欠片(5)
うねる大海原の向こうには、水平線が見えている。もう少し揺れを感じるものだとばかり思っていたが、足元は至って平穏なものだ。乗り物酔いはしたことがないので、特に心配はしていなかった。とはいえ、僅かばかりの物足りなさも覚えていた。
照り付けてくる陽射しは、やや強めだ。上部中央甲板にあるプールでひと泳ぎ、というのも良いかもしれない。展望ラウンジで冷たい飲み物、というのも捨てがたいプランだ。お楽しみは、まだまだいくらでも残されている。とりあえず今は、ユミコはテルアキと一緒に青い海を眺めていたかった。
「――はい、判りました。ミヨコさんに……よろしくお伝え下さい」
ようやくテルアキが通話を終えて、ユミコの方に視線を戻してきた。折角日本を離れて、こんな遠い異国の海の上にまで遊びに来ているのに。よもや、その名前を耳にするとは思わなかった。不機嫌を隠そうともしないユミコの肩に、テルアキの掌が乗せられた。
「チカちゃんの手術、無事に決まりそうです」
「そうですか。良かったですね」
人の縁というのは、どこでどう繋がるか判らない。チカの足を治す方法を探しているうちに、テルアキは一人の優秀な外科医に行き当たった。その医師を通してなら、海外のより先進的な治療を受ける緒になるかもしれない。そう思ってコンタクトを取った相手が――
「ミヨコさんの旦那さんって、お医者さんだったんですね」
「はい。医学会にもコネクションを持っておいでのようで、今回は色々と手を貸していただきました」
連絡がついたところで相手のことを知って、お互いに驚いた。奇妙なこともあるものだ。私情は脇に置いて、テルアキはチカの足についてミヨコの夫――ミツヒロに相談した。
チカの足は極めて珍しい症例であり、治療の実績があまりない。何もしなければこのまま私生活に支障はないかもしれないが、悪化すればたちどころに歩行が困難になる。それがいつになるのかは、誰にも判らない。
リスクを取って自由を得るべきか、あるいはその時が訪れるまで今の状態を甘受するべきか。チカ本人は、手遅れになる前の治療を望んでいる。テルアキの話を一通り聞き終えると、ミツヒロは静かにうなずいた。
「テルアキさん、僕はあなたに、借りがある」
「貸し」の間違いではないのか。テルアキはそう思ったが、ミツヒロは笑っているだけだった。すぐにミツヒロによって関係各所に対して連絡がおこなわれ、ヨーロッパのとある病院で先進治療の一つを試せる流れとなった。
金銭的な問題は、テルアキが匿名の寄付で何とでも出来る。しかしそれ以外にも、越えなければならないハードルは幾つも存在した。年が明けてからテルアキは精力的に動き回り、ユミコも海外との交渉を率先して手伝った。
今こうして地中海の只中に浮かぶ船の上にいるのは、実は単純な遊びのためだけではなかった。チカの身に何かがあった場合には、誰よりも早く駆けつけられるようにという配慮の意味もある。この船にはチカの手術が完了して、安定するまでの期間を見込んで予約を入れてあった。ヘリも一台チャーターしてあって、緊急時の対応については万全を期していた。
「トウヤくんも心配でしょうね」
「毎日『翡翠の羽』にきているそうです。ケンキチも、フミカさんもみんな応援している」
いくらテルアキがスポンサーになったとしても、全員がヨーロッパまでぞろぞろとやってくる訳にはいかなかった。テルアキはチカとチカの両親の分の旅費と滞在費は、全額捻出した。後は自分たちの分だ。ユミコとの約束の、海外旅行。それがまさかこんな形になるとは、夢にも思っていなかった。
「慌しいというか、ついでみたいで申し訳ないです」
「えー、全然アリですよ」
豪華客船の旅をリクエストしたのは、ユミコだった。ヨーロッパのあちこちを転々と旅するのは、それはそれで楽しそうだが疲れてしまう。それにチカに何かあった場合、いる場所によっては移動に不都合があるかもしれない。
だったらもっとお手軽に、高級感と異国感を味わえるやり方が良い。タイタニック……では沈んでしまって拙いことになる。クイーンエリザベスまではいかなくても、優雅な客船の旅はユミコの憧れの一つだった。
「チカちゃんの足が治ったら、みんなでまた来ましょうね」
テルアキがチカの足を何とかしたいと言い出した時は、ユミコもケンキチを目を丸くした。一体全体、どういう風の吹き回しなのか。テルアキは大真面目な顔で「自分のお金を使って、周りにいる全員の幸せを考えたい」と口にした。
ケンキチは感極まって涙を流していた。ユミコはそこまではいかなかったが、いつにも増してテルアキのことを愛情いっぱいに抱き締めた。テルアキの心は、少しずつ外の世界に向かい始めている。その事実が、何よりも嬉しかった。
「そんなことをしても、あたしはオーナーの愛人にはならないよ」
生意気な口をききながらも、チカはテルアキに感謝している様子だった。もう一度、走れるようになるかもしれない。バスケットを続けられる可能性がある。チカの瞳に光が戻ったことを、トウヤも歓迎していた。周りから沢山の応援を受けて、チカは日本を発った。次に戻る時には、厳しいリハビリが待っている。でもその先にあるのは――輝かしい未来だ。
「そろそろ映画が始まる時間ですよ」
船の中には映画館もある。当然日本人向けではないので、吹替も字幕もない。あの良く判らない「愛してる」にはお目にかかれないのだ。ユミコはその日上映される映画を、とても楽しみにしていた。
日本で公開されるのは、まだ少し先の作品だ。テルアキとの最初の思い出。それがその後、どうなってしまうのか。
まるで未来を垣間見るような気持ちで、ユミコはテルアキと並んでスクリーンに見入った。
「アリサ、魔素生成装置接続完了!」
「うん、感じるよ。アルから、魔素が流れ込んでくる!」
魔素の力を失った母星の上で、人類は生き延びていた。
人の持つ生命エネルギーを魔素に変換する機械『魔素生成装置』の発明により、魔女たちは再び大空へと飛び立つ力を手に入れた。
「殺しちまえよ、そいつは星砕きなんだぞ!」
「星砕きだろうがなんだろうが、この星で生きていることに変わりはない!」
母星に墜落し、人々に迫害されている星砕きの生き残りたち。魔素を持たない彼女たちの存在は、滅びゆく星の民にとってはやり場のない怒りの捌け口に過ぎなかった。
「我々を失望させるな、流刑惑星の罪人たちよ」
「俺たちが、何の罪を犯したっていうんだ」
『魔素生成装置』の技術を盗んだ一人の星砕きが、彼女たちの本隊が眠る月ボダラクへと向かう。母星の魔女たちの側にはまだ、それを迎え撃つだけの準備は整っていなかった。
「ロケット発射台?」
「ヤポニアの種子ヶ島宇宙センターに一基だけ残ってる。サクラヅカさんの情報だ、間違いない」
ボダラクに先回りし、何としても星砕きが力を取り戻すことを阻止しなければならない。それには魔女の力と、人類の力を合わせる必要があった。
「これ以上罪を重ねてどうする、罪人ども!」
「ふざけるな! この星を……この星に生きる者たちの願いを、あたしたちは諦めたりなんかしない!」
星砕きの残党の激しい抵抗に遭いながらも、母星に生きる全ての者の希望を載せて――蘇った人類の英知が宇宙へと旅立つ。
「この子、軌道があらかじめプログラムされているみたい」
「アリサ、見て!」
星の海で二人が見たのは――魔女たちの起こした奇跡の輝きだった。
「ワルプルギス! まだ機能している!」
アルとアリサの願いは、母星を救えるのか?
「Don't be true」
――『スタークルセイダー』映画パンフレットより
ディナーで飲んだワインで、身体が火照っている。夜風が冷たくて心地よい。ユミコは一つ息を吐くと、真っ暗な水面に目線を落とした。
映画は予想通り、トンデモ展開の続編だった。絶望的だった前作のラストはどこへやら、登場人物たちはみんな元気いっぱいに飛び回っていた。アクション色が一層強くなって、テーマらしいものはラストにちょっと匂わされるだけだった。
そして極めつけは、「Don't be true」という例の台詞だ。前作ではそれなりに深い意味を感じさせる一言だったのに、今回は急に安っぽく成り下がってしまった。監督が交代しているのも、大きく影響しているのだろう。がっかり、まではいかないが予想の遥か斜め上のB級作品ではあった。
「内容的にはイマイチでしたが、売れるんじゃないですかね?」
テルアキはそう評価した。思い出の映画が変質してしまったのはやや残念だが、これで前作も注目されてくれるのなら上出来だ。ユミコもそう考えて納得しておくことにした。頼むから、第三弾は作らないでほしい。次はきっと正体不明のエイリアンとかが出てきて、この上なく台無しにしてくれるだろう。
「テルアキさん」
プライベートバルコニーで、ユミコはテルアキに寄りかかった。テルアキは優しく抱きとめてくれる。自然に唇が触れ合った。波の音が騒がしい。空には尖った三日月が浮かんで、二人の影を長く照らし出していた。
「約束、果たしてくれてありがとうございます」
「ユミコさんのためなら、お安い御用ですよ」
愛人になったら、大学の長期休暇の度に海外旅行に連れていく。これが春休みの分だ。チカの手術が終わって、その経過が判るまでだから、春休みいっぱいは海の上にいることになる。こんな贅沢、普通の女子大生ではまず味わうことは出来そうにない。
「テルアキさんの愛人になって良かった、って思います」
「嬉しいですけど、俺はユミコさんに愛人でいて欲しくないんです」
別に今のままでも、ユミコは全然構わない気がしていた。確かに金銭的な部分をテルアキに依存しているという点については、やや気後れするところはある。九月に愛人になってから、ユミコは翻訳のバイトを少し増やしていた。食費くらいは自分で稼いでやろうという魂胆だ。それはあっさりとテルアキに見抜かれて、全額ユミコの小遣いになっている始末だった。
「じゃあ生活費ぐらいは入れさせてくださいよ」
「ダメです。ユミコさんのお父さんとも約束しました。ユミコさんの面倒は、俺が責任を持って見るんですから」
だったら、愛人じゃないか。大学にいる後二年は、ユミコはテルアキのものとしてマンションの部屋で飼われている。いっぱい愛してもらって、いっぱい可愛がってもらって。驚くほど大事にされて、自由まで与えてもらって。こんなに沢山の幸せに囲まれて、まるで夢のような生活だった。
「愛人の後は、家族になるんですよね?」
「そうですよ。なってもらいます。なってくれなければ、俺が困ります」
それももう、織り込み済みだった。愛人で、恋人で。大学を卒業したら、夫婦になる。貼られているラベルが変わるだけで、やることには何の変化もないのに。不思議だった。
「愛人」なんて言葉に、意味なんてないのかもしれなかった。ここにいるのは、ユミコとテルアキ。一般的なカップルと比べると、やや年齢差が大きいというだけだ。女子大生と、デイトレーダーの中年。属性に目を向けると、実にいかがわしさが増してくる。
でも、愛し合っている男女だ。お互いの現在と過去を知って、より深く求め合うようになった。心も、身体も繋がった。そうすることを、自然であるとして受け入れた。生涯の伴侶として、認め合うまでに至るのも時間の問題だ。
「テルアキさん」
「ユミコさん」
見つめ合って、微笑む。瞳に映っている姿を見れば、いやが上にもお互いの立場が思い出される。世間はきっと、二人のことを不埒な仲であると噂するだろう。腕を組んで街中を歩けば、好奇の視線に晒される。後ろめたい関係であると噂される。
でも。
いや、だから。
ユミコとテルアキは、お互いを愛する人として認識している。二人だけの世界、二人だけの場所。そして――
「Don't be true」
二人だけの真実に、その身を委ねて。
第XII章 欠片 -了-
「愛人契約はじめました」はこれにて完結となります。
ご愛読、ありがとうございました!




