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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第1話 十年目の王都


その家の庭には、薔薇が咲いていた。

——私がいくら頼んでも「辺境の気候では無理だ」と却下された、あの品種の薔薇が。


けれどそれは、もう少しだけ先の話。



王都の空気は、埃っぽい。


馬車で五日かけてたどり着いた王都ヴィルヘルムスブルクは、十年ぶりでも変わらず喧騒に満ちていた。石畳を蹴る馬蹄の音、物売りの声、焼き菓子の甘い匂い——十八のときに嫁いで以来、一度も戻らなかったこの街が、他人の顔をして私を迎える。


「奥様、学園事務室はこちらの棟だそうです」


侍女のマルタが、門番から受け取った案内図を差し出す。


エーリヒの入学手続き。それが今回の王都行きの目的だった。長男は今年で九つになる。辺境伯家の嫡男として、王都学園への入学は避けられない通過儀礼だ。


ルートヴィヒは一週間前に「先に王都で準備しておく」と発った。入学手続きに必要な書類は私がすべて揃えたから、彼がすることといえば——まあ、学園長への挨拶くらいだろう。


事務室の受付で書類を広げた。入学願書、身分証明書、健康証明、保証人署名。私が一つずつ確認していくと、事務官が少し目を丸くした。


「……これほど不備のない書類は久しぶりでございます」


「ありがとうございます。書き直しがあると二度手間ですから」


当たり前のことだ。帳簿を十年つけていれば、書類の不備くらい目を瞑っていても見つけられる。


手続きは半刻で終わった。事務官に一礼して廊下に出ると、マルタが小さく息を吐いた。


「さすが奥様。辺境伯閣下がいらっしゃらなくても、何の問題もありませんでしたね」


「……いつものことでしょう」


いつものこと。そう、いつものことだ。


月の半分は「王都出張」で不在の夫の代わりに、書類を整え、判断を下し、頭を下げ、頭を上げ、領地を回す。十年間、ずっとそうしてきた。



帰りの馬車が、予定とは違う道を走り始めた。


「旦那様、こちらは——」


マルタが御者に声をかけると、幌の向こうから申し訳なさそうな声が返る。


「申し訳ございません。中央通りが荷馬車の横転で塞がれておりまして、迂回いたします。こちらの住宅街を抜ければ宿まで近道になりますので」


「構いません。お任せします」


私はそう答えて、再び窓の外に目を向けた。


高級住宅街。白壁と鉄柵の屋敷が並ぶ、王都でも上流の区画だ。どの邸宅も手入れの行き届いた庭を持ち、初夏の陽光の中で花々が揺れている。


——そのとき、目に入った。


門柱に掲げられた、見慣れた家名。


「グラーフェンベルク」


瀟洒な別邸だった。本邸ではない。我が家の王都本邸は、もっと東の貴族街にある。こんな場所に、辺境伯家の別邸があるなんて聞いていない。


(……別邸?)


庭に、人影があった。


八つほどの少年が、犬を追いかけて走り回っている。明るい栗色の髪。よく通る笑い声。その横顔を見た瞬間、心臓が妙な音を立てた。


エーリヒと——同じだ。


いや、正確にはエーリヒとは違う。もっと目元がきつくて、顎の線が鋭い。あれは、ルートヴィヒだ。ルートヴィヒの顔に、そっくりだ。


ベンチに座って少年を見守る女性がいた。二十代の後半だろうか。品のいい淡紫のドレス。控えめな、しかし安定した微笑み。左手の薬指に光る指輪が——


呼吸が、止まった。


あの指輪を、私は知っている。


結婚五年目の冬。ルートヴィヒが「実家の家宝の指輪を無くした」と言った。代々辺境伯の妻に贈られる、青い石の指輪。「王都の出張先で落としたらしい」。私は「残念ですね」と答えた。彼は「すまない」と頭を下げた。


——落としたのではなかった。


渡したのだ。


あの女性に。


馬車はゆっくりと邸宅の前を通り過ぎていく。二秒、三秒。それだけの時間で、十年分の景色が入れ替わった。


「出張」のたびに届いた短い手紙。文面はいつも同じような内容で、私はそれを「忙しいのだろう」と思っていた。——忙しかっただろうとも。二つの家庭を回しているのだから。


エーリヒに「父上はいつ帰るの」と聞かれるたびに、「もうすぐよ」と答えた。リーゼが夜泣きしたとき、一人であやした。堤防が崩れかけた年の春、泥の中に膝まで浸かって補修箇所を確認したあの朝も、彼は王都にいた。


——ここに、いたのだ。


この庭で。この薔薇の下で。あの女性と、あの子供と。


私は、目を閉じた。


一秒。


二秒。


三秒。


暗闇の中で、何かが音もなく切れた。それが何なのか、今はまだ名前をつけたくなかった。


目を開ける。


視界が澄んでいた。不思議なほどに。泣いてはいない。震えてもいない。唇が、自然と弧を描いた。辺境伯夫人として十年間、どんな無理難題の前でも浮かべてきた——あの微笑みが、今、私の顔に貼りついている。


「マルタ」


「……はい、奥様」


マルタの声が震えていた。窓の外が見えていたのだろう。私は彼女を見なかった。見れば、この微笑みを保てなくなる気がした。


「帰りましょう」


それだけ言って、私は背筋を伸ばした。


入学手続きの書類は鞄の中にある。明日の朝、予定通り王都を発つ。エーリヒの入学は秋。それまでに、やるべきことがある。


馬車が揺れる。石畳の振動が、座席越しに伝わってくる。


鞄の中の書類を確認しようとして、指先が一束の封筒に触れた。ザールフェルト公国の公印が押された、黄ばみかけた封筒。ヴェーバー技師からの技術書簡だ。堤防の設計についてやり取りした資料で、来月の補修計画に必要だから持参していた。


指が、一瞬だけ止まった。


——持ち帰らないと。これは仕事の書類だから。


封筒を鞄の底に戻す。


窓の外で、王都の景色が流れていく。高級住宅街はもう見えない。商店街の賑わいが、遠い国の祭りのように聞こえる。


「奥様」


マルタが、こらえきれないように口を開いた。


「何か、お聞きになりたいことがあれば——」


「マルタ」


私は窓の外を見たまま言った。


「帰ったら、引き継ぎ資料を作ります」


沈黙。


馬車の車輪が、石畳の継ぎ目を一つ越えた。


「……奥、様……」


マルタの声は、もう声の形をしていなかった。


私は答えなかった。窓の外を見ていた。夕暮れの空が赤い。辺境伯領まで馬車で五日。あの領地に帰ったら、十年分の仕事を全部、紙に落とす。農地の作付け計画、水利権の契約、堤防の補修記録、識字教室の運営、交易商との取引条件——一つ残らず。


あの人が読めるように。


あの人が、私なしでもやれるように。


(——やれるかしら)


ほんの一瞬、喉の奥で笑いそうになった。十年分の仕事を、あの人が?


でも、そんなことはもう、私の心配することではない。


夕焼けが馬車の中を橙に染めた。マルタが泣いている気配がする。私は泣かない。泣いている暇は、ない。


三百頁では足りないかもしれない。

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