やくそくのとき(4)
予感がなかった――と言えば嘘になる。チケットブースでお互いの姿を認めて、二人は言葉を失った。この場所、この時間。やっぱり、覚えていたんだ。無言で、何一つ示し合わせることなく隣り合った席を指定する。他には観客は誰もいない。スクリーンは二人きりの、貸切状態だった。
ポップコーンとコーラを買って、シートに着席した。携帯電話の電源をお切りください。照明が落ちて、妙に軽快なカメラ男のダンス映像が流れ始めた。頭から噴き出たポップコーンが、無造作に周りに撒き散らされているのが気になる。それと、その後のシーン。あれは共食いにならないのだろうか。
近日公開の話題作の紹介が始まったところで、ユミコはテルアキの掌を握った。顔は正面を向いたままだ。テルアキは小さく体を震わせてから、そっと指を絡ませてきた。良かった。ユミコの目に、じわり、と涙が浮かんだ。
上映中の私語は慎んでください。
言葉なんて必要なかった。ユミコはそっとテルアキの肩にもたれかかった。懐かしい、テルアキの匂いがする。テルアキも体重を預けてきた。スクリーンでは感動の再会を果たした主人公とその恋人が、熱い抱擁を交わしていた。許されるのなら、ユミコもテルアキの胸に飛び込んでいってしまいたかった。
遠い宇宙の、広大な星の海。ここではない場所、ここではない世界。そこを旅する、自由な無法者たち。ユミコがそこにいたのなら、テルアキに手を引かれてどこまでも連れていってもらいたかった。
怖いものなんて、何もない。だって、テルアキがいてくれる。ユミコのことを、誰よりも愛して、誰よりも大切にしてくれる。それが判っているから、信じているから。
ユミコは、このままテルアキの中に溶け込んでしまいたかった。
「テルアキさん……」
映画の世界では、恋はあまり良い結末を迎えたとはいえなかった。またどこかで、違う形で出会えることもあるのだろうか。それを仄かに予感させるだけで、エンドロールを迎えてしまった。最近の映画は、すぐに続編っぽい引きを作って逃げてしまう。せめてあの二人の関係には、悲恋でも良いからちゃんとした最後を与えてあげてほしかった。
「私、貴方の愛人になりましたよ?」
灯りが点いて、すぐに客席の清掃が始まる。最終上映回だったので、追い出しも早いだろう。だから本当に限られた僅かな時間の間に、きちんと済ませておかなければならなかった。
「ユミコさん――馬鹿なことをしましたね」
それは確かに、そう思った。ユミコは自分でも、何がしたくてそんなことをしているのかさっぱりだった。
ただテルアキのことが好きならば、『愛人』になんて拘る必要はなかった。「関わるな」なんて言われたところで、守るつもりなんてユミコの方には端からなかったのだ。新しい部屋に移り住んで、今度はテルアキの実家の方にぐいぐいと押しかけてやっても全然構わなかった。
でもそれでは、足りなかった。ユミコは三月からずっと、テルアキの愛人になるつもりでの毎日を送ってきた。今更普通の、『恋人』になれと言われても困ってしまう。ユミコが好きなテルアキは、ユミコの飼い主、ご主人様だった。
お金でユミコを買って、マンションの部屋に住まわせて。その癖、ちっとも手を出してこようとはしないで。真面目で。優しくて。家族の愛に飢えていて。不思議と、ユミコに安らぎを与えてくれる。
「いいんです。私、そうなりたかった」
ふるふると首を振ったところで、テルアキの顔が近付いてきた。求められたなら、応えなければいけない。ユミコは目を閉じて、テルアキの口付けを受け入れた。コーラの味がする。あと、ちょっとカサカサ。リップクリームで保湿した方が良いな。白髪染めよりは、すんなりと提案を聞き入れてくれると良いけど。
「もう、俺に何を求められても逆らえないんですよ?」
「はい。テルアキさんの好きにしてください。ああでも、海外旅行の約束は、忘れないでくださいね」
そこは大事なところだった。テルアキはユミコに、ある程度の自由は与えてくれると言ってくれていた。「もちろん」とテルアキは請け負ってくれた。それから、ユミコの髪を撫でる。震える程に心地よくて、ユミコは思わず嘆息を漏らした。ああ、ついにその時がきてしまった。
「じゃあとりあえずは、夕食をご一緒願えますか?」
じろじろと、映画館のスタッフたちが無遠慮な視線を寄越してきていた。そろそろここに居続けるのは限界か。二人はそそくさと席を立つと、出口の方に向かった。夜の街が、眩い光と共に待ち構えている。
二人の手は、しっかりと繋がれたままだった。
映画館の外に出ると、ユミコはテルアキの腕を強く抱いた。ずっとそうしたかった。花火の時に中断されてからだから、一ヶ月近くか。テルアキの言いたいことは判らないでもなかったが、もう手遅れだ。『好き』に蓋なんてしておけない。ましてや、ユミコには土台無理な話だった。
「ユミコさん、ごめんなさい。俺はユミコさんに、こんなことをさせるようになってしまった」
テルアキだって、こういった関係を望んでいなかった訳ではなかった。美しくて魅力的な若い女性とこうして街中を歩く行為は、男性としての憧れだ。ただしそれは「そうなればいいな」という程度の、幼稚で邪な妄想にすぎなかった。
現実にユミコが並んで歩いてくれるようになって、テルアキはそのことを強く思い知った。ユミコを大事に想えば想う程、それがあってはならないのだと理解した。自分の愛する人が他人の好奇の対象とされる事実に、我慢ならなかった。
ユミコは、『愛人』なんかであってはならない。テルアキのような悪い大人に誑かされて、人生を踏み外してしまったらおしまいだ。
契約は、なかったことにするべきだった。テルアキがユミコを真剣に好きでいるのなら、尚更だ。ユミコにはユミコに相応しい生き方というものがある。今からでも、テルアキはユミコに新しい生活スタイルを提案していくつもりだった。
尤も、それはユミコのグーパンチ一つで粉砕されてしまったのだが。
「謝らないでください。私は、自分の意志でこうなることを望んだんですから」
テルアキのマンションを初めて訪れた日に、ユミコはそこで暮らす自分をイメージしてみた。それは何故か違和感なく鮮明で、非常に具体的に思い浮かべることが可能だった。テルアキという男が、妙に緊張してしゃちほこばっていたからだろうか。それとも微かに香っていたコーヒーの匂いのせいか。いずれにしても、ユミコはすんなりと愛人候補生としての契約を受け入れられた。
住んでみれば、不自由なことは何一つなかった。テルアキとの半同棲生活は、むしろ居心地良かった。お互いに強く干渉し合わず、穏やかで静かな時間を過ごしていられる。打ち解けてくると、性格的にも合っていると感じられるようになった。
紳士で、それでいてちょっと子供で。可愛らしくて、頼りがいがあって。父親に甘えているみたいな時もあれば、小さな男の子をあやすように思える時もある。毎日が不思議で、新鮮で。テルアキのことを一つ知るたびに、ユミコは更にテルアキの全てを理解したくなった。
気が付けば、テルアキは誰よりもユミコに近い存在になっていた。隣りにいて、ユミコの存在を必要としてくれる。苦しみに満ちた過去を知って、ユミコはもう絶対にテルアキの手を離さないと誓った。そんなことを、負い目になんて感じる必要はない。ユミコはちゃんと、テルアキが好きだ。テルアキよりも先にいなくなったりなんてしない。
「テルアキさん、好きです。ずっとずっと、大事にしてくださいね」
テルアキは空いている方の手で、ユミコの身体を引き寄せた。乱暴に正面に持ってきて、唇を吸う。どうしてそんなことをしようとしたのかは判らない。ただ、どうしてもそうしたかった。ユミコを自分のものしておきたかった。
ユミコはしっかりと、されるがままになっていた。まばらな人通りの真ん中で、二人はしばらくそのままでいた。中年の男性と、若い女性の二人連れ。見るからに怪しくて、いかがわしい雰囲気の漂う二人だったが――何一つ構わなかった。
「大事にします。だから……いなくならないでください、ユミコさん」
みんな、消えてしまった。家族と呼べる人間は、父も、母も、弟も。テルアキは孤独だった。ケンキチは自分だけの世界を手に入れて、自らの足で立って生きていた。ミヨコはテルアキたちから離れて、見知らぬ世界へと去っていた。たった一人取り残されたテルアキは、何処を目指して進めば良いのかまるで判らなかった。
生きるだけなら、困らない。それは地獄と変わらなかった。いっそ何もかもをなくして、絶望して死んでいければ良かったのに。実際に、そう考えたことですらあった。あの海の近くにある街。テルアキは確かに、そこで一度は命を絶とうとした。
その時、偶々目に入ったきらめきが――今、テルアキの腕の中にある。テルアキのものになると、自らの口で告げてくれた。そうなるに至った過程を思い返せば、罪悪感で押し潰されそうになる。それでも、テルアキは自分の中にこみ上げてくる歓喜の感情を留めておくことが出来なかった。
「ユミコさん、夕食なんですが――今夜はマンションの部屋でも構いませんか?」
一分でも、一秒でも。ユミコと二人だけの時間が欲しい。テルアキはぎゅう、とユミコを力強く抱き締めた。この身体を、この女性を。すぐにでも自分という存在で染め上げてしまいたい。
こんなに激しい衝動が自分の中にあったのかと、テルアキは自分での驚いた。ユミコは確かに可愛らしい女性だが、そこまで性的な何かを感じさせる程ではない。ユミコ自身も、スタイルにはそんなに自信はないと嘆いていた。
そんなことは、一切関係がなかった。好きだから。愛しているから。この手に抱いて、自分のものにしておかなければ気が済まない。誰にも譲れないとまで思ってしまう。強い執着心がある。申し訳ないと自覚しながらも、テルアキはどうしてもユミコに触れた手を離せないでいた。
「良いですけど。ちゃんとご飯も食べてくださいよ。一生懸命作るんですから」
当然だ。ユミコの手料理を食べるのは、どれだけぶりだろうか。テルアキは上機嫌にユミコの手を取って歩き始めた。
少しだけ、いつものテルアキに戻った気がする。ユミコはやれやれ、と肩を落とした。テルアキにこんなに情熱的に求められたのは、初めてだった。やはり、テルアキはテルアキなりに色々と我慢をしていた、ということか。若い女性と寝泊まりをして、今日までよく平常心を保っていられたものだ。
通行人に対しては、ちょっとした見せ物にはなってしまっていた。恥ずかしかったが、テルアキの腕を抱いて嚆矢を放ったのはユミコの方が先だった。やりすぎ注意、だ。相手はまだまだお盛んな中年男性。色々と気をつけておかないと。
それにしても、今夜はこの後どうなってしまうのだろうか。まあ、いきつくところまで、なのか。明日は午前の講義がないので、朝早くに起きる必要はない。夕食はヨリの家から月緒家の野菜を送ってもらっているので、食材的には問題なし。下ごしらえが不要なもの中心で、なんとかするしかないか。
ただ、あまり準備に時間がかかるものとなると、このオオカミさんが辛抱たまらなくなってしまうかもしれなかった。ここまで期待をさせておいて、お預けは少々可哀想だ。ああでも、シャワーくらいは浴びておきたい。暦の上では九月とは言え、まだまだ汗ばむくらいの熱気が続いている。初めてくらいは、出来る限りキレイな身体で迎えてあげたかった。
……と、そんなことよりも何よりも。生理周期はどうだったか。テルアキの方で、準備はしておいてくれているだろうか。いやいや、万全にしてあっても微妙に引くけど。薬とか、そういうのは可能な限り遠慮しておきたかった。途中でドラッグストアに寄りたいと言ったら、変に勘ぐられてしまうか。夕食の材料の買い足し、とか。うん、その線なら自然かな。
「テルアキさん、ちょっと買い物に寄り道しても良いですか?」
「ああ、はい。判りました。気が付かなくてすいません」
――何に、何処まで気が付いたのやら。
ユミコはにっこりと笑うと、テルアキをぐいぐいと引っ張って最寄りのコンビニに向かって歩き始めた。さて、これからどうやってその方向に確認を持っていくべきか。それとも開き直って自分で買ってしまうべきか。いざことがここに至って、ユミコは中学の時に見かけて馬鹿にしていた自動販売機の存在をこの上なく羨ましく感じた。っていうか、サイズ! テルアキさんって、どうなんだ?
水面下で必死でもがく水鳥のように、ユミコは鉄壁の笑顔を崩さないままにあれこれと思考を巡らせ始めた。愛人というのは、大変だ。その片鱗に触れたところで、テルアキだけが妙に浮かれた調子で鼻歌を奏で始めていた。




