第一話 バナナ男
ローファンタジーに初めて投稿します。かわいそうなバナナ君の話です。
榛葉七生は、バナナが嫌いだった。
いや、食べ物としてのバナナは別に嫌いではない。むしろ好きな方だ。安くて甘くて腹持ちもいい。皮をむくだけで食べられるし、栄養だってある。金欠の人間にはありがたい食べ物である。
だが、バナナという言葉そのものには、もううんざりしていた。
何しろ七生は、生まれてこの方、ずっとバナナに人生を振り回されてきたのだ。
榛葉七生。続けて読むと、しんばななお。しんバナナお。
そう、バナナである。
そもそも、どうして親がこんな名前をつけたのか。もっとマシな名前はいくらでもあっただろうに。太郎でも次郎でも、何なら三郎でもよかった。少なくともバナナよりはマシである。
七生が初めてバナナと呼ばれたのは、小学校に入ったばかりの頃だった。
「お前の名前、バナナみたいだな!」
クラスの誰かがそんなことを言い出したのが始まりだったと思う。
当時の七生は別に気にしていなかった。それどころか、結構気に入っていたくらいだ。
小学生の七生は活発な子供だった。休み時間になれば真っ先に校庭へ飛び出し、放課後には友達を引き連れて秘密基地を作ったり、近所の山を探検したりしていた。
「バナナ! 今日は何して遊ぶ?」
「よし、川行こうぜ!」
「また怒られるぞ!」
「大丈夫だって!」
大丈夫だった試しはあまりなかったが、とにかく毎日が楽しかった。
中学生になってもそれは変わらない。友達も多く、何か面白いことがあれば真っ先に首を突っ込む。そんな七生の周りには、自然と人が集まっていた。
バナナというあだ名も、当時は親しみを込めて呼ばれるものだった。
ところが、高校生になったあたりから事情が変わってくる。
周囲の男子は髪型や服装を気にし始め、女子と付き合う奴も出てきた。七生だって、そろそろ彼女の一人くらい欲しいと思っていた。
だが、何かにつけてバナナが邪魔をする。
「おい、バナナ! お前、好きな女子とかいんの?」
「別にいねえよ」
「バナナのくせに色気づいてんじゃねえよ!」
「だからいねえっつってんだろ!」
最初のうちは笑って返していたが、次第に嫌気が差してきた。こちらが嫌がれば嫌がるほど面白がられるのだから、たまったものではない。
おまけに七生は、見た目もあまりパッとしなかった。
別に顔が悪いわけではない。少なくとも本人はそう思っている。身長も体格も人並みで、極端に太っているわけでも痩せているわけでもない。
問題は髪型だった。
七生は子供の頃から、近所の爺さんが一人でやっている床屋に通っていた。店内には古い理容椅子が二台並び、壁には色褪せた髪型の見本写真が貼られている。七生が物心ついた頃から、ほとんど何も変わっていない店だった。
「七生ちゃん、いつものでいいかい?」
「うん、いつもので」
これで終わりである。
小学生の頃から高校生になっても、注文はずっと同じ。おかげで七生の髪型だけは、周囲がおしゃれに目覚めていく中、時代の流れから完全に取り残されていた。
美容院に行こうと思わなかったわけではない。ただ、あのおしゃれな空間に入って、見知らぬ美容師に「今日はどんな感じにします?」などと聞かれることを想像すると、どうにも気が引けた。
そもそも、どんな感じにしたいのか自分でもわからない。そんな人間が美容院なんかに行っていいものだろうか。
だったら爺さんの床屋でいい。安いし、余計な注文もしなくて済む。
そんなわけで七生は、高校を卒業するまで彼女の一人もできないまま過ごすことになった。
もちろん、彼女ができなかった理由が髪型と名前だけではないことくらい、本人も薄々わかっていた。
だが、認めたくないものは認めたくないのである。
そして大学進学。
正直、勉強はあまり得意ではなかった。どうにか入れたのは、世間でいうところのFラン大学である。
それでも七生は、少しばかり期待していた。
大学に入れば新しい友達ができる。高校までの自分を知る奴もいない。今度こそバナナから卒業して、普通の大学生活を送れるかもしれない。
そう思っていたのだが、現実は甘くなかった。
入学して間もなく、自己紹介で名前を聞いた男子学生が笑い出したのである。
「しんばななお? 何それ、バナナじゃん!」
またかよ。
七生は心の中で盛大にため息をついた。
結局、大学でもあだ名はバナナになった。
しかも周囲は、いわゆる大学生活を満喫している連中ばかりだった。サークル、飲み会、合コン、彼氏だ彼女だと、毎日楽しそうに騒いでいる。
七生はどうにも、そういう連中の輪に入れなかった。
別に一人でいるのが好きだったわけではない。小中学生の頃は、むしろ友達と遊ぶのが大好きだったのだ。だが、いつの間にか自分から声をかけるのが苦手になっていた。誰かと話していても、いつバナナの話を持ち出されるのかと身構えてしまう。
そのうち、あまり人と関わらない方が楽だと思うようになっていた。
そんな大学生活が半年ほど続いたある日のことだった。
「よぉ、バナナ! お前今夜暇だろ? 合コンあるんだけどさ」
講義を終えて帰ろうとしていた七生に、同じ学部の男子学生が声をかけてきた。
「……合コン?」
「そうそう。男が一人足りなくてさ。お前、彼女いないだろ?」
「まあ、いないけど」
「じゃあ決まりな! 女の子三人来るからさ。結構可愛いらしいぜ?」
合コン。
なんとも魅力的な響きではないか。
七生は少し迷った。誘ってきた男とは、講義で顔を合わせれば話す程度の仲でしかない。特別親しいわけでもなかった。
だが、女の子と知り合える機会なんて、そうそうあるものではない。それに、大学に入ってから誰かに遊びに誘われたのは久しぶりだった。
「……まあ、暇だけど」
「よっしゃ! じゃあ七時な。場所はLINEで送るわ!」
男は上機嫌で七生の肩を叩いた。
七生も悪い気はしなかった。もしかすると、これをきっかけに大学生活が少しは楽しくなるかもしれない。友達が増えて、ひょっとしたら彼女なんかもできたりして。
いや、さすがに期待しすぎか。
それでも、久しぶりにちょっとだけ浮かれていた。
その日の夕方、七生はいつもより念入りにシャワーを浴び、持っている服の中では一番マシだと思うものを選んだ。髪もワックスで整えてみたが、元が爺さんカットなので大した変化はなかった。
まあ、清潔感があれば何とかなるだろう。
そんな淡い期待を胸に、指定された店へ向かった。
駅前のおしゃれな個室居酒屋だった。七生が案内された個室の襖を開けると、すでに男女五人が集まっていた。
「おっ、来た来た!」
誘ってくれた男が声を上げた。
テーブルの片側に男子二人、反対側には女子三人が並んで座っている。女性陣はなかなか可愛い子ばかりで、七生は思わず姿勢を正した。
すると、女性たちがこちらを見て、何やら小声で話し始めた。
「えー、全然キモくないじゃん」
「ね、普通じゃない?」
「でも、あれなんでしょ……」
何だ? 何の話だ?
よく聞き取れなかったが、とりあえずキモくないと言ってもらえたらしい。初対面の評価としては微妙なところだが、悪い印象ではないのかもしれない。
七生は男子側に一つだけ空いていた席を見つけ、そこに腰を下ろした。
やがて飲み物が運ばれ、自己紹介が始まった。男たちが順番に名前と学部を告げ、女の子たちもそれぞれ自己紹介を済ませていく。
そして七生の番になった。
「あ、榛葉七生です。経済学部の一年で……」
ブフッ!
隣に座っていた男が噴き出した。もう一人の男も口元を押さえ、肩を震わせている。何がおかしいのかと七生が眉をひそめると、向かい側の女の子たちまでクスクス笑い始めた。
いや、まさか。
嫌な予感がした。
そのとき、派手な化粧をした女が身を乗り出した。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「……何?」
「元カノに、アレ……バナナ使ったってほんと?」
女は最後まで言い終わらないうちに、自分で吹き出した。
次の瞬間、個室が爆笑に包まれた。
「ちょ、お前! 本人に聞くなって!」
「だって気になるじゃん! バナナくんなんでしょ?」
「マジでやったの? ウケるんだけど!」
男たちはテーブルを叩いて笑い、女たちも腹を抱えている。
七生は呆然とした。
何だ、それ。
元カノ? バナナ?
そもそも彼女なんていたこともない。そんな話、誰がどこから持ってきたんだ。
そして、ようやく気づいた。
ああ、そういうことか。
人数合わせじゃなかったのだ。最初から、自分を笑いものにするために呼んだのだ。
そう思った瞬間、全身からすうっと血の気が引いた。
七生は黙って立ち上がった。
「あれ、どこ行くの?」
答えずに襖を開ける。
「バナナくん、怒っちゃった?」
背後でまた笑い声が上がった。そして、七生を誘った男が、ひときわ大きな声で言った。
「いや、バナナなんか使うわけねぇよ。だってアイツどう見ても童貞じゃん。ぎゃははははは!」
個室が再び爆笑に包まれた。
「ちょっと、やめなよー!」
そう言っている女も笑っていた。
七生は足を止めた。振り返って殴ってやろうかと思ったが、結局何もできなかった。どうせ何を言っても笑われる。怒鳴ったところで、また馬鹿にされるだけだ。
黙って襖を閉めると、廊下に出てもまだ笑い声が聞こえていた。
店を出た七生は、駅へ向かいながらスマホを取り出した。誘ってきた男に文句の一つでも送ってやろうと思ったのだが、文章を打ちかけては消し、結局何も送れなかった。
あいつら、最初から知ってたんだ。女たちまで、全部。
あんな連中と仲良くなれるかもしれないと思っていた自分が、たまらなく情けなかった。
翌朝、七生は大学へ行かなかった。
その次の日も休んだ。週が明けてから一度だけ大学へ向かったものの、正門が見えてきたところで足が止まってしまった。あの男たちと顔を合わせることを想像するだけで、胃のあたりが重くなったのだ。
結局、その日は大学の近くにあるコンビニで時間を潰し、そのまま帰った。
一週間休み、二週間休み、気がつけば一か月が過ぎていた。
もちろん、あの合コンだけが原因ではない。もともと大学の勉強には興味が持てなかったし、友達らしい友達もいなかった。だが、あの日を境に大学へ行くのが本当に嫌になった。
結局、七生は大学を中退した。
当然、両親は激怒した。
「お前、大学に行くっていうから学費まで出してやったんだぞ!」
「わかってるよ!」
「わかってるなら、どうして辞めたんだ!」
「だから、もう行きたくねえんだって!」
「そんな勝手な理由があるか!」
父親の怒鳴り声を聞いているうちに、七生の中で何かが切れた。
「そもそも、あんたらがふざけた名前つけたせいだろ!」
口にした瞬間、母親の顔が強張った。
「……七生?」
「何が七生だよ! こんな名前つけやがって! おかげで小学校からずっとバナナ、バナナって馬鹿にされてきたんだよ!」
「名前のせいにするな!」
「うるせえ!」
その日の口論は、過去最悪のものになった。
七生だって、大学を辞めたのは名前だけのせいではないとわかっていた。自分が勉強をサボったのも、嫌なことから逃げ続けたのも事実だ。
だが、そんなことは認めたくなかった。
それから両親との関係はすっかり悪くなり、七生はほどなくして実家を出た。大学時代のわずかな貯金と、退学後に始めたアルバイトの給料をかき集め、初期費用の安い古いアパートを借りたのだ。
最初のうちは、それなりに生活できていた。
ところが、アルバイトが続かない。
コンビニ、倉庫、工場、飲食店。いろいろやってみたが、どれも長続きしなかった。仕事がきつかったり、人間関係が面倒だったり、単純に朝起きるのが嫌になったり。理由はいろいろあったが、結局は辞めてしまう。
中でも忘れられないのが、とある飲食店での出来事だった。
ある日、店長が出勤表に名前を間違えて書いたのである。
『榛葉七男』
七生の「生」が「男」になっていた。
ただの書き間違いだった。店長に悪気があったわけではない。
だが、それを目ざとく見つけたバイト仲間が、わざわざ大声で読み上げた。
「おい見ろよ! 榛葉七男だって! しんばななお……バナナ男じゃん!」
「マジだ! バナナ男!」
「お前、そんな名前だったのかよ!」
またしてもバナナ。しかも今度はバナナ男である。
七生はその店も長くは続かなかった。
どうしてこうなるのか。普通に生きていたいだけなのに、どこへ行ってもバナナが追いかけてくる。
そんなことを繰り返しているうちに、七生はすっかり覇気のない青年になってしまった。
子供の頃はあれほど活発だったのに、今では人付き合いも面倒くさい。何をするにもやる気が起きず、嫌なことがあればすぐに投げ出してしまう。
見た目もさらにひどくなった。
昔から通っていた爺さんの床屋にすら、まともに行かなくなったのだ。散髪する金があれば飯を食いたい。そんな生活を続けていたせいで、髪は伸び放題。邪魔になった前髪だけ自分で適当に切るものだから、ますますひどい有様になっている。
中肉中背の冴えない体格に、くたびれた服。おまけに表情まで暗い。今の七生を見て、小中学生時代の友人たちはどう思うだろうか。
少なくとも、昔の元気なバナナと同一人物だとは、すぐには気づかないかもしれない。
もっとも、そんなことを考えたところで腹が膨れるわけではない。
そして現在。
「……腹減った」
六畳一間の安アパートで、榛葉七生は畳の上に寝転がっていた。
天井には見慣れたシミがある。入居したときからあるものだが、最近少し大きくなったような気がする。まあ、そんなことはどうでもいい。
腹が減った。とにかく腹が減った。
最後にまともな食事をしたのは三日前だった。昨日は買い置きのカップ麺を一つ食べたが、今日は朝から水しか飲んでいない。
冷蔵庫を開けても、入っているのは調味料と飲みかけのペットボトルだけだ。
七生は財布を取り出し、中に残っていた小銭を畳の上に並べた。
十円玉が三枚、五円玉が一枚、一円玉が四枚。
三十九円。
「……ははっ」
思わず笑いが漏れた。
三十九円で何を買えというのか。うまい棒なら二本くらい買えるだろうか。いや、二本買ったらほぼ全財産が消える。
そんなことを真剣に考えている自分が悲しかった。
七生はスマホを手に取った。通知がいくつか届いている。そのうちの一つを見て、思わず顔をしかめた。
『携帯電話料金のお支払いについて』
今月中に未払い分を支払わなければ、回線を止めるという内容だった。
「……マジかよ」
ついにスマホまで止められるらしい。今どきスマホが使えなくなったら、仕事探しすらまともにできない。
家賃もそろそろやばい。電気代だって払わなければならない。払うものだけはいくらでもあるくせに、入ってくる金は一円もない。
まったく、よくできた世の中である。
親に電話すれば、少しくらい金を貸してくれるだろうか。
一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。大学を辞めたとき、あれだけ悪態をついて家を飛び出したのだ。今さら金を貸してくれなどと言えるわけがない。
それに、電話をかけたところで説教されるのが目に見えている。
七生は大きくため息をついた。
「……バイト探すか」
そう言ってスマホの求人サイトを開くのも、もう何度目だろう。
コンビニ、居酒屋、倉庫作業、引っ越し、警備員。どれも似たような仕事ばかりだ。時給千二百円、千三百円。深夜ならもう少し高いところもある。
「……これじゃ間に合わねえよ」
もちろん、働けば金は入る。普通の人間はそうやって生活しているのだ。だが、七生には今すぐ金が必要だった。来月の給料日まで待っている余裕などない。
それに、仮に採用されたとしても、またすぐ辞めてしまうかもしれない。
面接も面倒くさい。履歴書を書くのも面倒くさい。そもそも職歴欄に短期間で辞めたアルバイトをずらずら並べるだけで気が滅入る。
七生はスマホを適当にスクロールした。
そんなときだった。
「……ん?」
一件の求人広告が目に留まった。
『短期高収入スタッフ募集!』
よくある見出しだった。どうせ大したことはないだろうと、そのまま読み飛ばしかけた七生だったが、次の文字を見て指が止まった。
『日給十万円以上!』
「……じゅ、十万?」
思わず起き上がった。
日給十万円。一日働けば十万円。三日働けば三十万円。十日働けば百万円。
そんな馬鹿な。
七生は慌てて求人の詳細を開いた。
仕事内容は荷物の運搬や回収業務。未経験者歓迎。特別な資格は必要なし。即日払い。食事、宿泊費支給。勤務地への送迎あり。
そして最後に、小さく書かれていた。
『業務内容の詳細は採用後にご説明いたします』
「……いやいやいや」
七生は思わず声に出した。
「これ、完全に闇バイトじゃん」
どう考えても怪しい。というか、怪しいところしかない。テレビやネットで散々注意喚起されている、あの闇バイトそのものではないか。
簡単な仕事で高額報酬。仕事内容は曖昧。連絡はLINE。
これで犯罪に関係ありませんと言われても、誰が信じるというのか。
当然、そんな仕事に応募すれば、強盗だの詐欺だのをやらされるかもしれない。下手をすれば逮捕され、そのまま刑務所行きである。
「……刑務所か」
七生はふと考えた。
刑務所なら、一日三食ちゃんと飯が出るんだよな。寝る場所もあるし、家賃も電気代も払わなくていい。規則正しい生活を送れて、仕事だって与えられる。少なくとも、今日食べるものがないなんて心配はしなくて済むはずだ。
……あれ?
「もしかして、今よりいい暮らしできるんじゃね?」
思わず声に出してしまった。
いやいや、待て待て。何を考えてるんだ俺は。刑務所だぞ? 自由なんかないし、好きなこともできない。そもそも犯罪者になりたいわけじゃない。
だが、自由があったところで、三日前からまともな飯も食えていないのが現状である。好きなことをする金もなく、行きたい場所もなく、毎日このボロアパートで天井を眺めているだけだ。
七生は三十九円しか入っていない財布を見つめた。
「……自由って、何だろうな」
我ながら哲学的な疑問だった。
もっとも、空腹のあまり刑務所暮らしに魅力を感じ始めている人間が考えることではない。
七生は再び求人広告に目を落とした。
『日給十万円以上! 食事・宿泊費支給!』
成功すれば十万円。失敗して捕まっても三食つき。
「……案外、悪くないのか?」
完全に判断力がおかしくなっていた。
もちろん、実際に誰かを傷つけたり、刑務所に入ったりするのは御免だった。だが、募集には荷物の運搬と書いてある。本当に荷物を運ぶだけなら、別にいいんじゃないか?
……いや、そうやって騙されるんだろうけど。
頭ではわかっていた。それでも、目の前の十万円という数字が魅力的すぎた。
そして何より、食事つきである。
七生はもう一度、その文字を見た。
『食事・宿泊費支給』
「……飯、出るのか」
正直、日給十万円よりも、そちらの方が気になってしまった。
食事つき。少なくとも、仕事に行けば何か食える。それだけでも今の七生には十分な魅力だった。
七生はしばらくスマホを見つめた。
やっぱりやめよう。そう思って画面を閉じかけるが、結局もう一度開いてしまう。
そもそも、今まで真面目にやってきて何かいいことがあっただろうか。大学は辞めるし、バイトは続かないし、親とも喧嘩別れだ。おまけに、もうすぐスマホまで止まる。
こんな名前をつけられた時点で、人生の難易度設定を間違えられている気さえする。
「……もう、どうでもいいか」
七生はぽつりと呟いた。
どうせ、このまま何もしなければ明日の飯にも困るのだ。だったら、少しくらい無茶をしたところで、今さら何が変わるというのか。
「闇バイトでも何でもやってやるよ……」
七生は求人広告の応募欄をタップした。
LINEの画面が開く。
『高収入案件紹介センター』
いかにも怪しい名前だった。アイコンには、立派な口髭をたくわえ、金色の王冠をかぶった王様風のキャラクターが、満面の笑みを浮かべている。
誰だよ、お前。
七生は少し迷ってから、友だち追加のボタンを押した。
すぐに自動返信らしきメッセージが届いた。
『ご登録ありがとうございます! お仕事をご希望の方は「応募希望」とメッセージをお送りください!』
七生は入力欄を開き、「応募希望」と打ち込んだ。
送信ボタンの上で、親指が止まる。
本当にいいのか。まだ引き返せるんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎった、そのときだった。
ぐううううううっ。
盛大に腹が鳴った。
「……うるせえな、もう」
七生は自分の腹に文句を言うと、送信ボタンを押した。
メッセージには、すぐに既読がついた。
こうして榛葉七生は、人生で初めて闇バイトに応募した。
このときの七生は、まだ知らなかった。自分がこれからどんな仕事をさせられるのかも、どこへ連れていかれるのかも。
そして、あれほど嫌っていたバナナという言葉に、これから先も散々振り回されることになるなんて、夢にも思っていなかったのである。
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