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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第9話 名前


その手紙を、私は受け取らなかった。



貴族院の廊下は、午後の光に満ちていた。


高い窓から差し込む陽が、石の床に四角い影を落としている。公聴会が終わったばかりの広間から、議員たちが三々五々出てくる。低い話し声。書類を抱えた書記の足音。


その中を、私は歩いていた。マルタが隣にいる。


背後に、ルートヴィヒが立っている。


封書を持ったまま、立ち尽くしている。


振り返らなかった。振り返る理由がなかった。あの人の手紙の中身が何であれ──謝罪であれ、懇願であれ、弁明であれ──もう届く場所がない。


「辺境伯夫人という方は、こちらにはおりません」


マルタの声が、まだ耳に残っている。あの言葉を最初に言った日、マルタは泣いていた。堤防の完成式典の後、ルートヴィヒの手紙を未開封で返した日。


今日は泣いていなかった。目が据わっていた。あの台詞を口にする時、マルタの声には一片の迷いもなかった。


「奥様」


マルタが、静かに言った。


「よく、お務めになりました」


「……ありがとう、マルタ」


廊下を歩き続けた。足音が二つ。石の床に規則正しく響く。



宿に戻る道すがら、馬車の窓から王都の街並みを眺めていた。


商店街の賑わい。石畳を蹴る馬蹄の音。焼き菓子の甘い匂い。一年半前にこの街に来た時と、何も変わらない。変わったのは、私の方だ。


馬車が角を曲がった時──一瞬だけ、見えた。


街路の端。荷馬車の脇に止まった、古い辻馬車。その傍に立つ三つの人影。


ルートヴィヒ。ロゼッタ。そして──小さな少年。


テオ。


九つの少年は、辻馬車の車輪を見つめていた。興味深そうに。子供が大きな車輪に目を奪われる、あの無邪気な仕草で。


ルートヴィヒがテオの肩に手を置いた。ロゼッタがその横に立っている。三人とも荷物を持っていた。王都を出るのだ。


(あの子に──罪はない)


テオは何も悪くない。親を選べなかった。名前を選べなかった。グラーフェンベルクの姓を名乗れるかどうかも、認知の手続きが放置されたことも、全て大人の事情だ。九つの子供には、何の責任もない。


馬車が通り過ぎた。三つの人影が、窓の向こうに消えていく。


見送らなかった。目を逸らしたのではない。ただ──もう、見える距離ではなかった。


「奥様」


マルタが隣で言った。


「お顔の色が」


「大丈夫よ」


大丈夫だった。あの子の姿を見て、胸が痛んだのは事実だ。けれど──あの子を傷つけるつもりはない。エーリヒが「あの子は何も悪くない」と言った時の、あのまっすぐな目を思い出す。


(私の子供たちは、大丈夫だ。あの子も──どうか、大丈夫であってほしい)


窓の外の景色が流れていく。王都の街並みが、宿のある地区に近づいてくる。


ルートヴィヒとロゼッタは王都を去る。どこへ行くのかは知らない。知る必要もない。


終わった。


十年間の帳尻が──もう一度、静かに合った。



翌朝。


宿に書簡が届いた。ニコラウスの筆跡。


『本日午後、王都近郊のクレン河国境堤防にてお話ししたいことがございます。十四時にお待ちしております。——ニコラウス・ヴェーバー』


短い文面だった。場所と時間だけ。用件は書かれていない。


(話したいこと)


技術の話なら、「流速データの照合」とか「護岸の点検結果」とか、用件を書く人だ。書かないということは──技術の話ではない。


指先が、冷たくなった。それから──温かくなった。


ポケットの中の、水源の石に手を触れた。


「マルタ。午後、少し出かけます」


「……お一人で、ですか」


「ええ」


マルタが何か言いかけて──言わなかった。代わりに、私の外套を棚から出して、丁寧に埃を払った。


「行ってらっしゃいませ、奥様」


その声に、余計なものは何もなかった。



王都から馬車で半刻ほどの場所に、クレン河の支流が国境を跨いで流れている。


ザールフェルト公国との境に架かる小さな堤防。石積みの護岸と、低い水門。規模はリンデン伯爵領の導流堤よりずっと小さいが、造りは丁寧だった。公国の技術で整備された堤防だ。


堤防の上に、ニコラウスが立っていた。


公国の正装ではなかった。いつもの外套。飾り気のない、現場仕事の服。日に焼けた手が、堤防の欄干に置かれている。風が、黒髪を揺らしていた。


私が堤防を上がると、ニコラウスが振り返った。


「……来てくださいましたか」


「十四時に、と書いてありましたから」


時計を見た。十四時ちょうどだった。


「カタリーナ殿は、時間に正確ですね」


「ヴェーバー技師には負けます」


ほんの少し、口元が緩んだ。ニコラウスの方も。


風が吹いた。冬の風だ。堤防の草が枯れかけている。水面は低く、石積みの基礎が露出している。渇水期の、静かな川。


「……一つ、仕事とは関係のない話をしてもいいですか」


ニコラウスの声が変わった。


あの日──書斎で手を重ねた日の、あの声だ。技術の安定した低音ではなく、少し高くて、少し不安定な声。


心臓が速くなった。


「どうぞ」


ニコラウスが欄干から手を離した。こちらを向いた。まっすぐに。


「カタリーナ殿」


一拍。


「──いや」


声が、途切れた。


呼吸を整えるように、目を伏せて、また上げた。


「カタリーナ」


敬称がなかった。


五年間の書簡で一度も。打ち合わせで一度も。公聴会で一度も。常に「カタリーナ殿」だった呼び方から、「殿」が消えた。


たったそれだけのことなのに──息が詰まった。


「五年前から、ずっとこう呼びたかった」


ニコラウスの声が震えていた。技師が図面を読み上げる時の安定はどこにもない。ただ一人の人間が、言葉を探しながら、一語ずつ絞り出している。


「最初の書簡を受け取った日から。『素人の私には難しい』と書いた人が、実際には独力で七年間堤防を守り抜いていた。あの書簡を読んだ日から──」


言葉が切れた。


風が吹いた。ニコラウスの外套の裾がはためいた。


「一緒に、堤防を守ってほしい」


低い声だった。震えていた。けれどまっすぐだった。


「──一緒に、生きてほしい」


堤防の上で、風が鳴っている。


水面が光を反射して、きらきらと揺れている。冬の低い日差し。枯れた草の匂い。石積みの冷たさ。


全部が──鮮明だった。


五年間の書簡。「お体を大切に」。「ご判断は正しい」。「素人ではない」。図面をこちら側に向ける癖。約束の時間に一分も遅れないこと。成果報告書に名前を明記すること。公式調査命令。条約提案。雨の日の外套。法律書の付箋。筆談の日の、紙の裏の名前練習。水源の石。


全部が──この一言のためだった。


「では」


声が出た。震えていた。震えていてもよかった。帳簿の声でなくてもよかった。今だけは。


「もう遅れないでくださいますか」


ニコラウスの目が見開かれた。


「一分も」と私は続けた。


「一分も、遅れないでくださいますか。──五年、遅かったのですから」


ニコラウスの目が──潤んだ。


この人が泣くのを、初めて見た。泣いてはいなかった。涙はこぼれなかった。けれど目の縁に光が溜まって、冬の日差しに透けていた。


「……五年かかった」


掠れた声だった。


「十分遅い」


堤防の完成式典の日に、同じ言葉を聞いた。あの日は庭で、リーゼが花壇の前にしゃがんでいて、エーリヒが本を読んでいて。


今日は、二人きりだ。堤防の上で。風の中で。


ニコラウスの手が、私の手を取った。


大きな手だった。節が太くて、日焼けしていて。堤防を直す手。図面を描く手。雨の中で仕事を守った手。筆談の日に名前を練習した手。


この手は嘘をつかない。


握り返した。


強く。


ニコラウスの指が、私の指を包んだ。不器用で、確かで、温かい。


風が吹いた。堤防の上を渡る、冬の風。髪が揺れる。外套がはためく。水面が光る。


しばらく、そのまま立っていた。言葉はなかった。必要なかった。



手を繋いだまま、堤防の上を歩いた。


国境の堤防は短い。百歩も歩けば端に着く。けれど百歩の間に、ニコラウスが口を開いた。


「……一つ、申し上げなければならないことがあります」


「何でしょう」


「平民と伯爵令嬢の婚姻は──特別許可婚と呼ばれます。国王の許可と、私が臣民であるザールフェルト公国の君主の許可。双方が必要です」


声がまた技師に戻っていた。制度の話になると、この人は安定する。


「……つまり、二つの許可が要るのですね」


「はい。公国の君主と、王国の国王。二つの国の主権者が認めなければ、正式な婚姻は成立しません」


制度の壁。身分の壁。


(平民と貴族──)


一年半前、書簡の中で「子持ちの出戻りが、年下の青年に甘えてはいけない」と思っていた。身分の差は、その頃から分かっていた。


けれど──今日は、あの頃とは違う。


「二つの許可。──取りに行きましょう」


ニコラウスの手が、握る力を強めた。


「……カタリーナ殿は──カタリーナは」


まだ呼び慣れていないのだろう。「殿」を外すたびに、少しだけ声が詰まる。


「強いですね」


「強くありません。数字が強いだけです」


笑った。ニコラウスも──不器用に、口元を歪めるようにして、笑った。


堤防の端に着いた。水門の横に、小さなベンチがある。管理用のものだろう。二人で腰を下ろした。


手は繋いだままだった。


夕日が傾き始めていた。冬の日暮れは早い。水面が橙色に染まっている。国境の川が、二つの国を隔てて、けれど同じ水を流している。


「ここで──この堤防で、求婚したかったのですか」


「技師なので」


「それは理由になっていませんよ」


「……堤防が、一番落ち着くので」


(この人は──本当に)


笑った。声に出して。


ニコラウスが困った顔をした。けれど──その顔が嬉しそうだった。困っているのに嬉しい、という矛盾した表情が、この人らしくて。


「では、許可を取りましょう。二つ。公国の君主と、王国の国王」


「……ええ」


「一分も遅れずに」


ニコラウスの目が──また、光った。


冬の夕日が、二人の手を橙色に染めていた。


堤防の上を、風が渡っていく。

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