第39話 月下の告白、壁を越えた愛
◇◇◇
(ヴィオレット視点)
あの、舞踏会での婚約破棄事件から、二ヶ月以上が過ぎ、王都では大きな話題が三つ持ちきりとなっていた。
一つは、事件以来のオーギュスタン殿下とロザリー嬢の、その後のことだ。学園を退学になったオーギュスタンは、王太子の地位はいうに及ばず、王族ですらなくなった。
彼は結局レジェモン子爵家に婿入りしたが、子爵家は元々の借財に加え、ボーフォール侯爵家への多額の慰謝料支払いも重なり、間もなく破産。
レジェモン子爵家は爵位を返上し、今は一家でどこかへ流浪の旅に出たと聞く。
(もう、わたくしには関係ないことですけれど……あの時、わたくしを陥れようとした報いを、彼らは受けているのだわ)
もう一つは、第二王子はラウル元公爵との関係から、次の王太子候補としては不適切との声が上がり、まだ十歳ながら、第三王子が王太子として有力視されていること。
そして最後の一つは、王都を揺るがせたドヴェルノン公爵ラウルの断罪と、新たな公爵にレオンが就任したこと――。
週末、学園の寮から王都の侯爵邸に戻ったヴィオレットは、自室の窓辺で、レオンの帰りを静かに待ち続けていた。
レオンが旅立ってから、彼が公爵家の深い闇と対峙していると、父から聞かされて以来、眠れぬ夜も幾度かあった。
彼が全ての困難を乗り越え、新たな公爵として立った今、ヴィオレットの胸には安堵と誇らしさ、そして名状しがたい感情が渦巻いていた。
(レオンが、公爵様……。わたくしの、レオンが……)
不意に、扉を叩く音。侍女ノエミが息を弾ませて告げた。
「お嬢様! ドヴェルノン公爵閣下が、ただいまお見えになりました!」
ヴィオレットの心臓が、トクンと力強く高鳴る。浅く息を吸い、扉を開けるよう静かに促した。
開かれた扉の先に立っていたのは、紛れもなくレオンだった。
晴れた日差しに映えるような、鮮やかな紺碧のドヴェルノン公爵家礼服が、彼の引き締まった身体を包んでいる。胸元には、公爵家当主を示す紋章が輝いていた。
月光を思わせる白銀の髪は変わらないが、長旅と激務のためか僅かに頬が削げたようにも見える。
それでもその端正な顔立ちには、かつての執事としての控えめな影はなく、生まれ持った高貴さと、幾多の試練を越えた者だけが纏うことのできる、揺るぎない自信と威厳が満ちていた。
ヴィオレットは、ただ彼を見つめていた。
レオンはヴィオレットの前に進み出ると、深く、そして優雅に一礼した。その所作は、かつての執事の面影を残しつつも、今は公爵としての気品に満ちていた。
「……ヴィオレット様。ただいま戻りました」
彼の声は、以前よりわずかに低く、落ち着いた深みが増していた。だが、その瑠璃色の瞳の奥に宿る、ヴィオレットだけに向ける温かな光は、少しも変わってはいなかった。
二ヶ月ぶりの再会に、自身の心に熱が灯るのをヴィオレットは感じた。
「レオン……!」
名を呼び、駆け寄ろうとした足が、見えない壁に阻まれたように止まる。
レオンは、そんなヴィオレットの戸惑いを敏感に感じ取ったのだろう。柔らかな微笑を唇に浮かべ、静かに言葉を続けた。
「お話したいことが、山ほどございます。少し、お時間を頂戴できますでしょうか?」
ヴィオレットはこくりと頷き、彼を部屋の中へと招き入れた。侍女たちは心得たようにそっと退室し、静寂が二人を包んだ。
レオンは窓辺の椅子にヴィオレットを促し、自身はその向かいに腰を下ろす。そして、ゆっくりと、しかし確かな重みをもって語り始めた。彼の声は低く、抑えた響きを帯びている。
語られたのは、想像を絶するドヴェルノン公爵家の深い闇と、レオン自身の、あまりにも過酷な過去だった。
おぞましい陰謀の数々、血筋にまつわる悲しい真実、彼が受けた筆舌に尽くしがたい苦痛……。彼の口から紡がれる言葉の一つ一つが、ヴィオレットの心に突き刺さる。
そして、ヴィオレットの悪夢の原因、レオンが傍を離れざるを得なかった苦渋の理由が明かされるたび、ヴィオレットの胸は締め付けられた。
(レオンが一人で、これほど深い闇と戦い、どれほどの重みを背負ってきたのだろう……わたくしのために?)
彼の語る全てが、自分を守るために選ばれた道だったのだと、ヴィオレットは理解した。
彼が一人で背負ってきた重み、自分のために払った代償……その事実が、胸を締め付けるような痛みと、どうしようもない愛しさとなって込み上げ、視界を歪ませ、止めどなく涙が頬を伝った。
(ああ、レオン……!)
心の中で、彼女は彼の名を呼んだ。言葉を失い、ただ彼の瑠璃色の瞳を見つめ返していた。
ヴィオレットの胸に、温かい波が広がる。レオンが無事に戻ってきてくれた。その事実が、真実を知った今、魂の底から張り詰めていたものを解き放つような、深い安堵となって全身を駆け巡る。
そして、彼の背負ってきた重みを知ったからこそ、新たな公爵として立つ彼の存在が、ヴィオレットの目には眩いばかりに輝いて見えた。彼が成し遂げた全てに、心底からの尊敬と称賛の念が込み上げた。
「レオン……あなたが、公爵様に……」
ようやく絞り出した声は、微かに震えていた。目の前にいるのは、もはや影のように寄り添う執事ではない。一人の高貴な男性であり、そして何よりも、自分が心の奥底から深く愛する人なのだ。
レオンは、そんなヴィオレットの潤んだ瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。彼の瑠璃色の瞳には、ただひたすらに、ヴィオレットへの揺るぎない愛情が、静かに、しかし力強く映し出されていた。
レオンが語り終えた時、窓の外はすでに深い藍色に染まっていた。
月光が床に銀色の模様を描く。窓辺に佇み、夜空を見上げていたヴィオレットの背後へ、彼は音もなく歩み寄ると、静かに声をかけた。
「ヴィオレット様。今宵の月は、ことのほか美しく輝いておりますね」
振り返ったヴィオレットの目に映ったのは、月光を浴びて神秘的な光彩を放つレオンの姿だった。白銀の髪がきらめき、深い瑠璃色の瞳が、穏やかな熱を湛えて彼女を見つめている。
「レオン……」
唇が、自然と彼の名を紡いだ。
レオンは、ヴィオレットの隣に立ち、同じように窓の外に広がる星空を見上げた。やがて、沈黙を破るように、レオンが静かに口を開いた。
「ヴィオレット様。お伝えしなければならないことが、もう一つございます。……いいえ、これまで、ずっとお伝えすることが叶わなかった、私の偽らざる想いを、今、お話ししてもよろしいでしょうか」
彼の声は低く、真摯な響きを帯びていた。ヴィオレットは息を呑み、こくりと頷く。胸の鼓動が、早鐘のように高鳴る。
レオンは、ヴィオレットに向き直ると、その両肩にそっと手を置いた。彼の瞳に宿る光が、ヴィオレットの心を射抜く。
「私の心を支えていたのは、常にヴィオレット様、あなたの気高いお姿でした」
「心身ともに美しく成長されたあなたに、いえ、ひょっとしたら、初めてお目にかかったその時から、私は、あなた様の輝きに強く惹かれておりました。しかし、私の立場、そして私の過去が、この想いを言葉にすることを許さなかった」
レオンの瞳が、苦悩と、抑えきれないほどの愛情の色に揺らめく。この二ヶ月、どれほど彼女を想い、再会を願ったことか。彼は、ヴィオレットの肩から手を離すと、ゆっくりとその場に跪いた。
「しかし、もう偽ることはできません。一人の男として、私の真実の想いを、あなたにお伝えしたい」
彼は、ヴィオレットの手を両手でそっと包み込み、その紫水晶の瞳を真っ直ぐに見上げて、告げた。
「ヴィオレット様……いいえ、ヴィオレット。形式的な誓いではなく、どうか、私の真心を受け取ってください。このレオン・ドヴェルノンの全てを懸けて、あなたを生涯、私の妻として心から愛し、守り抜くことを誓います」
ヴィオレットの瞳から、大粒の涙が止めどなく溢れ出した。そして、震える声で応えた。
「レオン……! わたくしも……わたくしも、ずっと、あなたのことを……! レオン、あなた自身のことを、心の底から……愛しておりました……!」
嗚咽と共に、長年秘めてきた想いが溢れ出す。ヴィオレットは、たまらずその場にしゃがみ込み、レオンの肩に顔をうずめた。
レオンは、深い感動と喜びに全身を震わせた。彼はそっとヴィオレットの涙を指で拭うと、力強く、しかし壊れ物を扱うかのように優しく、彼女を抱きしめた。
「……ヴィオレット……!」
彼の腕の中で、ヴィオレットはさらに強く泣いた。レオンの背中に腕を回し、彼の温もりを、その確かな存在を、全身で確かめる。二ヶ月分の寂しさと不安が、彼の温もりの中に溶けていくようだった。
月明かりだけが照らす静かな部屋で、二人は長い間、互いの存在を確かめ合うように、固く抱きしめ合っていた。
やがて、レオンはヴィオレットの体をそっと離すと、彼女の涙で濡れた瞳を愛おしそうに見つめ、囁いた。
「もう二度と、あなたを一人にはしません。これからは、私が公爵として、そしてあなたの夫として、生涯あなたをお守りします」
ヴィオレットは、涙に濡れた笑顔で、力強く頷いた。
「ええ……わたくしも、もう二度と、あなたを離しませんわ、レオン」




