閑話 招かれざる者、再び
よろしくお願いします
青い空にぽっかりと浮かぶ雲が見えた。空が青いのは光の屈折率だと聞いた記憶がある。今思えば青い理由にはなっていないのではないか。屈折率云々言うなら緑になっても良いんじゃないだろうか? 太陽の光が大気で散乱してとか習った記憶もあるがよくわからないなと考えながら俺はぼんやりと空を眺めていた
ふと視線を横に逸らすと、青々と茂る大きな木が見えた。そしてそこから伸びる黒い線が視界に入る。なんてことはない電線だ
今度は反対に視線を向けると同じような造りをした住宅が立ち並んでいた。いわゆる建売住宅というやつだ。ベランダには洗濯物や布団が干してある。今日は風も穏やかで日差しも心地よい。絶好の洗濯日和なのだろう
視線を戻し、深呼吸する
唐澤祐一は今年で二十七歳になる。独身彼女無し。両親は他界し、兄妹も居ない。頼れる親戚は居るにはいるが、顔も覚えていないので頼っていいのかすら怪しい
学校卒業と同時に就職し、なんとか一人で生きていけてるのであまり深くは考えていない
所謂、文系プログラマーと言う職業で理系は苦手なのだが、持ち前の人付き合いの良さで毎日を乗り越えていた
そんなある日、俺は帰りの電車の中で夢を見たのだ
それは長い長い夢を見ていた。とてもじゃないが他人には言えないような夢だった。いい年をした男が夢の世界で異世界に転生する夢を見たなどとは口が裂けても言えない。それだけならまだしも転生した先で俺はなんと犬だったのだ。なんだ犬って。ちゃんちゃらおかしいわ
見慣れない空を見上げながら、ここはどこだろうと考える。恐らく電車で意識を失った俺はそれでも終点とかで降りたのだろう。記憶にないが
で、朦朧としながらも歩き、行き着いたこの公園で寝てしまったのだ
我ながらとんでもないことをしていたなと思いながらも俺は起き上がる。まずは自分の居場所を知らねばならない。昔であれば近くの人に聞かねばならない所だが、現代社会においてそれはもはや必要としない。なぜならスマフォというものがあるのだ
GPS機能を用いた位置検索機能を使えばどのように駅まで向かい、何番線から電車に乗り、何分で家に着くかもわかってしまうのだ。説明するまでもないが。
起き上がった俺は辺りを見渡す。当然そこは見知らぬ公園だった。だが、問題は別にある
視線がやけに低いのだ。どれだけ低いのかと言うと、起き上がった俺の目線の上にベンチがあるほどにだ
不吉な考えが頭をよぎるが、まだ寝ぼけているのだろうと頭を振る
大きく深呼吸をし、そして冷静に考える
そもそも先ほど寝転がって空を眺めている風景も人のそれとは違った。そして起き上がる時も……
というか、うっすらとは気がついていたのだが、無意識に気がつかない振りをしていた。認めたくない現実を
——自分がコーギーであるという事実を
(なんでじゃああああああ!!!!)
「アォーーーン!!」
遠吠えは住宅街の中を駆け巡る。当然返事はない
待て、落ち着こう、冷静に考えよう
そもそもここは俺が居た世界のはずだ。車、自転車、電信柱、家の造りからして間違いない。夢は終わったのだ。なのにだ。にもかかわらず、なぜ俺は犬のままなんだ?
もう、あれが夢だったのかどうかはどうでもいい。俺は一生このままなんだろうか? うそだろ……
めまいがしてよろけそうになり、慌てて意識を強く持とうとする
——ぶに
後ろ足になにやら柔らかい何かが触れる。なんだろうか? 後ろ足で、その感触を再度、確かめる
——ぶにぶに
「っぅん……」
可愛らしい声に思わず足を引っ込める。まさかと思いつつも否定する。こんな公園のど真ん中に女の子が寝ているわけがない
公園のど真ん中で寝ちゃうって、どんだけドジっ娘なんだ。萌えを通り越して怖いわ
恐る恐る振り返る
そこには一人の少女が横たわっていた。その顔は見覚えのある——いや、忘れもしない
マグナス・アシュリーその人だった
(な、なんで、アシュリーがここにいんの……?)
マグナス・アシュリー。俺の恥ずかしい夢体験の世界で創造神と対を為す存在だった少女だ。世界を愛した彼女は世界を護る為に裏切りの不名誉を背負いつつも、最終的には世界を救ったのだ
幼いながらも発育よろしいプロモーション。白く輝く髪と顔を半分隠すあの仮面は紛れもなくアシュリーだ
夢から覚めたと思えば、また夢の世界という意味不明な現象に俺は戸惑う。だが、なにはともあれ、目の前で気持ちよさそうに寝ているアシュリーを起こして事情を聴くのが早い
俺は静かな寝息を立てているアシュリーの顔に鼻先を近づける
「ぅぅん……」
それを嫌がるようにアシュリーは手で顔を振り払う。こうしてみるとアシュリーは美少女なのがよく分かる。戦っている時のアシュリーは既に咲き誇った美しさを持っていたが、こうして寝顔を見ていると、まだ固い蕾のような幼ささえ受ける
「ぅぅん……むにゃむにゃ」
とても気持ちよさそうに寝ている。きっと良い夢を見ているのだろう。それに比べて俺はどうだ。夢から覚めたと思いきや、また夢の続きを見せつけられ、途方にくれた哀愁漂うコーギーだ
なんで俺がこんな目に会わなくちゃいけないんだ。コーギーならコーギーでもいい。よくないけど
でも! だったら! もっと愛されて然るべきでしょう! もっと俺を甘やかすべきでしょう!!
目の前で気持ちよさそうに眠るアシュリーを見るうちに、どんどんと苛立ちを覚えた俺はその思考の全てを獣の本能に預ける
「わん!!」
おもむろにアシュリーに飛びつき顔を舐め回す
「へぁ!!??」
突如として襲う舐めまわしに熟睡していたアシュリーは飛び起きる
「ちょ!? やめ!! やめて!!」
アシュリーは必死に顔を手で覆うがそれはなんの意味を持たない。この狐顔はそのか細い腕と腕の間を難なく通り抜けるのだ!
「くすぐった……! やめなさい!!」
両脇を抱えられ持ち上げられた俺は為す術もなくその身を預ける事となった
「なんてことをするんだ!」
怒ったアシュリーもそれはそれで可愛い
「ここはどこだ……?」
見慣れない景色に気づいたアシュリーが唖然としながら周りを見回す
(俺もわからん。元居た世界に戻れたと思ったんだけど、ほら、犬の姿のままだし)
「ふむ? まあ、アクアホルンではないと言う事は俺でもわかる。ここはお前の住んでいた世界とは違うのか?」
(どうだろう? そんな気もするけど、そんなことない気もする)
「よくわからんな。まあ、ひとまずここがどこなのかを調べればいいさ」
そう言うとアシュリーは俺を下ろし立ち上がる
なんという順応力。頼りになるぜ
背中を向けて立っているアシュリーは、立ち尽くしたままで何もしようとしなかった
(どした?)
「あれ? おかしいな? ふんっ!」
俺には一生懸命背伸びをしているようにしか見えない。寝起きのストレッチか?
「魔法が使えない……?」
(え?)
一生懸命に飛ぼうとしていたのだろう
「あ! ワンちゃん!」
突如、幼い声が向けられた。見れば、学校帰りの小学生低学年の女の子二人組がこちらへと駆け寄ってきた
「かわいー」
「捨てられちゃったのかな?」
俺の頭を撫でながら少女達は呟いている
「変な格好をした子供だな」
そんな様子を見ていたアシュリーが興味深そうに少女達を眺めていた
(小学生だろ)
「ショーガクセー?」
(あー、義務教育っていうのがあってだな)
「ギムキョー?」
(要は小さい子供達が集まる勉強の施設があるんだよ)
「ほう」
アシュリーに小学生の事を教えていると、ふと気がついた事がある。アシュリーは小学生のすぐ傍にいるのだが、小学生達はその存在に気づいていないようなのだ
(もしかして、アシュリーの姿は見えてない?)
「うん? ああ、そう言えばそうだな。おーい」
アシュリーが小学生達に話しかけるが、まるで聞こえていないように小学生同士は話をしている。やはり見えていないのだろう
(まじか)
「まあ、ある意味良かったんじゃないか?」
(そうなの?)
「違う文化形態の所となれば摩擦も大きいだろう。見えない方が都合がいいかもしれない」
なるほど、それもそうか
「ただ、魔法が使えないのは痛いな。魔素らしきものは感じるのだが……」
(え? この世界にも魔素ってあんの?)
「よくわからん」
アシュリーは肩を竦める
「ねぇ、そろそろ行こうよ」
一人の女の子がもう一人の女の子に声をかける
「うん……この子ひとりぼっちなのかな?」
「連れて帰れないでしょ?」
「そうだけど……」
「行こうよ! 約束あるんだし」
「うん……ワンちゃんバイバイ」
名残惜しそうに手を振り、立ち去っていく小学生を俺はアシュリーと見送った
「さて、どうしたものかな。とりあえずこの辺りを散策してみるか?」
少女達が見えなくなると、アシュリーがこちらを見る
(もし、ここが俺の知っている世界と同じだとしたら、俺は出歩けないな)
「なぜ?」
(犬は保健所に通報されるからな)
「すまんが、分かるように言ってくれ」
(ええと、犬はさ、一人で彷徨いていると、それを見かけた人がとある組織に連絡しちゃうのよ)
「ほう」
(んで、とある組織が来て閉じ込められる)
「なんだと……恐ろしいな」
(犬は噛み付くからな)
「確かに、俺もさっき襲われたな。その組織に連絡した方がいいか?」
(やめて、ごめんなさい)
「ふむ、となると、どうしたものか」
(暗くなってから出歩くとか? それまでは……お、そこの中で隠れるか)
公園の隅に幾つかの遊具がある。その中に滑り台があり、その下がドーム状になっているのを見つけた俺は、滑り台に向かって歩き出す
「なんだその不思議な物体は? 大丈夫なのか?」
(これは子供達が遊ぶ為の遊具だよ)
「ほー」
アシュリーは興味津々といった様子で遊具を眺める
(アシュリーは姿が見えてないんだから、この公園内を見て回ってもいいんじゃないか? そこの柵の向こうには行くなよ)
「わかった」
アシュリーは頷くと、早速といった様子で滑り台の周りを彷徨きはじめる。俺はドームの中に入り外から見えない所で丸まる
「おお? なんだこれは? どう使うんだ?」
初めて見る遊具に疑問と驚きの感情が入り混じった声が聞こえる。俺からすれば何てことはない物でも、アシュリーにとっては未知との遭遇なのだ
「これは……何が楽しいんだ?」
気になって外を覗くと、シーソーを手でガタンガタンと動かすアシュリーがいた
(それは二人で遊ぶ遊具だよ)
俺の言葉にアシュリーは振り返り怪訝な表情をする
(あっちに座ってみ)
「こっち?」
(いや、向き逆)
「こうか?」
(そうそう、んで、そのままでいて……っていうか、俺も乗っけて)
浮いた反対に乗れないので、アシュリーの方からゆっくりと反対に向かって歩き出す。犬の姿でこれをやるのは結構怖い
移動しながら、そもそも犬の体重でシーソーできるのかと不安になる
——ッギ
シーソーが軋む
「おお!? 浮いたぞ!?」
浮いたと言っても、アシュリーの足は地面に着いたままだ。犬の体重ではそこまでちゃんとはできない
(こうやって、お互いの体重で相手を浮かせる遊びだよ。俺の体じゃこれ以上は無理だけど)
「なるほどなー」
終始、関心しっぱなしのアシュリーはその後も一つ一つの遊具を飽きるまで眺めていた
日が落ち、夜の闇が公園を包み込むと、俺はアシュリーを連れて付近を散策することにした。あの後、公園に人が来ることはなく、見つかる心配はなかった
最近では公園で遊ぶ子供も少ないと聞いていたが、こうして1日公園にいるとそれがよく分かる
人気も少ない路地を宛てもなく歩くことにする。標識案内とかがあればここがどこなのかがわかるだろう
「おい、この道はどうなってるんだ?」
アシュリーは道路が気になって仕方ないようだ
(コンクリートだよ。どこの道もそうやって舗装されてるよ)
俺の言葉にアシュリーは納得がいっていないようだが、何をどう質問していいのかもわかっていないようだった
「それにあの魔法は誰が使っているんだ?」
そう指差すのは街灯だった
(魔法じゃなくて、電気な)
「お前の言っている言葉がまったくわからん」
(そういうもんだと思ってりゃいいんだよ)
それを言ったら、俺が初めて異世界に行ったときだって、意味不明な事が多かった。わからない事を考えてもしょうがないのだ。徐々に覚えていってもらうしかない
「おい!」
アシュリーが大きな声を出して慌てている
(どした!?)
「な、なんだ……あれは……」
アシュリーが指を指しているのは大きな道路だった。おそらく国道かなにかだろう。大きい道なので当然、車が行き交いしている
「高速で何かが飛び交っているぞ?」
(車だろ)
「車?」
(あー、馬車あっただろ?)
「ああ」
「あれの馬がなくて、魔法で動く馬車だ」
「なん……だと……」
大通りに出ると、それなりに人が行き交っていた。ふと目線を脇に逸らすと道路の上に大きな青い看板が立っていた
—西本市 10㎞ 凰巣市駅 3㎞
標識の情報からここが凰巣市であろう事が読み取れた
(凰巣市? どこだそれ?)
「うん? それがここの町の名前なのか?」
(恐らくは)
「知っているのか?」
(知らない)
「ふむ。なぁ、あの要塞はなんだ?」
アシュリーはどうやらコンビニが気になるらしい
(あそこは店だよ。いろんなものが売ってる)
「へー、行ってみよう」
(いやいやいや、俺が捕まっちゃうから!)
名残惜しそうにしているアシュリーを説得し、公園へと戻ると、ベンチに座り、一度現状を整理することにしてみた
ざっと見てみたところ、文明的にはかつての現実世界に近いのは間違いない。というかほぼ一緒だ。だが、凰巣市や西本市なんて町を見たことも聞いたこともない
俺も全ての市を知っているわけではないので、もしかしたら、俺の知らない市なのかもしれない。だが、それはあり得ない。なぜなら、公園に帰る途中で衝撃的な事実を知ってしまったのだ
電柱に張ってある看板には県名が書いてあったのだ
入江石県
そんな県はない。47都道府県を全部言えるかと言われれば怪しいが、そんな県が存在しないことだけは絶対に間違いない
と、なると、もはや答えはひとつだ
ここは異世界なのだ
(どうやら、また転生しちゃったみたいだな……)
コーギーと一人の少女はベンチに座り途方に暮れた
やっと主人公登場です。影が薄いですね。書き溜め分は以上になるので、少し間が空きます。