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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第7話 大丈夫


王都の空気は、やはり埃っぽかった。


馬車で二日。リンデン伯爵領から王都ヴィルヘルムスブルクへ。一年半前と同じ道を、同じ石畳の振動に揺られて辿り着いた。


けれど、一年半前とは全てが違う。


あの時はエーリヒの入学手続きだった。書類を一人で揃えて、事務官に「不備のない書類は久しぶり」と言われて、帰り道に──迂回した住宅街で、別邸を見た。


今日、馬車には子供たちとマルタが乗っている。鞄の中には条約の草案と流速データと、水源の石。そして私は、入学手続きの付き添いではなく、条約交渉の実務担当としてこの街に来ている。


リンデン伯爵家の名代。カタリーナ・フォン・リンデン。


宿に荷物を降ろし、子供たちをマルタに預けて、貴族院の会議場に向かった。



会議場は、貴族院の東棟にあった。


長い廊下を抜け、重い樫の扉を開けると、楕円形の大テーブルが目に入った。十二脚の椅子。窓からの光が、磨かれた木の表面に反射している。


既に数人が席に着いていた。王国側の外務担当官、財務官の補佐、貴族院の書記。そして──テーブルの向こう側に、ザールフェルト公国の交渉団。


ニコラウスがいた。


公国の正装を着ていた。見慣れない姿だった。いつもの飾り気のない外套ではなく、深い紺色の上着に公国の紋章が刺繍されている。髪は後ろに撫でつけられて、普段の癖のある黒髪が少しだけ整っている。


──けれど手は同じだった。日に焼けた、節の太い、技師の手。テーブルの上に置かれた書類を押さえる指先は、河川敷で図面を広げる時と変わらない。


目が合った。ニコラウスがわずかに頷いた。公式の場での、控えめな挨拶。


席に着いた。手元に配られた資料の束を開く。


条約草案の表紙。正式なタイトル。その下に──


『共同設計者:カタリーナ・フォン・リンデン ニコラウス・ヴェーバー』


私の名前が、あった。


外交文書に。国家間の条約草案に。「共同設計者」として。


(十年間、辺境伯の名前で報告されていた仕事が──)


指先で、自分の名前の活字をなぞった。インクの凹凸が、わずかに手触りとして伝わる。活版印刷の、正式な文書。消えない文字。


ニコラウスの名前が、隣にある。


五年間の書簡。図面の上で交差した指先。雨の日の外套。水源の石。その全てが、この一行に結実している。


「では、準備会議を始めます」


外務担当官の声で、会議が始まった。条約の条文を一条ずつ確認していく。技術的な内容──流速の基準値、護岸の維持管理基準、合同点検の頻度──は、私とニコラウスが交互に補足説明を入れた。


声を交わすのは、仕事の範囲だった。数字とデータと技術用語。いつもの打ち合わせと変わらない。


ただ、テーブルの向こう側に座るこの人と、同じ文書に名前を並べているという事実だけが──胸の奥を、静かに揺らしていた。



準備会議の後、廊下で外務担当官に呼び止められた。


「リンデン殿。一つ、お耳に入れておきたい件がございます」


「何でしょう」


「本日、貴族院に元辺境伯ルートヴィヒ・フォン・グラーフェンベルクより、復権嘆願の再提出がございました」


足が止まった。


再提出。


「嘆願の根拠は前回と同様、『辺境伯領の治水・農政の功績は自身の指示によるもの』とのことですが──」


「却下されたのですね」


外務担当官が目を見開いた。即答したことに驚いたのだろう。


「……ご明察の通りです。条約交渉の場で、公国側の交渉団から『元辺境伯は王家査察で虚偽報告者と認定されている。そのような人物の嘆願を根拠に条約交渉が影響を受けることはない』との意見が出まして。王国側も同意し、嘆願は即座に不受理となりました」


条約交渉の場で。


外交の席で、名前が出たのだ。「虚偽報告者」として。


(……あの人は、自分の名前が外交文書に載ることを望んでいたはずだわ。辺境伯として。功績者として。──こんな形で載るとは、思ってもいなかったでしょうね)


「承知しました。ご報告、ありがとうございます」


頭を下げて、廊下を歩いた。


窓の外に、王都の街並みが見える。一年半前、馬車の窓から見た景色と同じ街。同じ石畳。同じ埃っぽい空気。


けれど私の立つ場所が変わった。馬車の中から眺めるのではなく、貴族院の廊下を歩いている。条約交渉の実務担当として。共同設計者として。


(もう、あの馬車の窓の中にはいない)



──同じ日の夕刻。王都の外れ。


嘆願が、また却下された。


今度は門前払いですらなかった。条約交渉の場で、名前を出された。「虚偽報告者」。外交の席で。公国の人間の口から。


安宿の壁に、背をもたれた。


「ルートヴィヒ様……」


ロゼッタが、俺の袖を掴んでいた。目が赤い。泣いていたのだ。いつから泣いていたのか、分からない。


「テオの認知も……あの子の入学も……」


「駄目だった」


声が、掠れた。


庶子認知申請。爵位がなければ提出資格がない。俺が辺境伯だった頃に手続きをしていれば、テオは正式にグラーフェンベルクの庶子として認知されていた。姓を名乗る法的根拠があった。


しなかった。


面倒だったからだ。公にしたくなかったからだ。ロゼッタとの関係を、書類という形で残したくなかった。──逃げ道を塞ぎたくなかった。


その「面倒」が、今、テオの首を絞めている。


「もう、手紙も返ってこないの。誰からも。一通も」


ロゼッタの声が震えていた。


社交界から締め出されたこの女に残された武器は手紙だけだった。噂を流し、同情を引き、情報を操作する手紙。それすら──クラウスに一蹴され、誰にも相手にされなくなった。


俺の手の中には、何がある。


嘆願は二度却下された。旧友は離れた。クラウスは拒んだ。テオの認知はできない。領地はない。爵位はない。金は底を尽きかけている。


残ったのは──この女と、九つの息子と、俺自身だけだ。


「……テオは」


声に出した。


「テオは、どうしている」


ロゼッタが目を上げた。意外そうな顔だった。


俺がテオのことを聞くのは──考えてみれば、久しぶりだった。嘆願と復権のことばかり考えていて、九つの息子がどう過ごしているか、聞いていなかった。


(カタリーナは──毎朝五時に起きて、子供たちの顔を見てから堤防に行っていたのだ)


エーリヒの声が、頭の中で響く。あの目。あの声。「母上が堤防を直していた時、どこにいたのですか」。


分かった。


ようやく、分かった。


俺が失ったのは、爵位ではない。領地でもない。


あの朝五時の長靴を履いていた女の、十年分の信頼だ。


取り返しがつかない、という言葉の意味を──帳簿の数字ではなく、初めて、人間として理解した。



宿の部屋は、狭いが清潔だった。


エーリヒとリーゼと同じ部屋。マルタが隣室にいる。子供たちの荷解きを手伝い、夕食を済ませ、リーゼを先に寝かしつけた。


リーゼは五分で眠った。蜂蜜パンを二つ食べた後は、いつもそうだ。小さな寝息が、部屋に規則正しいリズムを刻んでいる。


エーリヒが、まだ起きていた。


窓際のベッドに座り、膝の上に本を開いている。法律書ではなかった。歴史書だ。王国の貴族制度の成り立ちについて書かれた、分厚い本。祖父の書庫から持ってきたものだろう。


「エーリヒ。明日の準備は大丈夫?」


「僕は何もしません。母上の仕事です」


淡々と言った。十歳の声が、暗い部屋に落ち着いた響きを落とす。


「……そうね。──ただ、もしかしたら長い一日になるかもしれない」


「公聴会が決まったのでしょう」


驚いた。言っていない。今日の廊下で外務担当官から聞いたばかりの話を、この子はもう知っている。


「……マルタに聞いたの?」


「おじいさまの手紙に書いてありました。宿に届いていたので」


父の手紙。王都の代理人経由で、最新の情報を送ってくれたのだろう。旧辺境伯領の管理問題が貴族院の公聴会で審議される。ダールベルクの統合管理案。ルートヴィヒの復権嘆願。そしてカタリーナの独立した治水顧問としての立場。全てが同時に俎上に載る。


「母上が証人として出廷することも、書いてありました」


「……ええ」


エーリヒが本を閉じた。


私を見た。


まっすぐに。あの目で。応接室でルートヴィヒに問いかけた時の目。庭でニコラウスに「なぜ自分で言わないのですか」と聞いた時の目。法律書から庶子認知未了を見つけた時の目。


全部を見ている目だ。


「母上は自分で決めてください」


静かな声だった。


「公聴会のことも。──それ以外のことも。僕たちは大丈夫です」


それ以外のこと。


学園の件。テオの件。そして──


(ニコラウスのこと)


この子は、全部含めて言っている。


「子供たちのために」という言葉で、私が何度自分を縛ってきたか。ダールベルクの提案を断った夜に計算を三箇所も間違えたこと。ニコラウスの石をポケットに入れて、それでもまだ「子持ちの出戻りが」と自分を下げていること。


全部、見ていたのだ。


「……エーリヒ」


「強がりではありません」


先回りされた。この子は私の思考を読む。


「僕は法律書を読めます。リーゼにはおじいさまとマルタがいます。母上がいなくても──いいえ、母上がいてくれるから、僕たちは大丈夫なのです。だから母上は、自分のことを自分で決めていいんです」


十歳の言葉だった。


十歳の、けれどもう子供だけではない言葉。


法律書を読み、庶子認知の穴を見つけ、ニコラウスに「なぜ自分で言わないのですか」と問いかけた少年の言葉。この子は──自分の足で立っている。私が支えなくても。


(「子供たちのために」──あの呪文を、この子が解いてくれた)


目頭が熱くなった。


泣いてはいけない。この子が泣いていないのだから。


「……ありがとう」


声が、震えた。少しだけ。


エーリヒは答えず、本を開き直した。歴史書の頁をめくる音が、リーゼの寝息に重なる。


窓の外で、王都の夜が静かに更けていく。明日──いや、数日後に公聴会がある。十年間の全てが、公的な場で審議される。


帳簿の写しは鞄にある。公式書簡の記録も。査察報告書の認定事項も。全て揃っている。


そして──鞄の底に、水源の石がある。


「母上は自分で決めてください」。


決める。


明日からのことも。その先のことも。


──自分で。


蝋燭を吹き消した。暗闇の中で、エーリヒの頁をめくる音だけが聞こえる。リーゼの寝息。窓の外の風の音。


明後日、私は貴族院の壇上に立つ。


十年分の数字を携えて。一箇所の間違いもなく。

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