第32話 侯爵令嬢、反撃す
ヴィオレット・ボーフォールが、ロワナール王国の政治バランスを支える保守派閥の要として、次代の王妃に選ばれたのは、単なる家柄や容姿だけでなく、その政治的な重みゆえだった。
ボーフォール侯爵である父と、保守派閥筆頭たるグランブーダン公爵家出身の母を持つヴィオレットの存在そのものが、保守勢力の連携を示すものだったからだ。
王家、三公爵家、そして各派閥が織りなす複雑な力学の中で、ヴィオレットと第一王子オーギュスタン殿下の婚約は、国政の安定に関わる極めて公的な意味合いを持つものとされていた。
しかし今、その国政の根幹に関わる婚約が、第一王子オーギュスタン自身の身勝手な理由により、公衆の面前で一方的に破棄されようとしている。
王家の権威を揺るがし、長年の均衡を崩しかねないその愚行は、舞踏会場に集まった人々の間に、一瞬にして凍りついたような静寂と、大きな動揺をもたらした。
「第一王子殿下、先ほどのご発言、『わたくしとの婚約は、本日をもって破棄する』、そして婚約破棄の理由として挙げてくださった『陰気で可愛げのない』『地味な見た目』『高慢な態度』『家柄ばかりを鼻にかける陰湿さ』といった諸点、確かに承りましたわ」
感情の揺らぎを一切見せないその声と態度に、周囲の生徒たちは再び息を呑む。悲鳴を上げるでもなく、涙を見せるでもなく、ただ静かに事実を受け止める侯爵令嬢の姿は、異様なほどの落ち着きを放っていた。
そこには、長年の研鑽で培われた、揺るぎない品格と、内に秘めた鋼のような意志が見て取れた。
ヴィオレットは続けた。その声はどこまでも平坦だ。
「まず、殿下が仰られた理由について、順にお答えさせていただきます。
わたくしの『地味な見た目』や『陰気で可愛げのない』『高慢な態度』とのことですが、婚約して以来、わたくしは常に将来の王妃として、王家、そしてボーフォール家の名誉を汚さぬよう、淑女としての務めを果たし、言動を律してまいりました。
具体的に、わたくしのどのような態度が、殿下のご不興を買ったのか、この場で詳しくお聞かせ願えますでしょうか?」
丁寧な言葉遣いの中に、確かな棘が込められている。王子の抽象的な非難の根拠を問う、鋭い刃だった。
「確かに……」
「具体的な話はないのか?」
周囲の生徒たちの間から、囁き声が漏れ聞こえ始める。
「次に、『家柄ばかりを鼻にかける陰湿さ』という点ですが、ボーフォール侯爵家は、ロワナール王国建国以来、王家に絶対的な忠誠を捧げてきた由緒ある家門でございます。その歴史と功績は、ここにいらっしゃる皆様もご存知のはず。
わたくしが殿下の婚約者たるに不相応な家柄であるとは、到底考えられませんし、わたくしがその家柄を鼻にかけて陰湿な態度をとった、という具体的な事実が思い当たりませんわ。」
ヴィオレットの反論は、オーギュスタンの身勝手な理由を一つずつ冷静に、そして的確に突き崩していった。
そして、ヴィオレットの視線は、王子の隣で得意げに寄り添うロザリーへと移った。その瞳には、温度のない、氷のような光が宿っていた。
「そして、ロザリー・レジェモン様と『真実の愛』に目覚められたとのこと。それは、誠におめでとうございます」
一瞬の間を置き、ヴィオレットは続けた。その口元に、わずかに皮肉な笑みが浮かぶ。
「ですが、殿下。革新派の子爵家ご令嬢では、我が国の王妃の座は務まりかねますわ。ロワナール王国は三公爵家を中心とした派閥の均衡の上に成り立っております故、保守派閥筆頭たるグランブータン公爵家と、それに次ぐボーフォール侯爵家の支持は不可欠。
わたくしが次代の王妃として選ばれたのも、偏にその政治的な背景あってのこと。殿下がそれを理解していらっしゃらないはずはございませんわよね? わたくしは妃教育で、嫌というほど叩き込まれましたもの」
ヴィオレットの静かな声は、会場の隅々にまで届いた。それは王子を糾弾する言葉である以上に、彼自身が置かれた立場と、その選択が持つ意味を問い直すものだった。オーギュスタンは、ヴィオレットの言葉に息を呑み、顔色を失った。
「にも拘らず、殿下は、ここにいらっしゃる皆様の前で、王家から選ばれた婚約者を、一方的に、かつ理由も不明瞭なまま破棄なさり、革新派の子爵家ご令嬢と『真実の愛』を宣言なさいました」
ヴィオレットは首を傾げ、まるで理解できないものを見るような眼差しで王子を見つめた。
「……それは、つまり、王太子の地位、ひいては王位継承権と王族の身分をお捨てになって、子爵家に婿入なさるか、あるいは辺境にでも隠棲なさる、という覚悟あってのこと、と理解してよろしいでしょうか?
そのような『真実の愛』に裏打ちされたオーギュスタン様の揺るぎない決心、まるで一幕の劇を見ているかのようで、感服いたしましたわ。素晴らしいです。
『真実の愛』とは、自己犠牲を厭わず、とても美しゅうございますわね」
完璧な淑女の微笑みを保ったまま、ヴィオレットは紫水晶のような輝きを持つ菫色の瞳で王子を凍てつかせた。
周囲の生徒たちは、ヴィオレットの言葉の真意を理解し、ざわめきが再燃する。王子の「真実の愛」が持つ政治的な意味合い、そしてそれが彼自身の破滅に繋がる可能性に気づき始めたのだ。
ロザリーもまた、ヴィオレットの冷徹な視線と、周囲のざわめきに、先程までの余裕を失い、不安げに王子の腕にしがみつく。その表情には、焦りの色が濃く浮かんでいる。
ヴィオレットはロザリーに視線を向け、容赦なく言い放った。
「そして、レジェモン様。婚約者がいると知りながら殿下にお近づきになり、『真実の愛』と称してこの場を設けさせたこと。それは、単なる不品行では済まされませんわ。
王家の選んだ婚約者であるわたくしと、ボーフォール侯爵家への侮辱であり、王家の権威への明白な挑戦と見なされても仕方ありません。
子爵家のご令嬢では王妃の座は務まりませんが、王太子殿下の不品行の相手として、そしてわたくしへの名誉毀損の共犯者として、レジェモン子爵家にはボーフォール侯爵家から相応の賠償請求を致しますので悪しからず」
静かに、しかし突き放すような言葉。ロザリーは顔色を蒼白にし、震えが止まらないようだった。
クラリスは、ヴィオレットの隣で、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。そのエメラルドグリーンの瞳には、親友への強い信頼と、彼女を支えようとする意志が表れていた。そして、ヴィオレットの強さに、感嘆の色も宿っていた。
会場の後方では、教師たちが王家の従者と何やら話し込んでいる。事態の収拾に向けて動き出しているようだが、もはやこの場の流れを止めることは難しいだろう。
ヴィオレットは、最後にオーギュスタンに視線を戻し、静かに、しかし会場全体に響き渡る声で告げた。
「第一王子オーギュスタン殿下、本日の殿下のご発言、そしてご行動は、ロワナール王家とボーフォール侯爵家の長年にわたる信頼関係を、根底から覆すものでございます。
なれど、殿下がそこまでお望みとあらば、この婚約破棄、謹んでお受け致しましょう。
ただし、この婚約は、両家の、ひいては王国の安定を願って交わされた、極めて公的な意味合いを持つもの。それをこのような形で一方的に破棄された責任は、明白に殿下、そして王家にございます。
わたくし個人、そしてボーフォール侯爵家が受けた名誉毀損と損害は、計り知れません。この件につきましては、父であるボーフォール侯爵にも詳細を報告し、王家からの正式な謝罪と、誠意ある対応を求めさせていただきます。
第一王子殿下ご自身の選択なのですから、よろしいですわね?」
それは、単なる被害者の訴えではなかった。侯爵令嬢としての権利と尊厳を守り、王家の責任を断固として追及するという、強い意志表示だった。
ヴィオレットは、言い終えると、オーギュスタンとロザリーに一瞥もくれず、背筋を凛と伸ばした。そして、傍らで心配そうに見つめるクラリスに、大丈夫だと伝えるように小さく頷きかけると、静かに、しかし堂々とした足取りで、大広間を後にし始めた。
王子の「真実の愛」が彼自身の地位を揺るがす皮肉、そしてヴィオレットの冷静かつ完璧な反撃――その全てが、会場に集まった人々の心に強烈な印象を残した。
彼女の背後には、呆然と立ち尽くす王子とロザリー、そして、静寂の後、再び大きな動揺とざわめきに包まれる会場が残されていた。
舞踏会の音楽は、もう鳴り響くことはないだろう。ヴィオレット・ボーフォールは、自らの手で、運命の歯車を大きく回し始めたのだ。
ヴィオレットを先導し会場を後にするレオン。普段は鋼のように揺るがぬはずのその背中に宿る、かすかな震えを、彼女はただ静かに見つめていた。
【応援よろしくお願いします!】
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「もっとやったれ!」
「ヴィオレットとレオンはこの後一体どうなるのっ……!?」
と思ったら
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援お願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当にうれしいです。
執筆の励みになりますので、何卒よろしくお願いいたします。




