誰が為に鐘は鳴る?
六層北区の門前に辿り着いた時には、砂時計は三時間経過の目盛りまで埋まっていた。
淹れて貰った香茶で一息入れて、地図を囲みながら北区市街地の進み方を皆に説明する。
「大通りには番犬、小路は影魚が配置されています。犬に見つかると、住人を巻き込んで襲ってきますので要注意です」
「この犬の絵と、魚の絵ですね」
「はい。犬は感知範囲が十五歩目安。魚は床に掛かる体重で判断して襲ってきますね」
「なるほど。なら、ここまで進んでから、こっちの路地を通って……」
アーダさんが食い入るように地図を眺めつつ、指でなぞりながら進路を選んでいく。
やがて中央の大穴までの道を暗記したのか、顔を上げて僕を見ると静かに嘆息した。
「いや……これは良く調べてますね。驚きました」
「まだ多少の誤差がありますので、その辺りは注意してください」
番犬の挙動を完全に掴み切れてない箇所もあるが、すでに大穴まで三度辿り着いている。
ここはもう、さほど心配するような難所ではなかった。
問題はこの先だ。
「この大穴ですが、龍の縄張りになっています。下階段が途中で途切れてまして、入り込むと簡単に逃げられません」
やや楽観的なムードに包まれていた小隊の空気が、僕の言葉で急速に凍り付いた。
静まり返ったメンバーを前に、淡々と話を続ける。
「龍に見つかれば、ほぼ即死します。こちらの攻撃は全く歯が立ちませんし、吹雪の吐息の範囲が広すぎて逃げられません。こっちの視界に入った時点で、だいたい死亡確定です」
黙り込む皆の顔を眺めると、鼻から大きく息を吸い込んだアーダさんが恐る恐るといった感じで口を開いた。
「……他に道は、ないのですか?」
「あると思いますよ。鐘塔に小隊が居る以上、穴を迂回する道が存在するはずです。ただ……」
「ただ?」
「その方法が分かりません。色々と試してみたいところですが、もうあまり時間がありません。なので……」
「なので?」
「何とか龍をすり抜ける方向で行こうかと」
半ば慣れつつある狂人を見るようなアーダさんの目付きをスルーしながら、僕はもう一枚の地図を広げた。
最初の鐘が鳴る前に、説明と説得を済ましておきたいところだ。
「こちらは穴の中の見取り図です。穴の中央にも、また大きな穴がありました。龍はこの穴に沿って周りをぐるぐると動いています」
ようはドーナツ型の段差になっているといった感じか。
穴の側には近寄れなかったので、さらに下に進める階段があるかまでは確認できていない。
「穴底は霧が濃すぎてほぼ、見通しが効きません。さらに龍は足先が霧状になってまして、足音が一切しません。動きも不規則なので、予想も出来ません」
「なんとも厄介じゃのう」
「逆に考えれば龍も同じ条件だから、見つからないように行けるはずなんだけどね」
「そうではないと?」
「龍の頭にぐるっと大きな膜上の襞がついてまして、それが音を拾っているみたいです。龍が動いたあとに足跡代わりに霜が降りるのですが、これを踏む音を捉えて襲い掛かって来ます」
霜は時間が経つと消えるのだが、それでも動き回る龍のせいで張ってない場所を探す方が難しい。
少しでも霜を踏んでしまえば、音を聞きつけた龍が近寄ってくる。
「それではどう頑張っても、ここを通り抜けるのは不可能では……?」
「ええ、普通に歩けば無理ですね。なのでここはイリージュさんに頑張って貰います」
ミミ子を膝に乗せて一歩引いた位置で地図を覗き込んでいたイリージュさんは、僕に名指しされて驚いたように顔を上げた。
前髪の下に隠された目を、大きく見開いている。
そして皆の注目を集めることで赤みを帯びた彼女の褐色の肌は、僕の言葉を理解したのかあっという間に青く変わった。
▲▽▲▽▲
視界一面を占める真っ白な霧のカーテン。
風になびくようにゆらゆらと動いていた霞が、突如ふわりと舞い上がる。
はためく霧の奥から顔を出したのは悪戯な風ではなく、鱗に覆われた巨大な顔であった。
のっそりという言葉が似合う速度で、龍の身体が霧の奥から現れる。
全体から見れば細長い首。
太くどっしりとした四本の脚。
背中に生える無数の樹氷と、体の側面に規則正しく並ぶエラ。
すらりと伸びた棘だらけの尻尾。
改めて見ると――デカい。
龍を間近に見て、しみじみと感じた僕の気持ちである。
人に己の小ささを実感させるのは、こんな風に単純に馬鹿でかいモノを見せ付けられた時が、一番効果があるのかもしれない。
龍は物音を一切立てぬまま、滑るように床の上を進む。
特大の重量に引っ張られて、霧が次々と波打ちながら濃淡を描き出す。
美しい異形が織りなす光景に目を奪われながら、僕は安全圏でそれを鑑賞出来る喜びを痛切に噛み締めていた。
うん、これ龍見学ツアーとか開催したら、お金取れるレベルだよ。
龍はこちらへ見向きもせず、霧の奥へ静かに姿を消していく。
その通り過ぎた跡は、一面出来立ての真っ新な霜に覆われていた。
無事、龍との遭遇を回避できた僕たちは、意気揚々と穴の奥へ進み始めた。
足元では踏み潰された霜が次々と崩れていくが、誰もその行為に恐れを抱かない。
僕らを覆う揺るぎない静寂に、思わず漏れかけた鼻唄を堪える。
完璧に効果を発揮してるとはいえ、あまりイリージュさんに負担がかかるのは不味い。
「外部からの音が遮断できるなら、内部からではどうですか?」
それがここに来る前に、イリージュさんに尋ねた僕の言葉だ。
結果として生まれたのが今、僕らを包み込む全く音のしない空間である。
この新しい機能が加わった風陣のおかげで、龍が徘徊する危険エリアでもスイスイと歩けるという訳だ。
問題点があるとすれば、音が全然しないので全て身振り手振りで伝える必要があること。
あとはイリージュさんの体力では、長時間の維持が出来ないくらいかな。
もっとも穴底を横切る程度なら、余裕で行けるよとミミ子が太鼓判を押してくれたが。
当のイリージュさんは、僕の期待に応えることに一杯一杯になってしまったようで、喋るどころではないらしい。
今も祈るように両手を組み合わせたまま、真剣そのものな顔付きで風陣の維持に注力してくれている。
地図を覗き込んでいたアーダさんとミミ子が、僕らに振り返り大きく手を前に指し示す。
進路は定まったようだ。
あとはもう少し。
ここを抜ければ、塔はすぐそこだ。
期待に満ちた一歩を踏み出した僕の腕がその時、突如きつく締め上げられた。
何事かと見下ろせば、腕に巻き付いたシャーちゃんが大きく口を開けている。
たぶん唸っているのだろうか。
音が聞こえないせいで、あくびをしているだけに見える。
どうしたのと声を発しかけて、届かない事実を思い起こす。
同時に、前にも似たようなことがあった事実が脳裏に蘇る。
あの時は確か、ネズミ退治中で――。
一斉に降り注いできた凄まじい音量に、僕は思わず背筋を伸ばした。
そうだ、あの時も鐘が鳴ったんだ。
塔の真下に近い位置な上に、穴の側面に反響でもしたのか、鐘の音は恐ろしいほどの響きとなって僕らの耳に襲い掛かってきた。
なるほど出した音を打ち消す代わりに、外からの音は筒抜けになるのか。
感心している間も、シャーちゃんの締め付けはどんどんきつくなる。
何か凄く危険な予感が、僕の背中を駆け上がった。
今すぐ走らないと――。
動こうとした僕はそのまま、前につんのめった。
靴が動かなかった。
慌てて視線を足元に向けると、そこにあったのは床に凍り付いた黒豹の長革靴の姿であった。
立ち上がろうとして、袖が床に貼り付いて取れない事実に気付く。
窮屈な姿勢で振り返ると、霧が急激に晴れていく光景が目に飛び込んできた。
霧の奥に浮かび上がる巨体。
その胴体にずらりと並ぶエラに、霧が瞬く間に吸い込まれていく。
鐘の音に気を取られて気付くのが遅れたが、すでに僕らの周囲の空気は息をするのも辛いほどに冷えきっていた。
さらに僕の足を床に縫い付けた霜は、見る見る間に厚みをまして広がりつつある。
このままでは途轍もなく不味いってことは頭の隅では理解しているが、身体が固まったように動かない。
いや事実、床に凍り付いてしまっているのだが。
僕らの視線を集める中、龍は鐘の音が鳴り響く穴の空に顔を向けた。
その体内に大量の霧を抱え込んだまま、存在しない眼で塔を睨み付ける。
膨れ上がった龍の胴体が、一気にしぼみ――。
天に向けて、沈黙の咆哮が発せられた。
五月蠅い程に鳴り続いていた鐘の音が、一瞬でその静寂に呑み込まれる。
真っ白に吹き出す霧の嵐が穴の中を荒れ狂い、全ての音が凍りつき消え失せる。
あれほど鐘の音が響いていた大穴は、龍の発した白い霧によって静穏をあっさりと取り戻した。
そして極低温の白い波が無音で僕らに圧し掛かってくるのが、巻き戻す寸前に見えた最後の光景だった。




