午前零時
素人なので温かい目で見てください。
負の感情。それは誰しもが抱くものであり、
人前ではひた隠しにしている。
その感情は時に、心を成長させる糧となる。
しかし稀に、その感情が深まり、
飲み込まれてしまう者がいる。
これは、まだあなたの知らない世界の狭間の物語。
*
「……もうこんな時間」
ベッドに寝転がったまま、ルナはスマートフォンの画面を見つめていた。
時刻は23時57分。
明日も学校がある。
そろそろ寝なければと思いながら、指は何となく画面を滑り続けていた。
銀白色の長い髪が枕の上に広がっている。黒のパーカーの胸元には、小さな青い宝石のネックレス。
イヤホンから流れる音楽だけが、静かな部屋を満たしていた。
画面には、同じ学校の生徒たちが投稿した写真が並んでいる。
放課後の教室。
友達同士で撮った写真。
楽しそうに笑う顔。
ルナは指を止めた。
そこに、見覚えのある教室が映っていたからだ。
「…………」
写真の中に、探している顔はなかった。
いるはずがない。
もう、ずっと見ていないのだから。
ルナは画面を閉じた。
考えたところで、何かが変わるわけでもない。
あのときも、そうだった。
何もできなかった。
「……寝よ」
小さくつぶやき、スマートフォンを枕元に置こうとする。
そのとき、画面の左上に表示された時刻が目に入った。
23時59分。
あと一分で、日付が変わる。
特別な日ではない。
誕生日でもなければ、何かの記念日でもない。
ただの、いつもと同じ夜。
ルナは天井を見上げた。
イヤホンから流れる曲が、ちょうどサビに差しかかる。
好きな曲だった。
何度も聴いているから、次の歌詞だって覚えている。
だからこそ。
その異変には、すぐに気づいた。
――プツン。
「……え?」
音楽が止まった。
ルナはスマートフォンを持ち上げる。
画面は真っ暗だった。
さっきまで、充電は50%以上残っていたはずなのに。
「電池切れた?」
充電ケーブルを差し、電源ボタンを押してみる。
再起動する様子はない。
音量ボタンを押しても、何も反応しない。
故障だろうか。
そう考えたとき、ルナはもう一つの異変に気づいた。
部屋が、暗い。
さっきまでついていた照明が消えている。
「……停電?」
窓の外へ目を向けた。
カーテンの隙間から、見慣れない色の光が差し込んでいた。
青でも、赤でもない。
暗い紫色。
まるで、夜空そのものが別の色に塗り替えられたようだった。
ルナはゆっくりとベッドから起き上がり、イヤホンを外した。
その瞬間、違和感に気づく。
静かだった。
あまりにも。
いつもなら、遠くを走る車の音が聞こえる。
近所の家から、テレビの音が漏れてくることもある。
けれど、今は何も聞こえない。
自分の呼吸だけが、妙にはっきりしていた。
「……何、これ」
ルナは窓へ近づいた。
カーテンに手をかける。
なぜか、すぐには開けられなかった。
ただ外を見るだけ。
それだけのことなのに、指先が冷たくなっている。
意を決して、カーテンを引いた。
「…………え?」
見慣れた住宅街が、そこにあった。
向かいの二階建ての家。
道路沿いの電柱。
少し離れたところにある公園。
建物の位置も、道路の形も、何も変わっていない。
それなのに。
すべてが、紫色に沈んでいた。
空には厚い雲が広がり、街全体が暗い紫色の薄明かりに包まれている。
街灯は一つもついていない。
向かいの家も、その隣の家も、窓は真っ暗だった。
「……停電、だよね?」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
でも、停電だけでは説明できないことがあった。
なぜ空が暗い紫色なのか。
人影もない。
誰かが歩いている気配すらない。
ルナは窓に額を近づけた。
遠くの交差点を見つめる。
信号機は消えていた。
その下を通る車もない。
まるで、街から動くものだけが取り除かれたようだった。
「……みんな、どこ行ったの?」
口にした途端、背筋が冷たくなった。
自分が何を言ったのか、理解したからだ。
みんな、どこへ行った?
そんなことあるはずがない。
真夜中なのだから、家で寝ているだけだ。
ルナはそう考えようとした。
けれど。
どうして、どの家にも明かりがついていないのだろう。
どうして、車の音が一つもしないのだろう。
どうして、こんなにも静かなのだろう。
ルナは窓から離れ、カーテンを閉めた。
窓の端には、わずかな隙間が残っていた。
「……お母さん?」
部屋の外へ声をかける。
返事はない。
もう一度、少し大きな声を出した。
「お父さん? お母さん?」
何も聞こえない。
廊下の向こうは、暗闇に沈んでいた。
ルナはドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触。
そのまま、ゆっくりと扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
電気のスイッチを押す。
カチッ。
乾いた音だけが響く。
照明はつかない。
ルナは階段の方へ目を向けた。
階段の先は暗く、一階の様子までは見えなかった。
「……ねえ、冗談でしょ?」
声が震えた。
家の中が、こんなに広く感じたことはなかった。
ルナは階段を下りた。
一段。
また一段。
自分の足音が、やけに大きく響く。
リビングに入る。
誰もいない。
キッチンにも、寝室にも誰もいない。
テレビの黒い画面に、自分の姿がぼんやり映っている。
ルナは立ち尽くした。
さっきまで、普通の夜だった。
ベッドで音楽を聴いていただけだった。
たった数分前まで、明日の学校のことを考えていた。
なのに。
「……どうなってるの」
ポケットの中のスマートフォンが手に当たった。
ルナは取り出して画面を見る。
相変わらず画面は暗いままだ。
そのとき、玄関の方から足音が聞こえた。
ルナは振り返ったが、薄暗い廊下の先に人影は見えなかった。
玄関の方から、紫色の光がわずかに差し込んでいた。
(外にいるのかな……)
「お父さん? お母さん?」
ルナは泣き出したい気持ちを抑えつつ、玄関に向かいドアノブに手をかける。
そのとき。
――ピロン。
「……っ!」
ルナは肩を跳ねさせた。
音がした。
スマートフォンから。
さっきまで、何を押しても反応しなかったはずなのに。
画面が、ひとりでに明るくなっていた。
「……通知?」
見覚えのない表示が浮かんでいる。
送信者の名前はない。
アプリのアイコンもない。
ただ、黒い画面の中央に白い文字が並んでいた。
――コンドハ、マモレル?
「…………は?」
ルナは文字を見つめた。
今度は、守れる?
誰を?
何のこと?
意味が分からない。
けれど、その言葉を見た瞬間。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
教室の隅。
誰かの泣き声。
見ていることしかできなかった、自分。
忘れようとしていた光景が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「……なんで」
ルナの指が震えた。
「なんで、そんなこと……」
そのときだった。
玄関の向こうから。
カツン。
硬いものが、地面を叩く音がした。
ルナは顔を上げた。
誰かがいる。
そう思った。
だが、足音にしては妙だった。
カツン。
また鳴った。
今度は、さっきより近い。
ルナは息を止めた。
ドアの向こうに、人の気配はない。
なのに、確かに何かが近づいている。
カツン。
玄関のすぐ外。
ルナは後ずさった。
スマートフォンを握る手に力が入る。
ふと、玄関のドアスコープが目に入った。
覗けば、外にいるのが誰なのか分かるかもしれない。
ルナは迷った。
もし、両親だったら。
そう思う一方で、確かめるのが怖かった。
それでも、ゆっくりと扉に近づく。
そして、ドアスコープに目を当てた。
「…………?」
何も見えない。
紫色に染まっているはずの外の景色が、そこだけ黒く塗りつぶされていた。
ルナは慌てて顔を離した。
その瞬間。
カツン。
音が止まった。
扉一枚を隔てた向こう側に、何かがいる。
ルナは動けなかった。
ドアノブから、目を離せない。
長い沈黙が続く。
やがて。
扉の下のわずかな隙間に、細長い黒い影が差した。
人間の足とは、思えないほど細い影だった。
ルナは口元を押さえた。
声を出してはいけない。
理由は分からない。
ただ、本能がそう告げていた。
玄関の向こうで。
何かが、ゆっくりと動いた。
扉の表面を、硬く尖ったものが擦る。
――ギ……。
――ギギ……。
ルナは震える足で、一歩だけ後ろへ下がった。
扉の向こうにいる何かは、まだそこにいた。




