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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第2話 売り物


「リンデン伯爵家と我がダールベルク家の婚姻は、双方にとって最善の選択でございます」


応接室に通された男は、挨拶もそこそこにそう切り出した。


ヘルマン・フォン・ダールベルク伯爵。五十代半ば。銀の混じった髪をきっちりと撫でつけ、仕立ての良い外套に一切の皺がない。目元には深い皺が刻まれているが、目そのものは鋭い。値踏みする目だ。商人が品物を検分する時の、あの目に似ている。


父アルブレヒトが私の隣に座っていた。表情は動かない。先週届いた書簡の内容を、父は昨夜のうちに教えてくれていた。「婚姻同盟の打診」。それだけ聞いた時点で、嫌な予感はしていた。


「我が長男フリードリヒは二十五歳。領地経営にも関心が深く、カタリーナ殿のご経験と合わせれば、旧辺境伯領の復興にも大きく寄与できるものと確信しております」


ダールベルクの口調は穏やかだった。声を荒げることもなく、大仰な身振りもない。数字を並べるように、淡々と条件を提示していく。


旧辺境伯領は現在、王家直轄領として管理されている。しかし王家にとって、辺境の直轄管理は維持コストが高い。堤防は崩れたまま。交易路は寸断されたまま。領民は離散し、税収は激減している。


「この状況を打開するには、治水と領地経営の双方に通じた人材が必要です。カタリーナ殿ほどの適任者はおりますまい」


能力を褒められている。


褒められているはずなのに、背中がざわついた。


「ご提案の骨子は理解いたしました」


私は茶器を置き、背筋を伸ばした。


「確認させてください。つまり、私がダールベルク家の長男殿と婚姻し、旧辺境伯領の復興事業を共同で管理する。管理の実務は私が担い、管理権はダールベルク家が王家に申請する──そういうお話ですね」


ダールベルクの眉がわずかに動いた。


(……やっぱり)


提案の構造を、三つの文に分解して返しただけだ。美辞麗句を削ぎ落とせば、骨組みはいつだってシンプルになる。帳簿と同じ。


「いささか直截なお言葉ですが──概ね、その通りです」


ダールベルクが微笑んだ。余裕のある笑みだった。この男は怒らない。怒るより先に計算する人間だ。


「カタリーナ殿にとっても悪い話ではないはずです。身分の回復、旧辺境伯領への関与、そしてお子様方の将来——」


「お子様方」。


その一語が、喉に刺さった。


──子供たちのために。


十年間、私が自分に言い聞かせてきた言葉だ。夫がいなくても大丈夫と笑い、一人で堤防を直し、一人で帳簿をつけ。全部「子供たちのために」やってきた。


あの言葉を、また別の男が使おうとしている。


「……ご提案は、検討いたします」


口に出したのは、それだけだった。


ダールベルクの目が、ほんの一瞬──本当に一瞬だけ、見開かれた。


想定外だったのだろう。この男は、私が即座に飛びつくか、即座に拒否するかのどちらかを計算していたはずだ。飛びつけば思い通り。拒否すれば別の手を打てばいい。どちらにしても、即答ならダールベルクのペースだ。


「検討する」は、どちらでもない。


相手の計算に乗らず、時間を自分の側に引き寄せる。交易商との価格交渉で、何度も使った手だ。穀物商のブレーメ氏は値引き交渉に弱い──あの領地で覚えた技術が、こんな場所で役に立つとは。


「左様ですか。では、お時間をいただきましょう」


ダールベルクは微笑みを崩さなかった。けれど、茶器を持ち上げる指先の力加減が変わった。ほんの少しだけ、強く。


(この女性は、思った通りには動かない──)


そう悟った顔だった。


父が口を開いた。


「ダールベルク伯爵。娘の件については、改めてこちらからお返事いたします。本日は遠路ご足労いただき、感謝申し上げる」


丁寧な、しかし明確な退去の合図だった。父はこういうことが巧い。穏やかに、けれど一切の曖昧さなく、線を引く。


ダールベルクが腰を上げた。一礼して応接室を出ていく。足音が廊下を遠ざかり、玄関の扉が閉まった。


沈黙。


父が茶を一口飲んだ。


「……どう思う」


「合理的な提案です」


正直に答えた。


「旧辺境伯領の管理問題は、王家にとっても懸案のはず。治水能力のある人間を組み込んだ管理案を持ちかければ、王家の耳にも届く。政治家として、筋は通っています」


「だが」


「だが──あの方は一度も、私に『どうしたいか』を聞きませんでした」


父がこちらを見た。


「私の能力は何度も褒めました。子供たちの将来にも触れました。旧辺境伯領の復興にも。けれど、『カタリーナ殿はどう思われますか』とは、一度も」


(私を見ているのではない。私の能力を見ている)


人間ではなく、資源として。


堤防を設計する道具として。帳簿をつける機械として。


──ルートヴィヒと、形が違うだけだ。


「お父様。返事は急ぎません」


「ああ。急ぐ必要はない」


父の声は穏やかだった。けれど、その目が言っていた。──決めるのはお前だ、と。



午後、空が暗くなった。


秋の通り雨。朝の点検では問題なかったが、雨量によっては合流点の水位が上がる。護岸の仮補修箇所が気になった。


長靴を履いて現場に出た。


ニコラウスは既にいた。


外套のフードを被り、護岸の石積みを手で確かめている。雨粒が黒髪を伝い、顎の線を流れ落ちていく。この人は呼ばなくても来る。雨が降れば現場に出る。技師の本能のようなものだろう。


「合流点の水位、二十センチ上昇。まだ許容範囲ですが——」


「仮補修箇所を目視で確認しましょう。下流側から回ります」


言葉は少なかった。雨の中では、必要なことだけを声にする。それが二人の流儀だった。


護岸を歩きながら、石積みの目地を一つずつ確かめた。ひび割れなし。排水口の詰まりなし。仮補修の箇所も、モルタルが雨に流されずに持ちこたえている。


「問題ありません。──戻りましょう」


ニコラウスが頷いた。


作業場に駆け込んだ時には、二人ともずぶ濡れだった。


髪から雨水が滴り、外套の裾が重い。長靴の中にまで水が入っている。秋の雨は冷たくて、指先の感覚が鈍くなっていた。


報告書を机に広げようとして──背中に、温かさが触れた。


ニコラウスが、自分の外套を脱いで、私の肩にかけていた。


「……ヴェーバー技師」


振り返った。ニコラウスはシャツ一枚になっていた。雨に濡れた白いシャツが肩に張り付いている。この人はずっと外套を着ていたから、シャツは比較的乾いている。つまり外套の内側はまだ温かい。その温かさが、今、私の肩にある。


「図面は?」


反射的に聞いてしまった。一年前の雨の日、この人は私ではなく図面を守った。外套を脱いで、私が抱えた図面の上に被せた。あの時は「貴方の三ヶ月分の作業が消えるところだった」と笑っていた。


「今日は図面は持ち出していません」


ニコラウスの声は平静だった。


そうだ。今日は現場確認だけで、図面は作業場に置いたままだった。守るべき図面がない。


──図面がなければ、守るのは。


心臓が跳ねた。


(違う。濡れた人間に上着をかけるのは、普通のことでしょう。技師として、同僚として、当たり前の——)


「風邪をひかれると、明日の打ち合わせに支障が出ます」


ニコラウスがそう言い足した。事務的な理由。合理的な判断。


なのに、外套をかけた時の指先が──手の甲にほんの一瞬触れた、あの指先が──冷たかった。雨で冷えた指。外套の温かさを私に渡して、自分は冷たい指のまま。


「……ありがとうございます」


声が、少し低くなった。


ニコラウスは背を向けて、備え付けの棚からタオルを引き出していた。耳の端が赤い。寒さのせいだろう。寒さのせいだと、思うことにした。



夜。


子供たちが寝静まった後、私は私室の机に向かっていた。


蝋燭の火が揺れる。手元に、ダールベルクの提案内容を書き出した紙がある。帳簿をつける時の癖で、話の内容を数字と条件に分解して書き並べた。


婚姻の条件。旧辺境伯領の管理権。ダールベルク家の領土拡大。カタリーナの治水能力の利用。


全部、並べてみると──


(これは、私を買う契約書だ)


提案の体裁を取っているが、構造は取引だ。カタリーナの能力を対価に、ダールベルク家は旧辺境伯領の管理権を得る。カタリーナが得るものは「伯爵家の嫁」という身分と、旧辺境伯領に関わる機会。


合理的だ。


合理的で、筋が通っていて──気持ちが悪い。


(けれど)


ペンを止めた。


(この子たちのためには、身分のある相手との結婚の方が——)


エーリヒの顔が浮かんだ。リーゼの笑い声が聞こえる。


伯爵家の嫡男に嫁げば、子供たちの社会的な立場は安定する。「子持ちの出戻り伯爵令嬢の子供」ではなく、「ダールベルク伯爵家の義子」になれる。学園での扱いも変わるだろう。


(子供たちのために)


また、あの言葉だ。


十年間、自分を縛ってきた言葉。ルートヴィヒの不在を耐えた理由。堤防を一人で直した理由。帳簿を一人でつけた理由。全部「子供たちのために」だった。


──その言葉で、また自分を売るのか。


ペンを机に置いた。


指先に、まだニコラウスの外套の温かさが残っている気がした。あの人は図面がなければ私を守った。合理的な理由をつけて。「風邪をひかれると打ち合わせに支障が出る」。


嘘だ。


あの外套の温かさは、合理的なんかじゃなかった。


(……でも、あの人は平民の技師だわ)


ニコラウスと結ばれたところで、子供たちの社会的な立場は変わらない。伯爵令嬢が平民の技師に嫁ぐのは、この世界では「落ちる」ことだ。私はそれで構わない。けれど、エーリヒとリーゼは──


蝋燭が、ぱちりと音を立てた。


芯が短くなっている。そろそろ替え時だ。


新しい蝋燭に火を移しながら、もう一度、ダールベルクの提案を見た。


(あの人は、旧辺境伯領を欲しがっている。私の能力はその手段にすぎない。けれど提案そのものは、合理的に見える。政治的にも筋が通る。王家にとっても利がある。だからこそ──断るなら、合理的な理由が要る)


感情で断れば、感情で押し返される。


制度で断つ。証拠で封じる。──あの帳簿と同じだ。


今はまだ、材料が足りない。


蝋燭の火が安定した。新しい芯は明るい。


机の上の紙を引き出しにしまい、代わりに導流堤の報告書を広げた。明日の十時に、ニコラウスが来る。流速データの照合。仕事がある。


仕事がある限り、私は大丈夫だ。


──肩の上着は、畳んで椅子の背にかけた。返さなければ。明日、返す。


返す時に、何と言おう。「ありがとうございました」。それだけでいいはずだ。それだけで、十分なはずだ。


なのに、外套を畳む手が妙に丁寧になっていることに、気づかないふりをした。

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