第5話 三箇所
断った。
応接室の椅子に座り直して、ダールベルク伯爵の目をまっすぐに見た。
「貴方様のご提案はありがたいものです」
一拍、置いた。
「けれど──私の仕事は、売り物ではありません」
空気が変わった。
ダールベルクの微笑みが、ほんの一瞬だけ凍った。目の奥で計算が走っているのが分かる。この男は怒らない。怒るより先に、次の手を考える人間だ。
けれど──今の一瞬は、計算が追いつかなかった顔だった。
「……左様ですか」
声は穏やかだった。崩れない。さすがだと思う。王都の有力貴族として何十年も生きてきた男の皮膚は、こんなことでは破れない。
「カタリーナ殿のご判断を尊重いたします。ただ──旧辺境伯領の復興は、誰かが担わなければならない課題です。それだけは、ご理解いただきたい」
「理解しております」
「いずれまた、ご相談の機会をいただければ」
立ち上がり、一礼して辞去した。足音が廊下を遠ざかる。玄関の扉が閉まる。馬車が動き出す。
静寂。
隣に座っていた父が、茶を一口飲んだ。
「……よく言った」
短い言葉だった。
「合理的な提案でしたけれど」
「合理的だからといって、受ける義理はない」
父は茶器を置き、窓の外を見た。
「あの男は有能だ。有能だが──お前を人間として見ていない。道具として見ている。そういう男に、娘はやらん」
(お父様)
その言葉が、じわりと胸に染みた。
十年前、辺境伯家に嫁がせた時も、父はこう思っていたのだろうか。あの時は「体に気をつけなさい」としか言わなかった。言わなかっただけで──思っていたのかもしれない。
「ありがとうございます。……大丈夫ですよ」
「ああ。分かっている」
父は私を見ず、窓の外を見たまま頷いた。
大丈夫。
──本当に、大丈夫だろうか。
◇
大丈夫ではなかった。
夜。作業場の蝋燭の下で、導流堤の維持管理計画書を書いていた。冬季の凍結融解に備えた護岸点検のスケジュール。次の増水期に向けた流速予測。石材の追加発注の見積もり。
数字を書く。数字を読む。数字を計算する。
──いつもなら、これだけで頭が冷える。
今日は冷えない。
ペンが止まった。計算式の途中で、数字が霞む。
(これでよかったのだ。ダールベルクの提案は、私を道具として使う契約だった。あの男の計算に乗る理由はない。正しい判断をした)
正しい判断。
正しいはずなのに、胸の底に澱のように溜まるものがある。
(でも──この子たちのためには)
エーリヒの顔が浮かぶ。リーゼの笑い声が聞こえる。
伯爵家の嫡男と結婚すれば、子供たちの社会的な立場は安定した。「子持ちの出戻りの子供」ではなく、「ダールベルク伯爵家の義子」として学園に通えた。テオの件だって──ダールベルク家の後ろ盾があれば、何も心配する必要がなかった。
(それを、蹴ったのよ。自分の感情で。「売り物ではない」なんて言って──格好をつけて──)
ペンを握り直した。計算の続き。流速の二乗に係数を掛けて──
……合わない。
もう一度計算した。合わない。数字が違う。どこかで桁を間違えている。
消して、書き直す。もう一度。
──合わない。
蝋燭の火が揺れた。指先が震えているのに気づいた。寒さではない。
「三箇所、間違っています」
声がした。
振り返った。作業場の扉に、ニコラウスが立っていた。外套を着たまま。夜の見回りの帰りだろうか──いや、定期調査の日ではない。
「……ヴェーバー技師。なぜここに」
「灯りが見えたので」
それだけ言って、ニコラウスは机に歩み寄った。計算用紙を手に取り、数字を目で追う。指先が、一行目で止まった。二行目に移動した。三行目。
「ここと」
一箇所目を指す。
「ここと」
二箇所目。
「ここ。三箇所、間違っています」
三箇所。
三箇所も計算を間違えるなど、この一年で一度もなかった。辺境伯領の十年間を含めても、一晩に三箇所の計算ミスをしたことはない。帳簿の数字は正確につける。それが私の矜持であり、十年間の仕事の全てだった。
ニコラウスは──何も聞かなかった。
なぜ間違えたのか。何があったのか。ダールベルクの件を知っているのか。
何も。
計算用紙を机に戻し、ペンを置いた。
「明日やり直しましょう。今日は帰ってください」
声は穏やかだった。命令ではない。けれど、静かな確かさがあった。
「……間違いを直せます。もう少しだけ──」
「カタリーナ殿」
名前を呼ばれて、言葉が止まった。
「三箇所です。貴方が一箇所でも間違えること自体が、異常です」
淡々と。技師が数値の異常を報告するのと、同じ声で。
「明日の朝、頭を冷やしてから。そちらの方が、正確な数字が出ます」
──この人は。
私の不調を、数字の乱れで読んでいる。
顔色ではなく。声の調子でもなく。計算の誤差で。
(十年間、夫は帳簿の数字すら見なかったのに)
ルートヴィヒは一度も──一度も──私の帳簿を読まなかった。三百二十四頁の引き継ぎ資料を渡した日にようやく頁をめくって、そこで初めて中身の厚さに青ざめた。十年間、毎晩蝋燭の下で書いていた数字を、あの人は一行も見ていなかった。
この人は見ている。
数字を。計算を。その乱れを。
言葉では聞かない。「何があったのか」とも「大丈夫か」とも言わない。ただ、数字の異常を指摘して、時間をくれる。「明日やり直しましょう」。
それが──この人なりの、寄り添い方なのだ。
「……分かりました」
ペンを置いた。
立ち上がろうとして、足がもつれた。疲れている。朝からずっと、頭の中で同じ問いが回り続けていた。正しかったのか。間違っていたのか。子供たちのためには──
「足元」
ニコラウスの声が、低く響いた。
手が伸びてきた──けれど、触れなかった。こちらの体勢を確認して、手を引っ込めた。数日前、岩場で腰を支えた時とは違う。触れずに、確認だけして、引いた。
(この人は──分かっている)
今の私に必要なのは、支えられることではなく、自分の足で立つことだ。
「お気をつけて」
ニコラウスが扉を開けた。廊下の暗がりに、背中が消えていく。飾り気のない外套。少し猫背の、技師の後ろ姿。
その背中を見送りながら、私は思った。
(この人は、私の不調を数字で読んで、言葉では何も聞かず、時間だけをくれた)
(十年間、あの人は──あんなに近くにいたのに、何も読まなかった)
比べてはいけない。比べるものではない。
でも──比べてしまう。数字を見る人と、見ない人。仕事を名前で呼ぶ人と、呼ばない人。図面を守る人と、図面を知らない人。
蝋燭を吹き消した。作業場を出る。廊下の窓から、月が見えた。雲の切れ間に、細い光。
明日、やり直そう。
数字は裏切らない。頭が冷えれば、正確な計算ができる。三箇所の間違いは、明日の朝には消えている。
──そのはずだ。
◇
翌朝。
計算をやり直した。三箇所の間違いは全て修正した。頭は冷えていた。数字は正確だった。ニコラウスの言う通りだった。
朝食を終えて書斎に向かおうとした時、マルタが封書を持ってきた。
「奥様。ザールフェルト公国から、公式書簡が届いております」
公国の公印。重い封蝋。宛先は「リンデン伯爵アルブレヒト・フォン・リンデン閣下」。
父の書斎に持ち込んだ。父が封を切り、文面を読み、私に渡した。
『リンデン伯爵閣下
ザールフェルト公国は、クレン河流域における治水事業の成果に鑑み、両国間の治水協力に関する正式な条約の締結を提案いたします。
本条約は、クレン河流域の導流堤を含む治水施設の共同管理、技術協力、および下流域の水害予防を目的とするものであり──』
文面を、二度読んだ。
条約。
国家間の、正式な条約。
「……お父様。これは」
「分かっている」
父の声に、静かな高揚があった。
「国家間の治水協力条約が締結されれば、クレン河流域の治水事業は両国の共同管理下に入る。一貴族の統合管理案など──」
「入り込む余地がなくなる」
ダールベルクの統合管理案は、旧辺境伯領の管理をダールベルク家に委託するという提案だ。けれど、その領域がザールフェルト公国との条約で保護されていれば、一貴族の管理案など政治的に通しようがない。国家間条約の前では、貴族院の一提案に過ぎなくなる。
(公国が──動いた)
なぜ、このタイミングで。
辺境伯領の堤防決壊の時も、公国は公式調査命令を出した。あの時は「下流域への水害波及の懸念」が根拠だった。今回もそうだ。クレン河の治水は、下流のザールフェルト公国にとって安全保障上の問題でもある。条約を結ぶ政治的な合理性は、十分にある。
けれど──
(このタイミングは、偶然だろうか)
ダールベルクの統合管理案が提出されて、一週間。その一週間で、公国が条約提案を準備して送ってきた。外交文書の起草には時間がかかる。一週間では無理だ。つまり──準備は、もっと前から始まっていた。
誰が、公国を動かしたのか。
ニコラウスの顔が浮かんだ。
(あの人は──公国の主任河川技師だ。公国政府に対して、技術的な提言ができる立場にいる)
昨夜、作業場に来た時のことを思い出す。灯りが見えたから来た、と言っていた。夜の見回りの帰り。定期調査の日ではないのに。
あの人は何を考えていたのだろう。三箇所の計算ミスを指摘して、何も聞かず、時間だけをくれた。──その裏で、公国にこの条約を提案させていたのだとしたら。
(……考えすぎよ)
分からない。ニコラウスが関与したかどうか、確かめる術はない。確かめたところで、あの人は否定も肯定もしないだろう。技師は言葉ではなく形で示す──あの人は、そういう人だ。
「お父様。この条約提案、受けましょう」
「無論だ」
父が頷いた。
「条約交渉には実務担当が要る。治水の専門知識がなければ、公国との対等な交渉はできん」
「……私が、やります」
「ああ。──お前以外に、誰がやるんだ」
父が、ほんの少しだけ、笑った。
窓の外で、冬の朝日が昇り始めていた。クレン河の水面が光っている。導流堤の石積みが、朝露に濡れて輝いていた。
机の上に、昨夜やり直した計算用紙がある。三箇所の間違いは全て消えて、正確な数字だけが並んでいる。
数字は裏切らない。
そして──数字を読む人も、裏切らない。
条約の書簡を丁寧に折り、引き出しにしまった。その隣には、ニコラウスからの五年分の書簡の束がある。技術の話と、不器用な一行の気遣いが、何十通も重なっている。
新しい書簡が、その束に加わった。
今度は──国家間の、公印付きの。
(あの人が動かしたのかどうか、聞かない。聞く必要はない)
形で示す人に、言葉で確かめるのは野暮だ。
ペンを取った。条約提案への返信の下書きを始める。数字は正確に。一箇所の間違いもなく。
──昨夜の三箇所を、もう二度と繰り返さないために。




