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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第3話 筆談


クラウスからの手紙は、短かった。


『カタリーナ様


ご報告申し上げます。先日、ロゼッタ・メルツと名乗る女性より書簡が届きました。内容は「カタリーナが辺境伯領の帳簿を改ざんし、不正に持ち出した」との主張を周囲に伝えてほしいとのことでした。


一蹴いたしました。


カタリーナ様が帳簿を改ざん? 十年間一字の誤りもなかった帳簿をですか。あの帳簿は王家の筆跡鑑定官が検分し、全頁がカタリーナ様の自筆であることを認定しております。改ざんの余地など、どこにもございません。


旧辺境伯領の領民たちは、カタリーナ様のことを忘れておりません。水車小屋の老人も、パン屋のおかみも、識字教室の子供たちも。皆、息災です。


筆頭家臣 クラウス』


手紙を読み終えて、机の上に置いた。


(……まだ、やっているのね)


ロゼッタ・メルツ。あの女性の名前を目にするたびに、喉の奥がざらつく。王都の社交界から締め出されたはずだ。査察で身元の虚偽が判明し、貴族夫人たちは一斉に手を引いた。それでもまだ、手紙を送り続けている。


帳簿の改ざん。


思わず、苦笑が漏れた。


十年間、毎晩蝋燭の下で数字を書き続けた。一銭の狂いも、一行の抜けもなく。あの帳簿を改ざんするくらいなら、最初から書かない方が早い。


(あの女性は、帳簿を見たことがないのでしょうね)


見たことがないから、「改ざん」という言葉が出る。十年分の数字の重みを知らない人間の発想だ。知っている人間──クラウスには、一瞬で見破られる。


手紙の末尾を、もう一度読んだ。


「旧領民たちは、カタリーナ様のことを忘れておりません」。


指先が、わずかに震えた。怒りではなかった。


──覚えていてくれている。


あの領地を出る日、「行かないでください」と泣いた人たちの顔。パン屋のおかみ。水車小屋の老人。堤防工事を一緒に進めた若い農夫。あの人たちが、まだ。


(泣いている場合ではないでしょう。仕事があるのだから)


袖で目元に触れるふりをして、手紙を引き出しにしまった。


クラウスには返事を書こう。簡潔に、お礼だけ。あの人は長い手紙を好まない。実務家だ。──あの領地に、あの人がいてくれてよかった。



午前十時。


作業場の扉が叩かれた。


いつもなら「カタリーナ殿、定期調査の件で参りました」と声がかかる。今日は、ない。代わりに扉が静かに開き、ニコラウスが入ってきた。


顔色が悪かった。


頬に赤みがなく、唇が乾いている。首元にマフラーのような布を巻いている。そして──口を開いたが、声が出なかった。唇が動いただけで、音にならない。


「……風邪ですか」


ニコラウスが頷いた。ばつの悪そうな顔だった。技師として現場に出る人間にとって、声が出ないのは相当な不具合だろう。


「お帰りになった方が──」


首を横に振った。鞄から紙とペンを取り出し、さらさらと書く。


『流速データの照合が残っています。今日中に終わらせたい』


(この人は……)


声が出ないのに来た。約束の時間に、一分も遅れずに。風邪で声を失っても、仕事は仕事だと言わんばかりに。


「分かりました。では、筆談で進めましょう」


机に図面を広げた。ニコラウスが隣に立ち、紙にペンを走らせる。


『合流点の流速、先月比で三パーセント増。降雨量の影響。設計上の許容範囲内』


「三パーセント。護岸への負荷は?」


『導流堤が機能している限り問題なし。ただし冬季の凍結融解で目地が緩む可能性あり。一月に再点検を推奨』


ペンの音だけが作業場に響く。声はない。けれど不思議と、不便ではなかった。


ニコラウスの書く文字は、報告書の時より丁寧だった。いつもの走り書きではなく、一画一画をきちんと書いている。声が使えない分、文字に力を入れているのだろう。


数値の照合が進む。図面の上を、二人のペンが行き来する。時折、ニコラウスが紙を差し出し、私が数字を確認して頷く。ニコラウスが頷き返す。


言葉がなくても、通じる。


五年間の書簡がそうだった。紙の上の数字と文字だけで、堤防を守り、水門を運用し、治水を設計した。声を交わしたのは、この一年ほどのこと。それ以前の五年間は──ずっと、こうだった。


(声がなくても、この人とは仕事ができる)


その事実が、なぜか胸の奥をじんわりと温めた。



昼前に、照合が一通り終わった。


ニコラウスが咳き込んだ。声にならない咳だ。喉に負担をかけまいとしているのだろうが、肩が揺れるたびに辛そうだった。


「少し待っていてください」


作業場を出て、厨房に向かった。マルタが昼食の支度をしている横で、乾燥させた薬草を煮出した。セイヨウニワトコの花と、甘草の根。喉の炎症を鎮める薬湯だ。辺境伯領にいた頃、領民の子供が風邪をひくたびに作っていた。


湯気の立つ杯を持って作業場に戻ると、ニコラウスは図面を畳んでいるところだった。


「どうぞ。喉に効きます」


杯を差し出した。ニコラウスが受け取り、一口含んだ。苦い顔をした。


──そうだ。甘草は甘いが、セイヨウニワトコは苦い。


ニコラウスが紙を引き寄せ、ペンを取った。薬湯への感想だろうか。「苦い」とでも書くのかと思った。


『この薬湯の薬草、クレン河の上流に自生しています。夏に採取すれば来年分を備蓄できます』


……。


笑ってしまった。


声に出して、笑った。


「ヴェーバー技師。薬湯を飲んだ感想が、薬草の採取計画ですか」


ニコラウスが目を丸くした。それから、少しだけ唇の端が上がった。声は出ないが、笑おうとしている顔だった。紙に書き足す。


『技師なので』


「知っています」


また笑った。


(この人は本当に──)


不器用だ。どうしようもなく。薬湯をもらって、ありがとうの代わりに薬草の自生地を教える人間がどこにいるのか。いるのだ。ここに。


笑いながら、胸の奥で何かが柔らかくほどけていくのを感じた。名前がつけられない感覚。つけなくてもいいのかもしれない。今はまだ。


「……来年の夏に、採りに行きましょうか」


紙に書かずに、口で言った。


ニコラウスのペンが止まった。


一瞬の間。


それから、丁寧に──とても丁寧に、紙に一文字だけ書いた。


『はい』


その「はい」の字が、今日の筆談の中で一番きれいだった。



ニコラウスが帰った後、マルタが作業場の片付けに入った。


机の上に散らばった筆談用の紙を、一枚ずつ揃えていく。報告の数字が書かれたもの、流速の計算式が走り書きされたもの、薬湯の薬草の話。


最後の一枚を手に取った時、マルタの手が止まった。


紙を裏返した。


表は流速データの照合結果が書かれている。けれど裏──何も書かれていないはずの裏面に、薄いインクの跡があった。


「カタリーナ」


ニコラウスの筆跡だった。


「カタリーナ」。もう一度。少し大きく。


「カタリーナ」。三度目は、小さく。躊躇うように。


名前の練習だ。


書簡でも、打ち合わせでも、この技師は一度も「カタリーナ」とは呼ばなかった。いつも「カタリーナ殿」。丁寧で、正確で、一線を越えない呼び方。


けれど紙の裏で──声の出ない日に──この人は、敬称のない名前を何度も書いていた。


マルタは紙を元の向きに戻し、他の紙と一緒に揃えた。


何も言わなかった。奥様には、言わない。


ただ、紙の束を胸に抱えた時、ほんの少しだけ──目元が緩んだ。



──同じ日の夕刻。王都の外れ。安宿の一室。


嘆願は却下された。


机の上に、貴族院からの通知書が置いてある。「復権嘆願について──審議に付すに足る新たな証拠がないため、受理を見送る」。公印の押された、たった三行の文書。


俺の十年が、三行で片づけられた。


「ルートヴィヒ様……クラウスからも、返事が」


ロゼッタが封書を差し出した。開封済みだ。ロゼッタが先に読んだのだろう。


読んだ。


『──十年間一字の誤りもなかった帳簿をですか──』


クラウスの一行が、喉に刺さった。


あいつは四十五年あの領地にいた男だ。俺より先に、俺の父に仕えていた男だ。その忠臣が、カタリーナの側についている。


「あの男も、カタリーナに──」


「ルートヴィヒ様」


ロゼッタの声が、甘く割り込んだ。


「まだ手はございますわ。テオのことを、お忘れですか」


テオ。俺と、この女の息子。九つ。エーリヒと、ほぼ同い年。


「来年、テオを王都学園に入れましょう。グラーフェンベルクの姓で。エーリヒと同じ学園に──」


「……何のために」


「あの女に思い知らせるためですわ。自分が捨てた家に、もう一人の子供がいることを、あの子供たちの目の前で──」


ロゼッタの目が、暗く光った。


俺は──反論しなかった。


すべきだった。テオは道具ではない。九つの子供を、大人の争いに使うべきではない。分かっている。分かっているのに。


何も残っていなかった。嘆願は却下され、旧友は離れ、クラウスにも拒まれた。手の中に残ったのは、この女と、この子供だけだ。


「……考えておく」


そう言って、通知書を裏返した。三行の文字を、もう見たくなかった。

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