束の間の休息
「こうなっていたのか……」
六層北区の市街地を抜けた先にあったのは、ぽっかりと広がる巨大な穴であった。
市街地はいきなりそこで終わり、消え失せた地面の行方は霧の彼方へ隠されてしまっている。
穴の縁は綺麗に切り抜かれたかの如く滑らかで、そこから白壁が垂直に下方向へ伸びていた。
どうやら陥没とかではなく、こういう設計のようだ。
ただ防護柵も注意書きもないので、脇見していたら穴底へ真っ逆様だろう。
穴の中は霧が立ち込めており、何一つ輪郭らしきものは見い出せない。
ちょうど穴の縁まで霞に覆われているせいで、白く広がった平面が広場や池に見えたという訳だ。
道が穴に沿って左右に続いていたが、左側は城壁の階段に繋がっており、そのまま壁の上部へ行けるようになっていた。
なるほど、ここから城壁の上を歩けるのか。
ニニさんたちが影花を倒して、萎びた球根を手に入れた場所がようやく判明したな。
だが今は、ここに用はない。
城壁に上がってすぐに、アーダさんに党員指輪を鳴らして貰ったのだ。
しばらく待っても、返事は返ってこなかった。
遮蔽物がない場所なら、音叉の響きはかなりの距離まで届くらしい。
となると残された場所は、やはり中央にそびえる鐘塔の内部しかない。
問題はそこへの道であった。
穴縁の右通路は、行き止まりだった。
こちらは道が陥没したかのように途切れており、切り立った崖が終着点となっていた。
霧を透かして見ると、二十歩ほど向こうにも崖のような勾配が浮かんで見える。
飛び移るには、少し無理がある距離だ。
宙を飛ぶ以外に進めそうもない道だが、きちんと他のルートも用意はされていた。
行き止まりの崖から折り返す感じで、穴底への下り階段が伸びている。
向こう岸にも、穴の側面に続く階段が確認できた。
つまり一度、穴底まで下りて、反対側の階段を上がってくる必要があるということか。
道の突き当たり、階段とは逆側の壁に薔薇の花を模した大きな彫刻があり、そこからぽたぽたと水が漏れ出していた。
花蜜のように垂れる水流を、その下に突き出した水盤が受け止めている。
「これは泉かな?」
「ちょっと調べてみますね」
そう言いながらアーダさんが腰のポーチから取り出したのは、青銅で出来た犬の置物であった。
手の平サイズのそれを、水滴に近付ける。
「反応なしですね」
「それ、なんですか?」
「え、これをご存知ないのですか?」
話を聞いてみると、その『臆病な犬の像』は凄い便利な代物だった。
罠感知と悪意感知が組み込まれた古代工芸品で、身の危険を感じると震えて持ち主に知らせてくれるのだとか。
難点は反応するのが罠や危険な仕掛けのみで、モンスターは感知してくれないことと、少しばかり重いこと。
あと震え過ぎると、たまに壊れてしまうらしい。
その辺りを考慮に入れても、十分に役に立つ品だ。
値段も金貨一枚と手頃だし。
サラサさんが教えてくれても良いような魔法具だが、酷い罠に掛かった場合は大体、巻き戻してしまうので、僕には不要と思われていたのかも。
まあそれはともかく、次は買っておこうと心のメモに記しておく。
噴水は安全だと分かったので、ここで一度休憩を入れることにした。
北区の市街地を急いで抜けたせいで、皆かなり消耗している。
久々に全力で走ったらしいミミ子なんて、敷布を広げるなり尻尾に丸まって寝息を立て始めるほどだった。
霧の海の向こうに浮かぶ鐘塔を眺めながら、熱いスープを腹の底に流し込む。
アーダさんが目を丸くして、ハンバーガーにかぶりついていた。
敷布で寝こける女の子たちをイリージュさんにお任せして、カップを片手に穴底を覗き込んでいると、もぐもぐと咀嚼中のアーダさんが傍らにやってくる。
「どうですか? うちの小隊は」
「驚くことばかりですよ……。これもですけど、他所とは違うことばかりで」
半分ほど齧ったハンバーガーを持ち上げながら、豚鬼の女性は複雑な表情で頷いて見せた。
「よく今まで……いえ、そうならない何かをお持ちなんですね。……姉御の目に狂いはなかったってことですか」
鼻の頭に皺を作るアーダさんに、僕は苦笑いを浮かべた。
流石に今回は、ちょっと強行軍が過ぎたか。
僕の表情を確認したアーダさんは、さり気なく視線を逸らし後ろを振り返る。
「でも一番驚いたのは、アレですよ」
視線の先にあったのは、黒長耳族のお姉さんと狐っ子にべったりとくっついて眠るサリーちゃんの姿だった。
「あのだんまりっ子が、あんなに懐いているのがねぇ」
「だんまりっ子?」
「昔の渾名ですよ。当時は色々と悪目立ちしてましたから。話しかけても何一つ答えない。それどころか昏い眼でじっと見てくるもんだから、待合室じゃ気持ち悪がられてて……」
「ああ、まだニニさんと一緒に潜っていた時期ですね」
そういえばアーダさんは、その頃からの現役だったな。
迷宮都市に来たてのサリーちゃんは、今と全然違っていたとニニさんに聞いたことがある。
人間不信で疑り深く、側仕えのニニさんたち以外とは意思を疎通させる気が皆無だったとか。
あと紐で閉じた口は、ずっとマスクをして人には見せてなかったらしい。
そこは流石に常識があったというべきか。
まあ他の印象が強すぎて、分かる人にはすぐばれてしまったようだけど。
豚鬼の女性は、つぶらな目を細めながら言葉を紡ぐ。
「前の姿からはもう別人ですよ。ホント、ナナシの旦那は人たらしですねぇ」
サリーちゃんの言動は、傍若無人に見えてどこか他人を計る節がある。
率直だが、こっちを試して反応を窺っているような。
……なんとなく猫っぽいんだよなぁ。
懐に簡単に入ってくるくせに、触ろうとしたらスルッと出ていく感じが。
ぼんやりと考え事に耽ってしまった僕に、アーダさんは急に声を落として尋ねてきた。
「ところで、旦那はここを下りる気ですか?」
「はい。他に道はありませんし、そのつもりですよ」
まじまじと僕を見つめた後、歴戦の盾持であるアーダさんは深々と息を吐き出した。
「止めた方が良いって言っても、お聞きしないんでしょうね」
「確約は出来ませんが、きっと何とかなりますよ」
僕の言葉に豚鬼の女性は、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「私の鼻が絶対に立ち入るなって言ってますが、ここはあの子たちに倣って、私も旦那を信用させて頂きますよ」
「……ありがとうございます」
やはりよっぽどの何かが、潜んでいるのか。
背筋にまで霧が入り込んだ気がして、僕は人知れず背中を震わせた。
「結構、深そうですね」
「それに距離もありそうですよ」
階段の角度からして、穴の深さと幅はさっと通り抜けられるレベルではなさそうだ。
「ちょっと試してみますか」
霧に埋もれる穴底に、余っていた鐚銭を投げ入れてみる。
二秒ほど後に音が返ってきた。
だいたい建物の三階ぐらいか。
ただ問題は、その音であった。
コツンでもチャリンでもポチャンでもない。
パリリっと何かが崩れるような奇妙な響き。
「何の音でしょうか」
「何でしょう。聞き慣れない音ですね」
「おーい、ミミ子、イリージュさん」
こういう時は、耳が良い彼女たちの出番だ。
十歩ほどしか離れてないはずなのだが、なぜか返事がない。
もう一度呼び掛けると、空を見上げていたイリージュさんが慌てた顔をこちらへ向ける。
だが相変わらずミミ子は、だらしなく寝顔を晒したままだ。
あまりにも不自然なので、近寄って声を掛けてみる。
「ミミ子、狸寝入りか?」
「ふぁぁぁ、な~に~?」
「どこか具合が悪いのか? 二回、呼んだぞ」
僕の問い掛けにミミ子は、目尻に小さく涙を浮かべながらゆっくりとあくびを継続する。
脳に酸素が行き届いたのか、すこしだけ真面目な顔になったミミ子は、周りを見回しながら耳を小さく揺らしはじめた。
そして獲物を探すような視線は、柔らかい太ももを枕に提供してくれていた女性にぴたりと定まる。
じっとりとミミ子に見つめられたイリージュさんの顔から、血の気が引いて褐色の肌が青褪めていく。
「も……もも、申し訳ありません! お休みの邪魔をしてはと思い――」
「やっぱりイリージュの仕業かぁ~」
「どういうこと?」
「たぶん、音消してたでしょ? 大丈夫、怒ってないから」
「……はい、ミミ子様やサリドール様がお休みの時は、音が届かないように……その、静かにしてました」
「なんと。器用なことが出来るのう」
なるほど風の精霊を使って、空気の振動を止めていたのか。
そこまで干渉できるとは、便利過ぎて逆に不安になるな。
「あ、もしかして、ミミ子が鐘の音が聞こえなかったのって」
「それっぽいね~。その時、大声出してなかった?」
「してたよ。世襲組の人たちと、話し合い中だった」
「決まりだね。私が聞き逃すなんて、あり得ないと思ってたよ~」
そこでさらに気付く。
「だったら初回の時に鐘の音が聞こえなかったのも、イリージュさんの仕業か」
「ふ~む。可能性はあるね」
謎が解けたので、かなりスッキリした気持ちになる。
ミミ子とハイタッチしてると、巻き込まれて起こされたサリーちゃんが不思議そうに声を上げた。
「それで、何用だったのじゃ?」
「そうそう、忘れてた。ちょっと三人とも、こっち来てくれるかな」
穴の縁まで来て貰い、再び鐚銭を投げ入れる。
霧の奥から響いてきた音の感想を尋ねてみた。
「変な音だね~」
「聞き覚えがございません。お役に立てなくて申し訳ありません」
「気にしないで下さい、イリージュさん。サリーちゃんはどう?」
難しい顔をしているサリーちゃんに、あまり期待せずに尋ねる。
腕を組み胸を張るいつものポーズをとった少女は、唸るような声で答えてくれた。
「うむむ、北の地で散々聞かされた音じゃ。これは雪か霜が張っとるのう」




