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彼の体温

この小説は完全なフィクションです。

 バス停へ向かう彼女の後姿をバックミラーの中に見送って、かかってきた電話に出た。

「おはよう。ちゃんと起きられた?」三年ほど付き合いのある飲み屋の女の子だ。

「もう出発してるよ。今日はカノジョが起こしてくれるから、電話要らないよっていわなかったっけ?」

「きいたよ」くすくすと笑う声がする。「でもカノジョなんていないでしょ」

「優しく起こしてもらったよ」全く信じていない声の主と二言三言話して電話を切り、ボスの家へ車を走らせる。初夏に近い日の光が、対向車線のボンネットを時折光らせている。

「優しく、か」そう呟くつもりの言葉が欠伸で間延びした。

(まだ太陽は黄色く見えないな)そんなことを考えると腰のあたりが疼いて苦笑した。

 けたたましく鳴り響くアラームの音たちを遠くに聞いていた。彼女がゆっくりと身体をもたげてそれをひとつひとつ止めていく気配がする。

「早目に起きようと思ってたのに」かすれた独り言が遠く聞こえる。

「おはよう」今度は耳のすぐそばで彼女の声がする。「時間だよ、起きて」耳たぶを甘噛みし、そのまま頬、顎、唇と彼女の柔らかい唇が触れては離れる。俺がうつぶせに寝返りをうち、

「痒い」と呟くと、彼女は長い爪で背中を掻き始めた。

「表面じゃなくて、中が痒いんでしょう? 細胞が痒い、みたいに」

 俺は頷きながら、上手いこというものだなと思った。中学をまともに出ていない俺がいうのは何だが、そもそも彼女は賢い。鞄の中には卒倒してしまいそうな小さな文字で腕が痛くなりそうな分厚い本が入っていたりするし、青い目の外人に道を聞かれて流暢に――俺にはそう思える――英語で答えていたりもした。それでいて、

「担当のデコから連絡あって、今回は証拠不十分だから柄取にはならないって」という稼業言葉にも返事をする。初めは本当にわかっているのかと思っていたが、いつだったか、

「そんな安目を売ったりしないよ」といったときに、

「安目を売るってどういう意味?」と聞かれて俺は困った。俺からすれば普通に使っている言葉で、稼業用語だとすら知らなかった。満足な説明を得られずに不満げだった彼女は、次に会ったときにいった。

「わかったよ」

「何が?」

「安目を売るの意味。元々は競馬用語らしくて、煽ったり他馬に寄られたりしてスタートを失敗して負けちゃったときなんかに使うんだって。そこから後手を踏むとかどじを踏むとかそんなような意味で使われてるみたいだよ。そういうことでしょう?」にこにこして満足そうな顔をしていた。たまに考え事をしているのかぼんやりしているのか、話自体を聞いていないことはあるが、意味のわからない言葉をそのままにして適当に返事をするようなタイプではないことは理解した。

 俺にはない、追究する姿勢や勤勉さを持ちながらどうして俺なんかと付き合っているのだろうかと不思議に思った。俺の持っている金や組織が目当てなのだろうかと疑ったりもした。しかし彼女は俺を店に呼ぶこともしないし、俺の所属している事務所がどこなのかを聞くこともしなかった。そのうちそういった疑念は消え去ったがあらたな不安が俺を支配していった。

 背中のマッサージを続けながら、

「お酒控えるだけじゃなくてなるべくお野菜なんかも食べてね」穏やかなその声は責め立てるような色を感じさせない。

「湯沸しポットがあるからってカップ麺ばっかり食べてちゃだめよ」彼女の言葉に素直に頷く。

「そろそろ起きて」起き上がろうと思ってはいるのだが、寝不足と酒で弱った身体は倦怠感から逃れられない。埒があかないと踏んだ彼女は半分以下しかない全体重をかけて俺を仰向けにひっくり返すと、下腹部に顔を埋めた。柔らかな舌と段々とした形状の上あごに包まれたそこに血液が集まるのを感じる。倦怠感の半分を占める昨日の行為がぼんやりと浮かぶ。それは俺を支配し始めていた不安を拭い去るものでもあった。

 元々嫉妬心や束縛願望は強いほうだった。彼女の優しい心根を信じられるようになればなるほど、不安は大きくなっていった。たくさんのことに興味を持ち、なんでも知りたがる彼女の好奇心を満足させる男がどこからかやってきて、そのすべてを俺から奪っていくのではないか。心変わりは止められない。ならばそのきっかけを与えないようにすればいい。それでなくともホステスとして働く彼女に誘惑の手は多い。仕事中にまでは口を挟むことはできないが、俺は彼女がそれ以外にどこかに行くことを嫌がった。それでも彼女にも付き合いはある。たいていはお世話になっている店に出向くといったような場合でも、そこで他の客に見初められないとも限らない。俺と彼女の出会いもそんなようなものだったのだ。不安が募る。

 そんなときに少しでも連絡が取れないと俺は怒りを爆発させた。頭に血が上ると何も聞こえなくなる俺の性格を見越した彼女は時間を置いて、

「不安にさせてごめんね」と謝った。冷静に考えてみれば、彼女の生活を支えているわけでもなく、我侭をいっているのは俺のほうだ。彼女は俺を一言も責めず、詫びも求めず何もなかったように受け流していた。その優しさが不安をさらに膨らませていた。自分の都合にも関わらず、仕事や付き合いで四日も会えないと周囲にもわかるくらい俺は不機嫌になっていた。

 そしてまた会えないまま四日が過ぎ、昨日のメールには、

「お仕事忙しそうね。ちゃんと寝てね」優しい言葉の後に、

「今月も残念ながら子供はできない時期は逃しちゃいそうだけど」という魅力的なフレーズが続いていた。男なら誰しもだろうが、不安ではちきれそうになっていた俺は付き合いを一つ飛ばして彼女を迎えにいった。いつものように装って、いつものように俺の部屋にさらい、いつものように裸でベッドに入った。

 キスをしていたはずなのに、気がついたときには一時間半がたっていた。薄っすらと口を開けて彼女が寝息を立てている。男友達にさえ疎ましがられる俺の鼾を聞きながら、がっちりと抱き枕よろしく抱えられてよく眠れるなと自分の事ながら感心する。伏せられた長い睫や呼吸に合わせて上下する肋骨なんかをしばらく観察していたが起きる気配はなく、俺は我慢できなくなり上下の歯の隙間に舌を差し込んでこじ開けた。彼女は目を覚まし時計を見上げると、

「まだ起きるには早いよ」とかすれた声で呟いた。

「いいんだよ」俺は何度も彼女にキスをして、吐息が熱くなるのを確認してから太ももの間に腰を沈めた。甘く短い呻きをあげる彼女を抱きかかえる。思っていた通り、迎え入れた狭い場所はすでに濡れ始めていた。

 付き合いはじめのうちはそうでもなかった気がする。身体を重ねるたびに彼女はすぐに達するようになった。太ももを硬直させて狭い場所をさらに締め付け、泣き出しそうな顔をする彼女がたまらなく可愛くて、俺は何度も我慢してはその啼き声を聞いていた。薄っすらと涙が浮かぶくらい可愛がってから、彼女の内ももに背中側から手を回す。シーツにまで零れ落ちそうなほど濡れているそれを指に絡めながら、

「俺専用みたいだな」というと彼女は目を細めて、息をつなぎ合わせて、

「私の中でいって」と呟いた。

 俺は彼女の身体を抱きかかえるようにして後頭部に手を回し、唇を重ねた。何の声も出せないように、身体が逃げないようにそうしておいて深く深く腰を沈めた。何もいえないまま、彼女は何度も身体を震わせたが容赦せずにそのまま彼女の中をなぞり続けた。いつもよりその場所が狭いのは、彼女のせいだけではないことはわかっていた。

 そのときが近付き、俺が唇を離すと彼女は声になるかならないかの吐息で、

「もうだめ」といった。俺は彼女が壊れてしまいそうなほどに身体をうちつけ一番奥深くで達した。跳ね上がろうとする俺を、いつもとは比べ物にならないくらいの圧力で彼女は締め付けた。

 俺が軽くシャワーを浴びて戻ってくると、彼女はもう布団に包まっていた。

「シャワー使うか?」目を閉じたまま首を横に振る。俺はまた彼女の身体を抱きかかえ、眠りに向かった。そういえば、彼女が一番感じるのは俺に抱きかかえられている体勢のときだと気付く。何の見返りも求めず俺のすべてを受け止めた無防備でか細い彼女の身体が俺の腕の中にある。感じていた不安などどこかに消えてしまったかのように幸せな気分で眠りに落ちた。

 俺を起こそうと甘噛みを繰り返す彼女に、

「わかった、起きるよ」と答えてみるものの身体が動かない。どうしようもない疲労が半分、甘い疲労が半分、目蓋の上にのしかかっている。彼女の喉の奥に俺の先端が届くほど激しく吸い込まれてもその重みを振り払うことはできない。

 だがしばらくして彼女が身体を離したとき、嘘のように目が開いた。天井を指した先端に彼女が腰を沈めようとしていた。

「だめだよ」逆光の中の彼女が艶やかに微笑み、のがれられない誘惑の声でいった。

「いいじゃない、ちょっとだけ」彼女の唾液だけしか手助けのない粘膜をこじ開けていく感覚に声が漏れた。

「濡れてない」彼女はゆっくり身体を上下させながら唇を重ねて、

「すぐだよ。俺専用、だから」その言葉に反応したかのように、彼女はすぐに俺を濡らし始めた。昨日の記憶が完全に蘇ったら、中途半端では我慢できなくなる。

「仕事いけなくなる」彼女は徐々に動きを速めながら、悪魔のように甘く囁いた。

「いいじゃない。仕事サボってセックスしてようよ」理性と本能の狭間を行ったり来たりしたが、寸でのところで何とか踏みとどまった。

 ボスの迎えにはきっちり間に合った。ボスは俺の顔を見ると、

「顔色がいいな」と呟いた。ボスを取引先に送り出てくるのを待つ間に彼女にメールを送った。

「送っていけなくてごめんな。もう家に着いたか?」

「あと五分くらい。仕事、間にあった?」

天気のいい散歩道を歩いている彼女の長閑な姿を思い浮かべ、思わず微笑みながら、

「ぴったり」と返した。少し間があって、

「そういえば、洗面台に歯ブラシが二本あったけど」というメールが届いた。忘れていた。妙な誤解をされては困る。

「一本はおまえ用だよ」急いでそう返信した。

「ありがとう。今度から使うね」

 彼女の中にはまだ幾許かの俺の分身がとどまっているのだろうか。いつでも俺の腕の中で眠り、毎朝起こして欲しいと思っていることをそろそろ口に出してもいいのだろうか。どんなふうにいえばいいだろう。彼女からの返信メールの語尾に踊る笑顔の絵文字を見つめながら俺はぼんやりと、だがせつないほど甘い感覚を肺の裏側辺りに感じながら考えていた。

 日が当たり始めた車内は見る見るうちに温度をあげ、俺はエンジンをかけてエアコンを稼動させた。

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