第10話 新しい堤防
新しい堤防の上を、風が渡る。
かつて私が築いた堤防は壊れた。でも、この堤防は壊れない。一人で築いたものではないから。
◇
式典の朝は、雲一つない快晴だった。
リンデン伯爵領の南端、クレン河の合流点。一年前には護岸のひびを指でなぞっていた場所に、今は真新しい導流堤が立っている。合流角度を十五度緩和する石積みの壁。その先に連なる水門と、整備された護岸。
私とニコラウスが一年かけて設計し、リンデンの領民たちが汗を流して建てた堤防だ。
式典には、リンデン伯爵領の領民はもちろん、隣国ザールフェルト公国の関係者、近隣の貴族の代理人が参列していた。父アルブレヒトが式辞を述べ、公国の河川局長がニコラウスの功績を讃え——
そして、私の番が来た。
壇上に立った。
風が髪を揺らす。目の前に、たくさんの顔がある。知っている顔。一年間一緒に働いた顔。リンデンの家臣たち。石材を運んでくれた商人たち。工事現場で泥まみれになった作業員たち。
その中に、見覚えのある顔がいくつかあった。
辺境伯領から移住してきた人たちだ。堤防決壊の後、隣領へ避難し、そのままリンデン伯爵領に定住した元領民。
「この堤防は、私一人の力では完成しませんでした」
声が、自分のものとは思えないほど落ち着いていた。
「ヴェーバー技師の技術と、リンデンの領民の皆さんの協力があってこそです。この堤防は、一人の手ではなく、たくさんの手で築かれました。だから、強いのです」
一人で築いた堤防は、壊れた。
あの堤防も強かった。七年間、春の増水に耐えた。けれど、私一人が支えていたから、私がいなくなれば壊れた。
この堤防は違う。設計図はニコラウスと二人で引いた。石積みは領民が運んだ。水門の管理手順は三人の家臣に引き継いだ。私がいなくなっても、回る仕組みを作った。
──それが、十年間で学んだことだ。
壇上から降りる時、人垣の中から声が上がった。
「お母さま!」
パン屋のおかみだった。辺境伯領から移ってきた、あのおかみ。目に涙を浮かべて、手を振っている。その隣に、水車小屋の老人。識字教室にいた子供たち。
「お母さま」と呼ぶ声が、いくつも重なった。
あの領地を出る日にも、同じ声を聞いた。「行かないで」と泣いた声。あの日、私は「大丈夫です」と微笑んで去った。
今日は、「大丈夫でしたよ」と微笑んだ。
手を振り返した。壇上からではなく、同じ地面に立って。
◇
式典の後、伯爵邸の庭に戻った。
午後の光が木漏れ日になって、芝の上に揺れている。マルタが茶の支度をし、エーリヒが木陰のベンチに腰かけて本を読んでいる。十歳になった長男は、この一年でまた少し背が伸びた。
「エーリヒ、何を読んでいるの」
「法律書です。おじいさまの書庫にあった」
「法律書?」
「母上のような人が、正当に評価される世の中にしたいから」
さらりと言った。目は本から離さない。
(この子は──)
あの日の応接室で、ルートヴィヒにまっすぐ問いかけた少年が、今度は本の中に答えを探している。「堤防を直していた時、どこにいたのですか」──あの問いの答えを、この子はもう知っている。知った上で、別の問いに進んでいる。
「……立派ね」
「母上がいつも言うそれ、もう慣れました」
エーリヒが本から目を上げ、少しだけ笑った。笑うようになった。この一年で、この子は笑うようになった。
「ニコラウス、こっち!」
リーゼの声が庭の向こうから響いた。
八歳の娘は、花壇の前にしゃがみ込んでいる。その横に、ニコラウスが膝をついていた。
「これは何ていうお花?」
「エリカです。秋に咲く花で——」
「エリカ。かわいい名前。じゃあこっちは?」
「それはラベンダー。もう少し経つと——」
「ニコラウス、物知り!」
先生、ではなく。
ニコラウス。
いつの間にか、リーゼはこの人を名前で呼ぶようになっていた。ニコラウスは特に訂正しなかった。花の名前を一つずつ教えながら、時折リーゼの頭についた葉っぱを取ってやっている。
不器用で、けれど、丁寧な手つきで。
「子供たちが懐くのが早すぎます」
私はニコラウスの横に立ち、苦笑した。
ニコラウスがゆっくり立ち上がった。膝についた土を払い、私を見た。
「五年かかった。十分遅い」
穏やかな声だった。けれど目は、笑っていなかった。真剣な目。技師が図面を検算する時の、あの目。
「……え?」
「子供たちの話ではない」
息が止まった。
五年。
五年前に最初の書簡を受け取った日から。
ニコラウスが私の手を取った。大きな手。節の太い、日焼けした手。堤防を直す手。図面を描く手。雨の中で私の仕事を守った手。
「十分、遅い——」
そう言いかけて、指先に力が入った。ニコラウスの手は温かかった。いつも温かい。この人の手はいつだって温かかった。図面を受け取る時も、資料を手渡す時も、気づかないふりをしていたけれど。
「……十分、遅いですね」
笑った。
自分でも驚くくらい、自然に笑えた。
ニコラウスの目が、ようやく緩んだ。口元が不器用に弧を描く。この人の笑顔を、正面から見たのは初めてかもしれない。いつも図面に目を落としているか、視線を逸らしているかだったから。
手を、握り返した。
リーゼが花壇の向こうから「ニコラウス、まだー?」と叫んでいる。エーリヒが本から顔を上げて、こちらを見て、何も言わずにまた本に目を戻した。
──知っていたのだろう。この子は、いつだって全部見ている。
◇
その日の夕刻。
私が堤防の完成報告書を書斎でまとめていると、マルタが静かに部屋に入ってきた。
「奥様。一つ、ご報告を」
「何かしら」
「本日、辺境伯領の使者が参りまして。ルートヴィヒ様から、お手紙を預かったと」
ペンが止まった。
「辺境伯——」
「『辺境伯夫人カタリーナ殿』宛でございました」
マルタの声は平坦だった。けれど、次の一言に力がこもっていた。
「辺境伯夫人という方は、こちらにはおりません、とお返ししました」
マルタ。
「開封はしておりません。そのままお返ししました。──奥様にお伝えする必要もないと判断いたしましたが、念のためご報告を」
「……マルタ」
「はい」
「ありがとう」
マルタは一礼して、部屋を出ていった。
手紙の中身は知らない。知る必要もない。
辺境伯ルートヴィヒ・フォン・グラーフェンベルクは、一年の猶予期間内に領地を復興できなかった。先月、爵位剥奪が正式に確定し、領地は王家直轄領に編入された。そのことは、貴族院公報で知った。
あの人が最後に何を書いたのか。謝罪か、懇願か、弁明か。
どれであっても、もう届かない。
「辺境伯夫人カタリーナ」は、もういないのだから。
◇
夕暮れ。
新しい堤防の上を歩いていた。
隣に、ニコラウスがいる。半歩だけ後ろを歩いている。この人はいつもそうだ。半歩後ろ。押しつけがましくなく、けれど確実にそこにいる距離。
少し後ろを、エーリヒとリーゼが走っている。リーゼが「待ってー!」と叫び、エーリヒが「自分で追いつけ」と返している。マルタが「走ると転びますよ!」と追いかけている。
堤防の上から、クレン河が見える。夕日を映して、水面が橙色に光っている。新しい導流堤が、流れを穏やかに導いている。
風が吹いた。
髪が揺れる。堤防の草が波打つ。ニコラウスの外套の裾がはためく。
「風が強くなりますね。明日は雨かもしれない」
ニコラウスが空を見上げて言った。
「雨なら、水位を確認しないと」
「明日の朝、一緒に見に行きましょうか」
「……ええ」
なんでもない会話だった。技師と顧問の、いつもの会話。
けれど「一緒に」という言葉が、一年前とは違う響きを持っていた。
笑った。
誰のためでもない笑顔だった。
領民の前で浮かべる笑顔でもなく、辺境伯夫人としての微笑みでもなく、子供たちを安心させるための笑顔でもなく。
ただ、風が気持ちよくて、隣に人がいて、後ろで子供たちが笑っていて──それだけで笑えた。
二十八年間で初めての、自分のための笑顔だった。
堤防の上を、風が渡っていく。




