時間を味わう空気は貴重です
ピアニストが静かなクラシックを奏で、紳士がパイプを吹かしながら今日の市場についての話や国際情勢の話を交わす場所。久しぶりに喧騒の中ではなく、束の間とはいえ一人静かに過ごす時間というのは格別でした。
待ち人をのんびりと待つ構えで、ポートレコーズの中で最高級ランクのホテルである ポートファンディクレフのバーに入ってカウンターに腰掛けました。
スタンダードカクテルを何種類かたしなみ、オリーブを時折味わいつつ待ち人を待ちます。
既に夜の帳が下りていくばくかの時間が経っていました。バーやレストランで様々な意味をこめたグラスやゴブレットが打ち鳴らされているほどよい頃合でした。
「ごめん、待たせちゃったかな。エッくん」
「アイさん、すでに酔ってません?」
「あ、わかる?ごめんね、ここにくるまでに二組の会合出てきたからさ、しょうがないよね」
おどけて首を傾げる様子は自然体で、本気でやっていることがわかります。
それでも怒る気にならないのは彼女の人徳なのかもしれません。
ちらと入り口のほうを見ると、コートを手に持った男性と女性物の鞄を手に持った女性がこちらの視線に気づいて頭を垂れていました。
二人はおどけて見せた目の前の人物の護衛と家令を兼ねた方々です。
それなりに古い知り合いですが、この方はいろいろな意味で自分で財布を持てない人です。
「変わってないですね。アイ先輩」
「エッくんこそね」
ベリーショートの髪型にエキゾチックな色彩のイブニングドレスを纏った彼女は、くしゃっとした笑顔を見せてそういうと、バーテンダーにさっそく注文を入れました。彼女は同窓の先輩というやつで、アイオライト・ペーネングリムさんといいます。
「ダンディなおじさん! このお店で一番私が飲みたいカクテルください」
苦笑を浮かべながら、バーテンダーの方で何かを作り始めます。
ほどなくして、ことりと軽い音を立ててカウンター席に座って少し眠そうにしていたアイさんの前に置かれました。
「自由を楽しむ貴女には、ボヘミアン・ドリームを」
置かれてから数秒、多少とろんとした瞳でカクテルを眺めているところが面白かったので眺めていましたが、突然僕のほうへぐいっと差し出してきました。
一瞬とまどったものの、どこか納得して空になりかけのグラスを触れ合う程度にアイさんのグラスと交えました。
「乾杯。これのみやすいね」
彼女特有の駆けつけ一杯の儀式を済ませ、改めてカウンター席で隣り合う形になりましたが本日はオープンスペースで話す話題の持ち合わせがないので、フロアチーフを呼びます。
バールームの奥、常連向けの密談に適した照明を抑え目にしたシャンデリアのある個室へ案内していただきます。
部屋の一角に設けられたアクアリウムの中にはボトルシップがあり、反対側の窪んだスペースには様々な素材で出来たミニチュアの橋が置かれています。個人的には大人の遊び心満載で好きな部屋です。
深夜まで開いているため、少し落ち着いていた時期、毎回若手を数名誘って帰宅前に通っていました。頻度は大体一週間に一、二度くらいでしょうか。一時間一本勝負で美味な料理を飲み食いした部屋でもあります。
「それにしてもさ。珍しいよね、エッくんが私を呼び出すなんてさ」
「僕も驚きました。今日は結構待つことになるだろうなと予想していたのですが、時間通りに来ていただけるとは」
「そりゃあ、大事な後輩のためだもの」
エッくんにはごめんね、今日のアポの中では一番最後。でも、一番話がしたかったのも君だったから、一番最後。
妙なところで的確に心をうつ要領のよさは相変わらずですが、そう思ってもらえたことは後輩冥利につきますね。
ちなみにこのアイさん、スフラーフェンハーヘ法科大学院で助教授をしています。
元々は僕の大学時代の二年先輩の方でしたが、卒業後に同じく二年ほど即興劇と占いをしながら、諸国放浪して各地で食べ歩いてきた人です。
今日は彼女がこの周辺に出張で来る予定があると聞いていたので、一月ほど前に忙しさの合間を縫って、アポイントメントをとった上でのディナーでした。
「それで、改まって今日はどうしたの? うちの学生リクルートしたくなった」
しれっと以前考えておくという回答をした件を持ち出されましたので、学生のリクルートについては鋭意考えておくことにします。
「スターテン・ヘネラールの積荷が汚染されたとリークがありました」
「へぇ、誰からの情報」
先ほどまでのへべれけとは打って変わって、冷淡なそして低い声に変わりました。
本当に変わっていませんね。テンションの急転直下ぷりはかつて過ごした国際私法ゼミでの模擬裁判でも時折発揮されていましたが、その苛烈さは健在のようです。
ちなみに彼女の旦那さんも同窓かつ同じゼミナール所属でしたが、その彼は学生時代から賭博師として学生街には名をはせていましたが、今は近隣諸国にまで名を馳せるプロの賭博師になっているようです。
「アイヴィ・ウィリアムズ」
「ふーんあのおばあちゃん、まだ現役なんだ。おもしろいじゃん」
アイさんの目が細まりました。底冷えのする声もあいまってなかなかの迫力です。
スターテン・ヘネラールはスフラーフェンハーヘ法科大学が立地する場所の地名です。
「うちの学生が、汚染されているなんて酷い事を言うね。あのおばあちゃん、わたし苦手」
この場合の汚染は、スフラーフェンハーヘ法科大の出身所員が薬物かあるいは特定の思想に感化されたことを指しています。あるいはその人物によりウィリアムズ事務所が損害を被ったのかもしれません。
「あくまで、アイさんに伝えたのは僕の独断ですよ」
「エッくんはまだ分かってないね。君に言うってことはね、間接的にわたしに伝わることを確信してるんだよ、あのおばあちゃん。わたしあの人嫌い」
そう言ったきり、沈黙が場を支配します。アイさんはオーダーをしてくるといって、個室を出て行きました。しばらくして戻ってくると、新しいカクテルを片手に、もう片方はカルパッチョらしき皿を持っていて機嫌は元にもどっているようでした。
「で、まだなにかあるんでしょ?」
アイさんがテーブルにカルパッチョをサーブして、ドレスの裾をはらって腰掛けどこかわくわくしている表情で仕切りなおしてきました。
機嫌の反転ぶりに、久しぶりにあった僕への気遣いのようなものを感じ取れ、不器用っぷりに内心では苦笑しながら本題を切り出します。
「フィズ、フィスク・ジュビリー弁護士をトゥルッリに連れて行こうかと思います」
「おーそれってさらに珍しい相談だね」
佳き哉、佳き哉とご老人めいたことを呟き、少しだけ遠い目をしました。涙形の真珠のイアリングがちらちらと光を受けて耳に踊っている横顔は今まで感じた懐かしさを越えて、確かな年月が感じられました。
「まあでも」
彼女はそこで少し考えるように言葉を止めました。けれども、どこか困惑したような表情浮かべ。
「配慮してくれるのは嬉しいわ。けれど叔母様とエギュベルくんがどんな話をしても別に構わないのよ」
そういったきり、この話には触れようとはしませんでした。
「それよりもフィッチーかぁ。フィッチーは欲しかったんだよねぇ、うちの院に」
先ほどまでの陰影のある表情とは裏腹に、どこまでも無邪気な表情と声音で話題をフィズへ移してきました。フィズのことをフィッチーと呼ぶのはアイさんくらいですが、彼女の愛称のつけ方は変わっているので、特にそれについてツッコミをいれることはしません。
「彼女の推薦状はアイさんの名前も入っていましたっけ」
フィズがナポリ大の大学院で専攻していた法政理論研究科は実践で鳴らす研究科でして、私法、公法、基礎法に加えて政治学に関する多角的な視野を築き実地に基づいた論文を在学中に何本も仕上げるように教育されるそうです。
その流れで国際学会に出たり、スフラーフェンハーヘ首都大ともパートナーシップ協定を結んでいるので共同研究なども多々行われているようです。
アイさんはフィズが博士前期課程の最終年次にスフラーフェンハーヘで開催された国際学会でフィズのことを知って、スカウトに動いたそうですがフィズが社会経験を積むために就職を希望したことであえなく撃沈。
苦手とするアイヴィさんのウィリアムズ法律事務所に内定が決まり横から浚われたように感じられるわけです。
ちなみにフィズのその時の論文は「里山のコモンズ論」だそうで、生物多様性と伝統文化保持の観点、里山と列強各国の都市計画法や森林基本法などとの関係性、精霊種や幻想種といった種が絶滅を危惧されているという国際研究者団体の告発などをからめ、コモンズ(共有資源)を再考するというアプローチの論文だそうです。
独特だったけど面白かったしうちの大学にお持ち帰りしたかったよ。そう目を輝かせ、キラキラした声でアイさんはフィズの論文を評しました。
その後は近況報告や雑談で時間が過ぎていきました。
帰りはへべれけに酔っ払ったアイさんを彼女の家の御付の二人に確かに預けてバーを辞しました。
深々と頭を下げる二人に苦労しているのだろうなと内心思いつつ家路に着きます。




