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差し伸べられた手


第4話 差し伸べられた手


――コンコンッ!


「ひっ……!」


ノックの音に、ルナは飛び上がった。


「ルナ? 起きてる?」


聞き慣れた声だった。


「……お母さん?」


「そうよ。今、大きな音がしたけど、大丈夫?」


ルナは胸を押さえ、ようやく息を吐いた。


「う、うん! ちょっとベッドから落ちただけ!」


「えっ? 怪我してない?」


「大丈夫! なんともないから!」


「もう……気をつけなさいよ。夜更かしもほどほどにね」


「……うん」


母親の足音が遠ざかっていく。


ルナはベッドに倒れ込んだ。


「……びっくりしたぁ」


窓の外では、街灯がいつもどおり住宅街を照らしていた。


遠くを走る車の音。どこかの家から聞こえる笑い声。


紫色の世界で起きた出来事が、嘘のようだった。


「……本当に、戻ってきたんだ」


ショウの顔が頭に浮かんだ。


あの裂け目に一緒に飛び込んだ彼も、無事に帰れただろうか。


「……大丈夫、だよね」


もう一度、あの手を握って確かめられたら。


そんなことを考えて、ルナは小さく首を振った。


「……何考えてるんだろ、私」


ルナは布団をかぶり、目を閉じた。


    *


翌朝。


「ルナ! 遅刻するわよー!」


母親の声で目を覚ました。


「……えっ!?」


時計を見る。


「やばっ!」


慌てて制服に着替え、階段を駆け下りた。


「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」


「うん! それより、もうこんな時間!?」


「だから起こしたでしょ」


朝食を急いで口に運び、鞄をつかむ。


「行ってきまーす!」


「気をつけてね!」


玄関を飛び出すと、いつもの街が広がっていた。


通学中の生徒たち。走る車。青い空。


昨日の紫色の世界とは、まるで別の場所だった。


    *


「……間に合ったぁ」


教室に駆け込んだルナは、自分の席に座った。


授業が始まっても、昨夜の出来事が頭から離れない。


あのおばあさんと少女は、どうなったのだろう。


ショウは無事だろうか。


そもそも、あの世界は何だったのか。


「……ルナさん?」


「は、はいっ!」


名前を呼ばれ、勢いよく立ち上がる。


教室に小さな笑い声が広がった。


「今、どこを読んでいるか分かる?」


「えっ……あ、その……」


先生はため息をついた。


「ちゃんと授業を聞いてくださいね」


「……すみません」


ルナは赤くなった顔を隠すように座った。


    *


放課後。


帰り道を歩きながら、ルナはスマホを取り出した。


「……連絡先、聞いとけばよかったな」


ショウ。


知っているのは、それだけだった。


無事を確かめる方法もない。


「……まだ、お礼も言えてないし」


口に出してから、慌てて首を振る。


「いやいや! あんなところ、もう行きたくない!」


通りすがりの人が、不思議そうにルナを見た。


「……あ」


ルナは恥ずかしそうにうつむき、スマホをしまった。


帰宅後、自室に戻ると、ベッドに腰を下ろした。


机の上に置かれた小さなアナログ時計が目に入る。


「……そういえば、スマホ使えなかったんだよね」


もし、またあの世界に行くことがあったら。


ルナは時計を手に取り、枕元に置いた。


「……いや、もう行きたくないけど」


ベッドに横になり、天井を見つめた。


昨日の疲れが残っているのか、身体が重い。


「……今日の宿題、早めに終わらせないと。それから……」


まぶたがゆっくりと閉じていく。


窓から差し込んでいた夕日が、ルナの頬を照らしていた。



    *


――バタンッ!!


「……っ!?」


大きな音に、ルナは飛び起きた。


「……なに?」


玄関の扉が閉まるような音だった。


部屋は暗い。


「……お母さん?」


返事はない。


枕元のスマホを手に取る。


画面は真っ暗だった。


「……え?」


電源ボタンを押す。


反応しない。


ルナは窓へ目を向けた。


カーテンの隙間から、紫色の光が漏れている。


「……嘘でしょ」


カーテンを開ける。


街は再び、あの不気味な紫色に染まっていた。


「……また?」


昨日、確かに帰れたはずだった。


なのに、どうして。


――ガタンッ。


階下から物音がした。


ルナは肩を震わせた。


何かがいる。


昨日の黒い人影が、家に入ってきたのだろうか。


ルナはそっと部屋の扉を開けた。


廊下には誰もいない。


階段に近づくと、下から荒い息遣いが聞こえた。


手すりを握り、一段ずつ下りる。


階段の途中から玄関をのぞくと、見知らぬ男がいた。


三十代くらいだろうか。


男は玄関の扉に背中を押しつけ、肩で息をしている。


「……え?」


思わず声が漏れ、男が勢いよく顔を向ける。


「うわっ!?」


「きゃっ!」


二人は同時に声を上げた。


「な、なんだ……人か……」


男はへたり込んだ。


「はぁ……びっくりした。誰もいないと思ってたから……」


「あ、あの……あなたは?」


「すまない。勝手に入っちまって。鍵が開いてたもんだから。」


男は慌てて頭を下げた。


「外で変な化け物に追いかけられてさ。逃げ込める場所を探してたんだ」


「化け物……?」


「ああ。真っ黒で、気味の悪いやつだ。必死で逃げてきた」


男は震える手で額の汗を拭った。


「まさか、ここに人がいるとは思わなかった。怖がらせて悪かったな」


「い、いえ……」


男の様子を見る限り、相当怖い思いをしたのだろう。


あの世界で一人きりになる恐怖は、ルナにも分かる。


「……あの、大丈夫ですか? お水、持ってきましょうか?」


「ああ、いや……大丈夫だ。ありがとう」


男は少し驚いたように顔を上げた。


「君も、この世界に迷い込んだのか?」


「……はい。昨日もここに来て……」


「昨日も?」


男は驚いた顔をした。


「じゃあ、戻る方法を知ってるのか?」


「えっと……変な裂け目みたいなところに入ったら、戻れたんです。でも、どこにあるのかは……」


「裂け目、か……」


男は少し考え込み、それから笑った。


「いや、ありがとう。教えてくれただけでも助かるよ」


「……はい」


「それにしても、君みたいな子が一人で……怖かっただろう」


「……はい。でも、昨日はもう一人、一緒にいてくれた人がいたので」


「そうか。そいつも無事だといいな」


「……はい」


男は優しく笑った。


「とりあえず、今はここで少し休ませてもらってもいいかな?」


「もちろんです。外は危ないですし……」


「ありがとう。本当に助かるよ」


ルナは小さくうなずいた。


昨日、ショウと出会えたときもそうだった。


この世界に、自分以外の誰かがいる。


それだけで、少しだけ怖さが和らいだ。


――ドンッ!


玄関の扉が揺れた。


「……っ!」


男の顔から笑みが消える。


――ドンッ!!


さらに大きな音が響いた。


「……追いついてきやがった」


「え……?」


「さっきの化け物だ!」


男は慌てて周囲を見回した。


「どこか、他に出口はないか!?」


「う、裏口なら……」


「本当か!? 案内してくれ!」


ルナは男を連れ、台所へ向かった。


背後では、玄関を叩く音が続いている。


――ドンッ!!


「……あそこです!」


ルナが勝手口を指さすと、男はすぐに駆け寄った。


鍵を開け、扉を少しだけ押す。


紫色の薄暗い路地が見えた。


「……よし。何もいないな」


男は振り返り、ルナに手を差し出した。


「大丈夫。一緒に逃げよう」


「……はい!」


ルナはその手を取り、二人で外へ飛び出した。


背後から、玄関を叩く音が響く。


「こっちだ! 急げ!」


男に手を引かれ、ルナは住宅街を走った。


曲がり角を抜けた先から、奇妙な音が聞こえてきた。


――コッ、コッ……。


「……え?」


路地の先に、黒い影が立っていた。


人の形に似ている。


けれど、異様に細い手足が、ゆらゆらと揺れていた。


――コッ、コッコッ……。


影の口元が小刻みに動いている。


舌を鳴らすような音だった。


「……なに、あれ」


男の足が止まった。


「くそっ……こっちにもいやがるのかよ……!」


二人は後ずさった。


――コッ。


音が止まる。


影の顔がゆっくりと二人に向く。


「……っ!」


男は周囲を見回した。


逃げ道を探している。


しかし、狭い路地には身を隠せる場所もない。


「あ、あの……どうしたらいいんですか……?」


ルナの声は震えていた。


今にも泣き出しそうなルナを見て、男は優しく微笑んだ。


「大丈夫だよ。心配しなくていい」


男の手が、そっとルナの肩に置かれる。


「……でも、すまないな」


「……え?」


ドンッ!


男がルナを突き飛ばした。


「きゃあっ!!」


ルナは地面に倒れ込んだ。


――コッコッ!


黒い影が、ルナへ顔を向けた。


「……え?」


慌てて振り返ると、男はすでに反対方向へ走り出していた。


「ま、待って!」


男は振り返らない。


「お願い! 置いていかないで!」


「悪いな! 俺だって死にたくねえんだよ!」


男は曲がり角の向こうへ消えた。


ルナは呆然とした。


一緒に逃げようと言ってくれた。


自分を心配してくれた。


無事に帰れると、少しだけ思えたのに。


――コッ、コッ……。


ルナは振り返った。


黒い影が近づいてくる。


慌てて立ち上がろうとしたが、足がもつれる。


「……っ!」


影が、目の前に迫る。


「いや……!」


逃げようとしたルナの腹部に、強い衝撃が走った。


――ドゴッ!!


「かはっ……!」


息が詰まり、身体が地面を転がった。


ルナは腹を押さえ、必死に息を吸おうとした。


けれど、うまく呼吸ができない。


「……っ、あ……」


地面に手をつき、身体を起こそうとする。


――ゴッ!!


横から殴られ、身体が吹き飛んだ。


「うあっ……!」


肩から地面に叩きつけられる。


痛みで声も出なかった。


それでも、ルナは逃げようとした。


震える腕で身体を支え、膝をつく。


あと少し。


立ち上がれれば――。


――ドガッ!!


背中に衝撃が走った。


「がっ……!」


地面に押し潰されるように倒れ込む。


肺に残っていた空気が、一気に吐き出された。


「……や、め……」


黒い影は止まらなかった。


――ゴッ!


身体を丸めたルナに、容赦なく拳が振り下ろされる。


腕で頭をかばう。


けれど、その腕にも激痛が走った。


「いっ……ああっ!!」


痛い。


怖い。


どうして、こんなことになったのだろう。


ただ、帰りたかっただけなのに。


ルナは必死に地面を這った。


少しでも遠くへ。


一歩でも、逃げなければ。


「……たす、けて……」


声はかすれていた。


誰も答えない。


伸ばした手が、地面を引っかく。


男の背中が脳裏に浮かんだ。


あの人も、怖かったんだ。


自分と同じように。


死にたくなかったんだ。


それは、分かる。


分かるけど――。


「……だからって……」


言葉が続かなかった。


怖い。


怪物も、死ぬことも。


でも、それ以上に。


あの人を信じてしまった自分が、悔しかった。


足首に、何かが触れた。


「……っ!?」


振り返る間もなく、身体が後ろへ引きずられる。


「いやっ! いやぁっ!!」


ルナは必死に抵抗した。


けれど、力の差はあまりにも大きかった。


黒い影が、ルナの身体を仰向けに転がした。


――コッ、コッ……。


目の前に、黒い顔があった。


細い腕が、ゆっくりと持ち上がる。


「……やだ……」


――ゴッ!!


顔のすぐ横に拳が叩きつけられた。


地面が小さく砕ける。


ルナは悲鳴を上げようとしたが、声にならなかった。


次の拳が、腹部に突き刺さる。


――ドゴッ!!


「……っ!!」


身体が跳ねた。


口の中に、鉄のような味が広がる。


視界が揺れる。


もう、指先にさえ力が入らなかった。


「……し、ぬ……」


昨日、あの裂け目に飛び込んだときは、助かった。


ショウが手を握ってくれた。


でも、今は。


誰もいない。


「……ショウ……」


涙が頬を伝った。


黒い影が、再び腕を振り上げる。


意識が遠のいていく。


もう....避けられない。


――ゴッ!!

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