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彼女の体温

 さわやかな風が吹く川のほとりを見下ろすように通る遊歩道から少しだけ離れてひっそりと置いてあるベンチに腰掛けた。バスの運賃に小銭を作るために買った缶コーヒーを開ける。昨日は午前二時に店を引けてそのまま迎えに来た彼の車に乗った。およそ散歩には適さないハイヒールの足元の野草に目を落とす。ヨモギ、ドクダミ……親指の爪ほどの蕗の葉に似た草の名前はなんだったろう。石鹸水で作ったシャボン液に入れた気がする。シャボン玉を大きくするためだったか。綺麗な虹色をだすだめだったか。

 どこかの保育園の子供たちが川で遊ぶ声を聞き、申し訳ない気分を抱きながらも煙草に火をつけた。吐き出した煙が薄いサングラスの茶色と合わさって鮮やかな緑に灰汁を加える。初夏が近付いているすがすがしい朝で、彼の家からの帰りなのにいつものように心が弾まない。洗面台にあった二本の歯ブラシのせいだろうか。見せてもらった子供の頃の写真のせいだろうか。

 縁の黄ばんだアルバムには、色あせた写真が何枚も収まっていた。今の彼によく似た男性と恰幅のよい和服の女性。彼をそのまま小さくしたような大きさだけが違う二人の男の子。少し大きくなると家族や二人の写真はなくなり、柔らかなリーゼントのような髪型で顎を引いて笑う一人の男子の写真に変わっていく。今の彼より三分の一くらいしか体重はないだろうけれど、その表情には面影がある。それ以外にはたくさんの、多分見る人が見ればかなり価値のあるだろうバイクや車の写真ばかり。

「全然なくなっちゃったよ。暴走族のときの写真とかカノジョとチュウしてる写真とか」彼は私が作ったカップのヤキソバを食べながらそういった。

「ふうん」私は何故か違和感を感じた。

 そこにいる少年は無邪気で屈託なく笑っていた。お決まりのしゃがんだポーズをとっていてもそれほどの暴れん坊には見えない。今彼にある貫禄は微塵も感じられない。

(インテリジェンスも感じないな)

 確か、中学の三年生のときは二日しか登校していないといっていた。それだけのワルだったのだろう。私だって特別頭がよいわけではない。だが、お勉強ができる云々ではない。聡明さというか考える努力というのか、そのようなものは何かしら雰囲気に醸し出されるものだ。ところが写真の中の彼にはそのかけらも感じられない。損得やら善悪やら、おおよそこの世の俗なものすべてを超越して魂すらないようなひたすらな無邪気さだけが存在しているようなのだ。部屋に飾ってある彼の息子が赤ん坊のときの写真からのほうが聡明さを感じるのである。

(どうしたんだろう)それは二十年以上も前の写真であり、二十年以上も前の彼であるにも関わらず、私は妙な違和感を感じた。それまで一点の曇りもなかった彼への愛情に、不思議なものを感じたのだ。不安というのか罪悪感というのか。

 ちくりとする胸の靄を押し込めるように、私は缶コーヒーを一気に流し込んだ。まだ子供であろう真っ黒の犬が、後ろ足を不恰好に曲げながら飼い主に連れられて脇を通っていった。すぐ隣を通るときに一度だけ、不思議そうな顔をして私を見上げていった。飼い主に声が届かないくらい遠ざかってから私は呟いた。

「男の匂いでもする?」

 彼がヤキソバを食べ終わるのを待って、裸でベッドに入ったものの、二人とも寝不足でキスを繰り返しているうちに眠ってしまった。懐かしい昭和の写真を見たせいか、私は昔祖父が祝日のたびにそうしていたように玄関先に掲げてある日の丸の夢を見ていた。上下の歯の間に彼の舌を感じて目が覚める。寝入ってからちょうど一時間半。彼の眠りのサイクルだ。部屋にはすでに朝日が差し込んでいる。

「まだ起きるには早いよ」何度も唇が塞がれる合間を縫って私はいった。

「いいんだよ」彼はそういうと私の中に入ってきた。濡れ始めた粘膜をこじ開けられた軽い痺れが腰椎に伝わり、頭蓋骨の中で脳を絞る。ものの数分で達してしまった私の身体を抱きしめながら、痙攣するそれを確かめるように深く腰を落とす。私の波が納まりきる前にまた身体を動かし始める。余韻の残った私はさっきよりも早く、そして大きく高みへと昇りつめる。

「俺専用みたいだな」何度啼かされたあとか、彼はそういった。後頭部に右手が回る。逆行で見えない彼の表情に、私はささやいた。

「私の中でいって」そうして欲しいことはメールでも告げてあった。一度結婚していた彼はその快感を知っているはずだ。だからどんなに仕事や付き合いで遅くなっても、私の仕事終わりが遅くとも今日は迎えに来るだろうと思っていた。

 彼は返事をするかわりに、唇を重ね、深く深く舌を差し込んだ。それは昇りつめることを告げられなくするためだとすぐに気がついた。達したときにのけぞる私の身体を逃さぬように抱きかかえたまま彼は私を攻め続けた。いつもより猛々しいそれが張り裂けそうになったとき、

「もうだめ」私のその言葉を聞くためといわんばかりに彼は唇を離した。呼応するように私たちの身体は幾度も痙攣を繰り返し、彼は私の一番奥深いところにそのすべてを注ぎ込んだ。

 簡単に身体を洗い流すと、彼は朝日の中で再びすぐに眠りについた。私はその眩しさに少し戸惑っていたが、快楽のあとの疲労感と均一的な彼の鼾で徐々に睡魔に取り込まれていった。朦朧とする頭の中で、想像していたよりも幸福感が少なかったなと考えていた。決して子供を宿ることのない時期という空虚感ではないことが、私の気持ちを重くした。

 一斉に鳴り始めたアラームに、微動だにしない彼を尻目に、私はまだ倦怠感の残る身体を起こした。激しくバイブする自分の携帯電話を止め、けたたましく鳴り響く彼の携帯電話と目覚まし時計を止める。その二つは五分おきに鳴り続けることも知っている。

「起きて」キスの雨を降らせながらそういうと、彼は恐ろしくゆっくりと身体を反転させ背中を向け、

「痒い」といった。広く分厚い背中には無数の赤い斑点が広がっている。内臓からきている症状であろうとは素人目にも明らかで、爪で掻いても治まらないだろうと思いながらも、優しく爪を立てて両手を上下させた。

「表面じゃなくて、中が痒いんでしょう? 細胞が痒い、みたいに」彼は目をつぶったまま眉間に皺を寄せてゆっくりと頷く。

「お酒、飲みすぎよ」付き合いが多いことはわかっているし、酒に飲まれないこともわかっているが、それでもと苦言を呈すると、

「そうだよな」と案外素直な返事が返ってきた。

「どうすれば治るかな」

「そうね……サプリメント持ってきてあげてもいいけど、飲まないでしょう」

「飲む」

「一日二日じゃだめだよ。ああいうのは毎日飲まないと」

「そうなの? ちゃんと飲むよ」半分夢の中といった様子で答える。

「そうよ、ほらもう起きて」

「うん、起きる」たわいない会話を繰り返しながら、その間に二回目覚ましを止め、どこかの飲み屋の女の子からもモーニングコールが入るが、電話に出ようともしないし一向に起き上がろうとする気配がない。

 三度目の目覚ましを今度は元から止めて、私は彼の身体を全身を使ってひっくり返した。そして数時間前に私の中で果てたそれを口に含み、ゆっくりと頭を上下させた。大きくなっていく彼に甘噛みを繰り返す。

「わかった、起きるよ」そういいながらも目を開けようとはしない。今度は飲み込むほどに激しく彼を吸い込んでは離すを繰り返した。それでも寝言のようなうわ言を呟く彼を見て、私は身体を離した。

「だめだよ」私がしようとしたことに気がついたのか、彼はぱっと目を開けた。私の身体が作る影が彼の胸に落ちている。

「いいじゃない、ちょっとだけ」甘い声でささやいて、私は腰を沈めた。ほとんど濡れていないそこで根元まで彼を包み込む。円滑油のない抵抗の快感に彼は小さく声を上げた。

「濡れてない」私はゆっくりと身体を上下させながらそう呟いた彼に顔を近づけた。

「すぐだよ。俺専用、だから」眩しさに目を細め、私の動きに合わせながら眉間を狭める。

「仕事いけなくなる」すぐに抵抗が少なくなり、円滑油を彼の鬣にまで滴らせて私は動きを速めた。

「いいじゃない。もう起きる時間から三十分も過ぎちゃったし。仕事サボってセックスしてようよ」私の言葉を本気にとったのか、

「わかった、本当に起きるから、俺の上から降りて」と私の腰を両手で掴み、動きを止めて目をしっかり開けた。私は身体から彼が抜け落ちる感覚を楽しみながら彼から離れた。

 慌しく用意をする過程で、洗面台にあった二本の歯ブラシを見とめた。二本とも真新しいが、最近引っ越した彼の部屋は何もかもが新しい。時間がないこともあり、言及せずに部屋を出て、彼は車で仕事へ、私は中々こないバスを待って家路についた。いつものバス停で下りて、いつもの川縁を歩く。

 ベンチでの休憩を終えて、コーヒーの缶の中に吸殻をいれ、それを手に持ってまたぷらぷらと歩き出した。ブランド物のバッグも彼からの移り香と混じる甘い香水の匂いも、せせらぐ水音と若葉の緑にはそぐわない。それよりもそぐわないのは、なんとなくぱっとしない気持ちだった。昨日会うまでは愛のある深いセックスをして、彼のすべてを受け止めた幸せを感じている帰り道を想像していたのに。遊歩道が切れ、一般道につながる手前で彼からメールが入った。

「送っていけなくてごめんな。もう家に着いたか?」急に立ち止まった身体にはじんわりと汗が浮かぶ。

「あと五分くらい。仕事、間に合った?」

「ぴったり」私は少し考えて、こう送信した。

「そういえば、洗面台に歯ブラシが二本あったけど」すぐに返信があった。

「一本はおまえ用だよ」

 もとよりこれっぽっちも浮気なんて疑ってもいないのに、鈍い痛みが胃の辺りに走る。わかっている。彼は優しい。不器用で言葉も少ないけれど、私を傷つけるものを許さないことはあっても絶対に私を傷つけるようなことはしない。

 私専用の枕や私専用の歯ブラシを用意しておいてくれるほど細やかな人だ。老若を越えて女性には親切なところも友達を大切にするところも綺麗好きなところも素晴らしいと思う。どんなに寝ていなくても、どんなに休みがなくても文句をいいながらでも必ず仕事に行く姿勢も尊敬している。

 なのに何故だろう。明らかに昨日までとは違うせつなさが、胸の奥に広がる。本当はしっくりとくる言葉が何かを知っているけれど、その原因が何なのかもわからないし、今はまだそれを認めたくない。

「ありがとう。今度から使うね」

 心とは裏腹に笑顔の絵文字を入れたメールが送信される画面を見つめた。

「私は彼のことが大好きだ」いいきかせるように呟いたとき、メールを乗せた風がぶわりと急に強く吹いて、首筋と掌を濡らす汗から熱を奪っていった。

 男女の考え方や盛り上がり方の違いをテーマに以前書いていたものを書き直しました。

 往々にして男性のほうがピュアな感覚を持っているのではないかという、女性である作者の偏見を押し通しました。

 直接的な声や身体の部位の名前を使わずにどこまで性描写をできるかにも挑戦してみた作品です。

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