霧の源
穴底へ続く階段は、下るごとに静けさと暗さを増していった。
同時に周囲を包む霧が濃くなり、肌を刺す寒気も次第に増していく。
冷えと緊張で強張る頬の肉を、顎を上下させてほぐしながら、僕は前を歩くアーダさんの背中に気持ちを集中させた。
豚鬼の女性は壁に手を突きながら、一歩一歩足元を確かめつつ階段を下りていく。
影人相手には物怖じする素振りを全く見せなかったアーダさんだが、穴の奥の気配にはかなりの慎重さを示していた。
数歩下っては左右を窺い、背後の僕らを確認してからまた進む。
その警戒を高める姿に、僕らもいつしか息を潜めていた。
誰一人、声を出さないまま、穴の側面に作られた階段を黙々と下りていく。
五分、いや十分ほど時間が過ぎた頃であろうか。
不意にアーダさんが足を止めた。
階段からグッと身を乗り出す姿勢を見せた後、振り返って僕を手招きする。
「どうされました?」
「行き止まりですね」
アーダさんが指し示す先を見ると、階段が数段下から唐突に消え失せていた。
首を伸ばして覗き込んでみたが、真っ白な霧が広がっているだけで、階段の続きや床らしきものは見当たらない。
「他に進めそうな場所はなさそうですね。飛び降りるのは無茶かな」
「そうですね。行けるかどうか、確かめてみますか」
アーダさんが背負い袋から取り出したのは、先端に鉤爪が付いた丈夫な縄であった。
まずは爪部分を下にして、そろそろと縄を伸ばしていく。
しばらくして何かに当たったようで、アーダさんが腕を止める。
軽く縄を振ったのか、先端が堅い物に当たる音がかすかに響いてきた。
結果に納得したのか、アーダさんは縄を手繰り寄せる。
その際に両手を広げて、縄を手元に戻しながら距離を測っていた。
二回その動作を繰り返したので、だいたい身長の二倍ほどのようだ。
「まず私が下りてみます。大丈夫なら合図しますね」
ランタンを取り出して腰帯に下げたアーダさんが、鉤爪を階段の端に引っ掛けた縄をスルスルと下り始めた。
数秒も経たずに灯りが止まり、円を描くように動き出す。
「意外と浅いようじゃのう」
「ミミ子は僕が背負って下りるよ。イリージュさんは一人で下りれますか?」
「が、頑張ってみます」
サリーちゃんが縄をあっさり伝って霧の中へ消え、その後を僕とミミ子が続く。
僕らが地面に下りるのを見届けたアーダさんが、ランタンをくるくると回す。
少し時間をおいて、縄にしがみ付くように下りて来たイリージュさんを受け止める。
全員が無事、穴底へ下りれたので、改めて辺りを見渡してみた。
ここも真っ白な霧が立ち込めており、数歩先の様子も分からない有り様だ。
見上げてみると、真上から差し込む発光石の光にうっすらと階段の輪郭が浮かんでいた。
注意していれば、見落とすことはなさそうだ。
「このまま壁沿いに進んで、上がり階段を探しましょう」
体の芯まで凍り付きそうな空気の中を、僕らは静かに進み始めた。
異変が起きたのは、歩き始めて間もなくしてからだった。
先頭を歩くアーダさんの足元から、シャリと何かを踏み潰す音が響く。
ついで僕の足下からも、同じような音が鳴り始める。
霜であった。
地面の冷たさに凍り付いた霧が、氷の結晶と化し床を覆っていた。
明らかな何かの前触れに、僕らは無言で顔を向き合わせる。
だがここで立ち止まるのは、墓穴に横たわるのと同意義だ。
進むか引き返すしかない。
黙って大きく頷く僕の所作に、アーダさんは無言で前に向き直った。
早く階段が見つかれと懸命に祈りながらも、ゆっくり慎重に足を前に運ぶ。
氷を踏み崩す音を立てながら、僕らは白い霧の中を行進し続けた。
緊張で胸が痛いほど締め付けられる。
指先が小刻みに震えているが、それが寒さのせいなのか、それとも焦りが産み出しているのかさえハッキリしない。
冷たい霧に晒され続けた肌は、もう半ば感覚が失せていた。
頬にかすかに当たる風だけが、辛うじて前に進んでいる実感を与えてくれる。
……………………風?
顔を上げた僕の視界を埋め尽していたのは、途轍もない大きさの白い塊であった。
ソレが動くことで霧が風となって、僕らの方へ吹き寄せていたようだ。
霧が形を持ったようなソレは、いつの間にか僕らのすぐ傍らまで近付いていた。
何かを探すように動く頭部が、僕らを見下ろす。
いやその言い方は、間違っている。
こちらに向けられたソレの顔には、眼球らしきものは特定できなかった。
代わりに蜥蜴のように長く伸びた顔面は、全て純白の大きな鱗にびっしりと覆われていた。
首元まで裂けた口には、氷柱のような牙が隙間なく並ぶ。
遥か高みにある頭部からは、数本の太い角が突き出していた。
角と角の間に張られて扇状に広がる膜は、孔雀の羽根を思い起こさせる。
その角の一本が僕と同じくらいの大きさだと言えば、だいたいの感じは伝わるだろうか。
長い首にはエラらしきものが並び、小山ほどの胴体に繋がっている。
白い体表は無数の細かい針状の氷、樹霜を纏うせいで、霧を透かすほどに光を反射していた。
呆然と見上げていた僕の視線が、モンスターの足元へと移動する。
そこにあるはずの四本の脚の先は、霧の中へ消え去っており輪郭も覚束ない。
いや足首より下は霧で隠されているのではなく、霞のように煙状となって床へ伸びているようだ。
だからこの距離まで近付かれても、足音が一切聞こえなかったのか。
ソレは迷宮を挑む者なら、誰もが知っている存在。
出逢った不幸を嘆き、自らの儚い定めを否応なしに認めさせるモノ。
絶望的な力の差を痛感させる偉容の主。
龍である。
ごくりと生唾を飲み込む音が、大きく響き渡った。
身動ぎを忘れていた僕は、その音に正気を取り戻す。
音の発生源であるアーダさんは、大きく目を開いたまま小刻みにその身を震わせていた。
そっと首を回して振り向くと、サリーちゃんと目が合う。
黒髪の少女は、無言のまま首を左右に振った。
そして視線を龍に戻しながら、鞭を静かに構える。
その横ではイリージュさんが、蒼白な顔色のまま龍を仰いでいた。
卒倒しない分だけ、彼女も成長しているのか。
僕の本能が、激しく逃げろと喚き始めていた。
それに必死に抗いながら、弓を持ち上げる。
もしコイツが僕の障害になるというのなら、排除するためにどんなちっぽけなことでも覚えて帰らねばならない。
手の内で小蛇が、矢に姿を変える。
一歩前に出た僕の足の裏で、踏み潰された霜が小さな音を立てた。
その瞬間、龍の首がぐるりと動いた。
頭部に生えた頭飾りが、真っ直ぐ僕に標準を合わせてくる。
そうか、アレが耳の代わりに音を拾い上げるているのか。
ちらりと脇を見ると、アーダさんが信じられないといった顔で僕を見つめていた。
心の中で謝罪しつつ、意識を龍と背中のミミ子の温もりに集中させる。
僕の存在を察知したらしい龍は、大きく首を仰け反らせた。
その側面に並ぶエラが次々と開いていき、周囲の霧が吸い込まれていく様が目に映る。
次に何が起こるかなんて、どんなに無謀で愚かな人間でも察しがつく。
龍の鼻腔の周りでは、細かい氷の粒がダイヤモンドダストとなって煌めき始めていた。
「来い!」
腰を大きく落とした僕は、限界まで捩じ上げた弓を天へ向けた。
龍の顎が大きく開く。
――命止の一矢・貫!
渾身の一矢が、霧を貫いた。
同時に龍の口から、真っ白な霧が凄まじい勢いで吹き出す。
それは龍の口の上蓋を目指す紫の矢を瞬時に凍り付かせ、そのまま僕らに襲い掛かる。
全ての動きが止まるほどの冷気が辿り着く寸前、僕は小さく舌を動かして戻れと呟いた。
霧氷龍―階層不適切モンスター。音で獲物を察知して、極低温の霧のブレスを浴びせるのが趣味




