記されている。
『クレン河流域治水協力条約』
出席者は多くなかった。王国側は外務担当官、財務官、リンデン伯爵アルブレヒト。公国側は外交官二名と、河川局の局長。
そして──私と、ニコラウス。
条約文書の本文を、外務担当官が読み上げていく。流域の共同管理。技術協力。合同点検の頻度。水害予防の枠組み。一条ずつ確認していくその声を聞きながら、私は手元の羊皮紙を見つめていた。
条文の末尾。署名欄の上に、活版で刻まれた一行。
『共同設計者:カタリーナ・フォン・リンデン ニコラウス・ヴェーバー』
国家間の条約に、私の名前がある。
十年間──辺境伯領で堤防を直し、帳簿をつけ、識字教室を開き、交易路を拓いた。その全てが「辺境伯ルートヴィヒの功績」として王都に報告されていた。私の名前はどこにもなかった。
三百二十四頁の引き継ぎ資料。あの資料の全頁が私の手書きであることは、王家の筆跡鑑定官が認めた。領民九十七世帯が証言した。公聴会で、貴族院が承認した。
それでも──名前が「残る」こと、「刻まれる」ことの重みは、認定とは別のものだった。
この条約は、消えない。
王国とザールフェルト公国が存在する限り、この文書は両国の公文書館に保管される。百年後にも。その先にも。
「カタリーナ・フォン・リンデン」の名前が、ここにある。
ルートヴィヒの名前は、どこにもない。
(……復讐のつもりはなかった。一度も)
復讐のために堤防を直したのではない。復讐のために帳簿をつけたのでもない。引き継ぎ資料を作ったのも、治水顧問になったのも、条約交渉に臨んだのも──全て、目の前の仕事に向き合っただけだ。
けれど結果として、この場所に辿り着いた。
自分の名前で。自分の仕事で。
「署名をお願いいたします」
外務担当官に促されて、ペンを取った。
インクをつけた。羊皮紙の上に、自分の名前を書く。一画ずつ丁寧に。帳簿をつける時の筆跡で。十年間、毎晩蝋燭の下で鍛えた文字で。
署名が終わった。インクが乾くのを待つ間、隣でニコラウスが同じ条約文書に署名していた。
ペンを置く音が、静かな部屋に落ちた。
◇
条約締結の翌日。公国の公爵フリードリヒ・フォン・ザールフェルトより、布告が届いた。
『ニコラウス・ヴェーバーに対し、両国の治水事業に対する功績を認め、名誉技術顧問の称号を授与する』
名誉称号。非世襲の称号ではあるが、公国の君主が公式に認めた功労者の証だ。
これにより──平民と貴族の婚姻に必要な「特別許可」の要件が、実質的にクリアされた。国家間の功労者に対する特別叙任の慣例。ニコラウスの治水功績がこれに該当すると、公国が認めた。
王国側の許可も、条約締結の功績を根拠に下りた。
二つの許可。
二つの国の主権者が、認めた。
知らせを受け取った時、私は作業場で導流堤の定期点検報告書を書いていた。マルタが封書を持ってきて、内容を読んで、ペンを置いた。
ペンを置いて──窓の外を見た。
クレン河が光っていた。春の水面が、午後の日差しに揺れていた。
「……マルタ」
「はい、奥様」
「お式の準備を、お願いできますか」
マルタの目が──潤んだ。
「……はい」
声が震えていた。けれど、泣かなかった。泣くのは、もう少し先に取っておくつもりなのだろう。
◇
式は、盛大なものではなかった。
リンデン伯爵邸の庭。銀木犀の木の下。十年前にこの門を出た朝にも同じ匂いがしていた、あの木の下で。
参列者は少なかった。父アルブレヒト。エーリヒとリーゼ。マルタ。家臣のフリッツ。クラウス──旧辺境伯領から、わざわざ来てくれた。公国の河川局長が、ニコラウスの立会人として。
ニコラウスは、例の紺色の正装を着ていた。髪を撫でつけて、普段より少しだけ背筋が伸びている。けれど手は同じだった。日に焼けた、節の太い、技師の手。
私の手を取った時、その手が震えていた。
「……緊張していますか」
「していません」
嘘だった。耳が赤い。
「一分も遅れなかったでしょう」
ニコラウスが、ほんの少しだけ笑った。
式の言葉は短かった。立会人が誓約を読み上げ、二人が署名をする。それだけだ。貴族の婚姻は教会で行う慣習があるが、法的効力は貴族院への届出による。実質的な手続きは、紙の上で完結する。
署名をした。二度目の署名。条約に続いて。
──けれど今度は、自分の名前の隣に、もう一つの名前が並んでいる。
「カタリーナ・フォン・リンデン」と「ニコラウス・ヴェーバー」。
条約文書にも、婚姻届にも、同じ二つの名前が並んでいる。
父が、私の前に立った。
銀木犀の木漏れ日が、父の白髪に落ちている。十年前より白髪が増えた。背が少し縮んだ。けれど立ち姿は変わらない。
「幸せになりなさい」
短かった。父はいつもそうだ。多くを語らない。
十年前の嫁入りの朝にも、「体に気をつけなさい」と短く言った。あの時は──その一言に、どれだけのものが詰まっていたか、分からなかった。
今は、分かる。
「はい」
それだけ答えた。声は震えなかった。
マルタが──泣いた。
今度こそ、声を上げて。
十年間、何度も泣いた人だ。辺境伯領を出る日に泣いた。帳簿の写しを抱えて泣いた。堤防の完成式典の後にも泣いた。けれど今日の涙は、それまでの涙とは違った。
嬉しくて泣いている。
初めて見た。マルタが嬉しくて泣くのを。
「マルタ」
「も、申し訳ございません、奥様──」
「ありがとう」
マルタの肩を抱いた。小さな体が、腕の中で震えていた。
「……十年間、ありがとう」
マルタが、声にならない声で何か言った。聞き取れなかった。聞き取れなくてよかった。聞こえたら、私も泣いてしまう。
「母上、おめでとうございます」
エーリヒの声がした。
振り返った。十歳の長男が、まっすぐに立っていた。法律書は持っていない。背筋を伸ばして、少しだけ──笑っていた。
この子が笑うようになった。この一年で。
「ありがとう、エーリヒ」
「ニコラウスがおとうさまになった!」
リーゼが叫んだ。
庭に響き渡る声だった。八歳の娘は遠慮を知らない。ニコラウスが困った顔をした。父が咳払いをした。クラウスが笑いをこらえていた。
「リーゼ、もう少し小さい声で──」
「だっておとうさまでしょ!」
ニコラウスが──困った顔のまま、膝をついた。リーゼと同じ目の高さになって、頭についた花びらを取ってやった。
「……よろしくお願いします」
ニコラウスの声が、掠れていた。
リーゼはそんなことは気にせず、「よろしくー!」と叫んで庭を走り出した。マルタが「走ると転びますよ!」と追いかけた。
エーリヒが本を開いた。──いつ持ってきたのだろう。
銀木犀の下で、私はニコラウスの隣に立っていた。
隣に。
半歩後ろではなく。
◇
春。
新しい堤防の上を、風が渡る。
導流堤の石積みが、朝日に光っている。合流点の水流は設計通りに分岐して、護岸を守っている。目地に苔が生え始めている。──苔が生えるということは、石が安定しているということだ。動かない石にしか、苔はつかない。
堤防の上を歩いている。
ニコラウスが隣にいる。半歩後ろではない。隣を、同じ歩幅で歩いている。
少し後ろを、エーリヒとリーゼが走っている。リーゼが「待ってー!」と叫び、エーリヒが「自分で追いつけ」と返している。マルタが「走ると転びますよ!」と追いかけている。
いつもの朝だった。
「風が強くなりますね」
ニコラウスが空を見上げて言った。
「水位を確認しないと」
「一緒に見に行きましょう」
一緒に。
一年前にも同じ言葉を交わした。あの時は──「一緒に」の意味が、まだ曖昧だった。仕事としての「一緒に」だった。
今は違う。
「ええ」
「一分も遅れません」
ニコラウスがそう言って──笑った。
不器用な笑い方だった。口元を少しだけ歪めるような、技師の笑い方。この人の笑顔は、いつもこうだ。大きく笑わない。けれど目が緩む。
笑い返した。
誰のためでもない笑顔だった。領民の前で浮かべる笑顔でもなく、辺境伯夫人としての微笑みでもなく、子供たちを安心させるための笑顔でもなく。
ただ──風が気持ちよくて、隣に人がいて、後ろで子供たちが笑っていて。
それだけで、笑えた。
堤防の上を歩く。水面が光る。風が草を揺らす。石積みが朝露に濡れている。
手を繋いだ。ニコラウスの手は温かかった。いつも温かい。
後ろで、リーゼの笑い声が弾けた。エーリヒが何か言っている。マルタの叱る声が風に流れてくる。
この堤防は壊れない。
一人で築いたものではないから。
返したものの重さを、もう量る必要はない。
手元にあるものが、全てだから。
堤防の上を、風が渡っていく。




