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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第1話 嘆願書


堤防の石積みに、朝露が光っていた。


一ヶ月前、ここで風に髪を吹かれた朝のことを思い出す。式典の日。たくさんの顔。手を振り返した、あの朝。


今朝は、私だけだ。


長靴を履いて河川敷に降りる。導流堤の石積みの目地を、指先でなぞった。ひび割れなし。排水口の詰まりなし。合流点の水流は設計通りの角度で分岐して、護岸への衝撃を逃がしている。


手帳を開き、数字を書き留めた。水位。流速。気温。昨日との差異。


──数字は嘘をつかない。一ヶ月前も、十年前も、これだけは変わらない。


「カタリーナ様、上流の水門も問題ありません」


家臣のフリッツが駆け寄ってきた。息が上がっている。朝五時の点検に同行するようになって二週間、まだ体力がついていかないらしい。


「ご苦労さまです。明日からは半刻早く回りましょう。冬が近づけば渇水期の点検項目が増えますから」


「は、半刻早く……」


「大丈夫です。慣れますよ」


慣れる。私も最初はそうだった。辺境伯領で、一人で堤防に通い始めた頃。毎朝、日が昇る前に長靴を履いて、泥の中に入って。


あの頃とは違う。今は二人だ。来月にはもう一人増える予定で、私がいなくても点検が回る体制を作っている。


──一人で抱え込まない。


それが、十年かけて学んだことだから。



屋敷に戻り、泥を落として朝食の席についた。


エーリヒが祖父の書庫から借りた本を読みながらパンを齧っている。十歳になった長男の手には、最近やけに分厚い本が増えた。


「エーリヒ、食事中に本はやめなさい」


「……はい」


不承不承に本を閉じる。背表紙が見えた。『王国貴族法概論』。


(また法律書)


半年前から、この子は法律書ばかり読んでいる。あの日──応接室でルートヴィヒに「母上が堤防を直していた時、どこにいたのですか」と問いかけた日から、何かが変わった。感情ではなく、制度で人を守れると気づいたのかもしれない。


「おじいさまー、蜂蜜もうないー」


リーゼが皿を差し出す。八歳の娘は相変わらず蜂蜜に目がない。父がため息まじりに瓶を傾けてやるのを見て、少しだけ口元が緩んだ。


穏やかだった。


一年前には想像もできなかった朝だ。王都の別邸を馬車の窓から見た、あの日。薔薇と、指輪と、見知らぬ子供。あれから一年と少し。


今、私の朝食には蜂蜜の瓶と法律書がある。


上等だ。



朝食の後、父の書斎に呼ばれた。


子供たちの耳に入れたくない話がある時の合図だ。もう慣れた。


父は机の前に座り、手紙を一通持っていた。王都の旧友からの定期報告。社交界の動向を伝えてくれる、あの私信だ。


「読みなさい」


受け取った。


文面の冒頭に、見覚えのある名前があった。


『──元辺境伯ルートヴィヒ・フォン・グラーフェンベルクが、貴族院に復権嘆願書を提出した。嘆願の骨子は「辺境伯領の治水・農政の功績は自身の指示に基づくものであり、爵位剥奪は不当である」とのこと──』


手紙を持つ指が、止まらなかった。震えもしなかった。


「……そうですか」


それだけ言って、手紙を机に戻した。


父が私の顔を見ている。怒りを期待していたのか、それとも動揺を。どちらでもないことに、少し驚いたような顔をした。


「動じんな」


「動じる理由がありませんから」


椅子の背にもたれた。


「公式記録が全て否定しています。王家査察の認定事項──帳簿の筆跡鑑定、領民九十七世帯の証言、ザールフェルト公国との公式書簡の記録。あの嘆願書がどんな文面であっても、公印の押された認定事項を覆すことはできません」


父がわずかに目を細めた。


「……お前の仕事は、石のように残ったな」


「帳簿は正確につけるものですから」


淡々と言いながら、少しだけ──ほんの少しだけ、胸の奥がざらついた。


(あの引き継ぎ資料を、お読みになったはずなのにね)


三百二十四頁。あの資料の全頁が私の手書きだということを、ルートヴィヒは知っているはずだ。知っていて、なお「自分の指示」だったと主張する。あの人は本気でそう信じているのか、それとも──信じたいだけなのか。


どちらでも構わない。


数字が証明する。証言が裏付ける。公印が保証する。嘆願は門前払いだ。


「貴族院の審議に入ることすらないでしょう。ですが念のため、お父様の旧友にはこちらの認定事項の写しを送っておいてください。万が一、嘆願を支持する議員がいた場合の牽制になります」


「ああ。手配しよう」


父が頷いた。その表情に、少しだけ安堵が見えた。


──私が怒りに任せて動くことを、心配していたのかもしれない。


(大丈夫ですよ、お父様。あの人のために怒る体力は、もう使い切りました)


立ち上がり、書斎を出ようとした時、父が呼び止めた。


「カタリーナ」


「はい」


「午後、ヴェーバー技師が来る。定期調査の報告だそうだ」


「存じています。十時に約束しておりますので」


「……十時、か」


父の声に何かが混じった。からかいなのか、観察なのか。判別がつかないまま、私は書斎を出た。



作業場に着いたのは、九時半だった。


報告書の準備をしようと扉を開けて──足が止まった。


椅子の位置が変わっている。


いつも使っている椅子が、窓際に寄せられていた。午前中の日差しがちょうど背中に当たる位置。書類を広げた時に影ができない角度。


(……部屋のレイアウト、変えたかしら)


記憶にない。昨日は書庫で資料を整理していたから、作業場には入っていない。家臣が掃除の際に動かしたのだろう。


椅子に座った。日差しが温かい。冬が近いこの時期、陽の当たる席はありがたい。


十時。


扉が叩かれた。


「カタリーナ殿。定期調査の件で参りました」


ニコラウスの声。一分も違わない。この人の時間の正確さには、もう驚かなくなった。驚かなくなったことに、少しだけ胸が温かくなる。


「どうぞ、お入りください」


扉が開く。飾り気のない外套。少し癖のある黒髪。日に焼けた手に、書類の束。


「上流域の水位が先月比で四パーセント低下しています。渇水期の傾向としては正常範囲ですが、十二月の降雨量次第で——」


座る前から、技術の話が始まる。


(……この人は、変わらないわね)


式典の日に手を握り合ってから、一ヶ月。あの夕暮れの堤防で、ニコラウスは「五年かかった。十分遅い」と言った。私は「十分、遅いですね」と笑った。


なのに──翌日から、この人は何事もなかったように技術の報告を始めた。


手を握ったことには、一言も触れない。


以前と変わったことといえば、報告書を手渡す時に指先が少しだけ触れること。それが偶然なのか意図なのか、私には分からないし、ニコラウスに聞く勇気もない。


「──以上が、今月の定期調査の概要です」


「ありがとうございます。導流堤の合流点、目視では問題ありませんでしたが、流速データとの照合をお願いできますか」


「承知しました。明日の午前に——」


「十時で」


「十時に伺います」


いつもの、やり取り。


報告が終わり、ニコラウスが書類をまとめ始めた。ふと、その手が止まった。


「……書庫に、エーリヒ殿がいらっしゃいました」


「ええ。最近、法律書ばかり読んでいるんです」


「拝見しました」


それだけ言って、ニコラウスは書類を鞄に戻した。


(拝見した?)


何を見たのだろう。エーリヒの本? 読んでいる姿?


それ以上は聞かなかった。ニコラウスも言わなかった。


「では、また明日」


「ええ。お気をつけて」


ニコラウスが作業場を出ていく。外套の裾が扉の向こうに消える。足音が廊下を遠ざかっていく。


静かになった作業場で、報告書を整理していると、エーリヒが書庫から戻ってきた。


「母上。ヴェーバー先生、帰った?」


「ええ。何か用だったの?」


「いいえ。……ただ」


エーリヒが手にした法律書を、ぱらぱらとめくった。


「先生が、ここに付箋を貼っていった」


頁の間に、小さな紙片が挟まっていた。ニコラウスの筆跡だ。几帳面で、硬質な文字。


『この条文は領地経営の法的根拠として参照できる。特に第三節の「管理者の功績認定」に注目のこと』


付箋の紙は、公式書類に使うものではなく、野帳──技師が現場で使うメモ帳の切れ端だった。端が少し汚れている。今朝の調査中に、書いたのだろうか。


「……ヴェーバー先生が?」


「書庫で本を読んでいたら、先生が来て、何も言わずに付箋を挟んで出ていった。それだけ」


エーリヒの声は淡々としていた。けれど、本を閉じる手つきが丁寧だった。付箋を落とさないように。


(技師が、子供の法律書に付箋を……?)


教養のある大人が、子供の勉強を見てやること自体は珍しくない。ニコラウスはエーリヒに挨拶されて以来、時折本の話をしているようだった。技師としての知識を子供に分け与えるのは自然なことだ。


(……それだけのこと。技師として、教養を勧めているだけ)


そう結論づけて、報告書に目を戻した。


けれど──付箋の「管理者の功績認定」という文言が、頭の隅に残った。


あれは、ただの教養的な助言ではない。あの条文は、誰の功績が誰に帰属するかを法的に定めた規定だ。つまり──


(いえ。考えすぎよ)


頭を振って、数字に集中した。



夜。


子供たちを寝かしつけた後、父の書斎の灯りがまだ点いていた。


何気なく廊下を通りかかると、マルタが書斎の前に立っていた。手に封書を持っている。


「マルタ?」


「あ、奥様。──伯爵閣下にお届け物です」


マルタが差し出した封書には、見慣れない紋章の封蝋が押されていた。


「ダールベルク伯爵家から、リンデン伯爵閣下宛の書簡が届いております」


ダールベルク。


王都の有力貴族だ。旧辺境伯領の隣接領主で、貴族院での発言力がある。堅実な領地経営で知られ、「良識ある貴族」という評判の持ち主──それくらいは社交界の常識として知っている。


けれど、リンデン伯爵家と直接のやり取りがあったことはない。


マルタが書斎の扉を叩き、封書を渡した。父が受け取り、封を切る。


文面を読む父の横顔が──硬くなった。


眉間の皺。口元の引き結び。あの表情を見たのは、辺境伯領の堤防決壊の報せを受けた時以来だ。


「お父様?」


父は封書を畳み、机に置いた。


「……明日、話す」


それだけ言って、書斎の扉が閉まった。


廊下に取り残されたマルタと目が合った。マルタが小さく首を傾げる。私も同じ気持ちだった。


(ダールベルク伯爵が、父に何を……?)


窓の外は、もう暗い。月が雲に隠れている。


部屋に戻り、蝋燭を灯した。机の上に、今日の報告書とニコラウスの調査データが並んでいる。その横に、エーリヒの法律書から写した付箋の内容のメモ。


『管理者の功績認定』。


手帳を閉じた。


父の硬い表情が、瞼の裏に残っている。ダールベルクの書簡。ルートヴィヒの嘆願。どちらも、穏やかな朝食の外側で動いている。


──けれど今日、堤防は無事だった。水位は正常で、護岸にひびはなく、導流堤は設計通りに機能している。


それだけは確かだ。


蝋燭の火が揺れた。窓の外で、風の音がする。明日は雨かもしれない。


雨なら、水位を確認しないと。明日の十時に、ニコラウスが来る。一分も遅れずに。


──あの人の時間だけが、いつも正確だ。


その確かさに、今夜もまた少しだけ、救われている。

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