鏡の世界とお約束
自分の顔をまじまじと見たことなんてなかったが、改めて眺めてみると本当に眠そうな顔つきだ。
これは垂れ気味な目が悪いのか、いやちょっと目蓋も重そうな印象があるな。
じっと鏡に映る自分を見つめていると、背中から伸びてきた白い指が僕の目尻をキュッと持ち上げた。
うーん、ちょっとだけ男前になった気がする。
「気のせいか」
「気のせいだよ~」
「ミミ子は良いよなあ。目元がばっちし、切れ長だし」
「そうでもないよ」
ミミ子は僕の肩に顎を乗せたまま、面倒そうに呟いた。
そのほっぺたをつまんで、優しく引っ張る。
伸びた餅のような顔になったミミ子が、抗議のつもりなのか唇を尖らせた。
変な顔になっても可愛いなんて反則だな、ホント。
「この隠し通路も、これで最後かな?」
「さぁ?」
「最後の番人はなんだろうな? 筋肉ムキムキな人とか居そうだよね」
「居るかもね~」
「その後は何があると思う?」
「また同じような通路じゃないの~」
「ところで僕の忘れている記憶って?」
「秘密だよ~」
鏡の中の狐っ子は、気怠そうな顔のまま小さく鼻息を立てた。
珍しくミミ子から絡んできたので、流れでいけるかと思ったんだが甘くないな。
「そろそろ教えろよ~、良いだろ~」
「秘密~」
「いえよ~」
「いわない~」
相変わらず強情だ。
去年、意味深に僕に忘れている記憶がある的なことを言っといて、ミミ子はそれっきりその件には口をつぐんでいた。
仕方がないので、ベッドに押し倒してくすぐりの刑に処したところ、息も絶え絶えになりながら少しだけ漏らしてくれた。
ミミ子曰く。
僕には、僕自身も忘れている重要な記憶がある。
それを思い出すことで、僕の身に何か変化が起きるらしい。
だけど事前に色々、内容を知ってしまうと、インパクトが薄れて変化が起こらないかもしれない……そうだ。
僕としては別に変化を望んでいないのだが、ミミ子にとってはかなり大事なことらしい。
ただその辺りの詳しい事情も、僕の記憶に絡んでるからと教えてくれなかった。
…………なんだかなぁ。
鏡に映っているのは、ただの平凡な若者だ。
ちょっと変わった力はあるが、英雄のような存在とは程遠いごく普通の中堅探求者だ。
身の程を超えた望みもなく、家族のみんなと平穏無事に生きていければ満足する。
そんなありふれた人間。
もっとも強くなることに関しては、最近かなり楽しくなって来た事実もあるが。
強い相手を打ち負かした瞬間の、あの脳みそが沸き立つような感覚はなかなか中毒性が高い。
だからといって、危険依存症になる気はない。
僕の目標はあくまでも金板を取って、楽してがっつり儲けてのんびりできる人生だ。
まあそう言いながらも、地道な経験値稼ぎじゃなく、この隠し通路を選んでいる時点で矛盾しているが。
何か釈然としない。
自分が知らないうちに、動かされているような感覚。
僕はどうしてここに居るんだろう?
しかし鏡の中の僕は、疑問に答える前に消え失せた。
目の前の鏡壁が透き通りながら、空気に溶けるように姿を消していく。
どうやら物思いに耽る時間は終わったようだ。
「よし、行こうか」
「あいさ~」
「はい」
「…………うん」
「は~い」
背中の狐っ子を背負い直し、僕らは鏡の迷路を再び歩き始めた。
右腕を伸ばして、鏡壁をしっかりと触ったままで。
四番目の隠し通路である、鏡の迷路は非常に面倒だった。
今までの通路と同じく、怪我を招くような罠やモンスターは配置されていない。
代わりにあったのは、ただひたすらに心をすり減らしてくる面倒臭さだ。
鏡張りの通路は細かく枝分かれしており、ほとんどが行き止まりの構造となっていた。
だが実際に近づいて触ってみないと、そこが袋小路かどうか判明しない。
なので右手を壁に触れたまま、ひたすら歩く作戦にでたのだが……。
触っていた鏡壁が不意に消えた時点で、その目論見は泡と消えた。
この通路は時間によって、一部の壁が現れたり消えたりしていたのだ。
流石にこの嫌がらせには、僕の心も折れかけた。
だが僕には頼りになる仲間がいた。
まず消える鏡壁だが、これは逆にヒントではないかとモルムが言い出した。
注意力抜群なモルムと、特別に目が良いミミ子のコンビで迷路をくまなく調べ始める。
その結果、消える鏡壁は他の箇所と比べて、微妙に色が薄いことが判明した。
鏡に色なんてあるのかと思ったのだが、ミミ子の金色な瞳にはわずかな違いが見えるらしい。
もしかしたら錐体細胞が、普通の人より多いのかもしれない。
消える鏡壁の色違いの報告を受けて頑張ったのが、リンとキッシェだった。
二人は行き止まりを全て調べ、鏡の迷路がそれぞれ区画で区切られていること。
一つの区画には、消える鏡壁が一つしかないことを突き止めた。
それだけ分かれば、後は簡単だった。
まず一つ目の区画に入り、色違いの鏡をミミ子が見つけ出す。
あとは消えるのを待って、次の区画へ移動する。これの繰り返しだ。
結局、一週間の試行錯誤を経て僕たちは、鏡の迷路をなんとかクリアーすることに成功した。
そしてようやく辿り着いた番人部屋で僕らを待ち構えていたのは、やっぱり鏡だった。
▲▽▲▽▲
「中に誰もいませんよ」
「いや、アレがある」
「あの大きな鏡ですか?」
「賭けても良い。あれが番人だよ」
四番目の番人部屋は、これまでで一番広い造りになっていた。
天井も高く、ちょっとした小ホールほどの広さだ。
部屋の中には誰の姿もなく、あったのは奥に置かれた大きな鏡だけであった。
もうこの時点で、オチが分かる。
「よし、さっさと確認して、無理なようなら撤退しますか」
まず盾を持ち上げたリンが、慎重に部屋に入る。
部屋の中に変化はない。
次にキッシェが入り、ミミ子を抱っこした僕が続く。
まだ変化はない。
最後にモルムが入ると、出入り口がぼやけたように歪み唐突に鏡壁が現れた。
今までの部屋にはなかった仕掛けだ。しかし普通の壁じゃ駄目なんだろうか。
そして部屋の奥の鏡にも、変化が起きていた。
姿見サイズの鏡の表面に、波紋が浮かび上がる。
それは最初は一箇所だけだったが、次第に数を増し全体へと広がり始める。
ついには鏡面全体が揺らぎ始め、鏡はあっさりと役割を放棄した。
最初に現れたのは腕だった。
ニョッキリと鏡の向こうから現れた手は、縁を掴み自らの身を持ち上げる。
足が踏み出され、頭部が水面を割るように現れる。
そのままソイツは全身を鏡から抜き出し、顔を上げて僕たちを真っ直ぐ見据えてきた。
こちらを睨みつける鋭い眼光。
きりりと引き締まった口元。
優雅さを併せ持ったしなやかな足の運び。
鏡の世界から現れたのは、全く見知らぬ男だった。
「あれっ? こんな時はコピーが出てくるのがお約束なんだけど……」
つい言葉を漏らすと、キッシェが驚きを隠せぬ表情で振り返った。
「あれ…………旦……那様…………がお二人?」
「…………兄ちゃんが、あっちから出て来た」
「隊長殿がいつのまに向こうに!」
え?
誰が誰だって?
いやどう見ても、あれは僕じゃないだろ。
この一週間、散々眺めて来たんだ。自分の顔じゃないことくらいすぐに分かる。
だが男が持つ装備に、僕は言葉を失った。
見覚えのある三つの弓が重なったデザインの真紅の弓。
腰には四段に重ねた矢筒が下がっている。
謎の男は僕らから視線を外さぬまま、弓を静かに持ち上げた。
「来るぞ!」
男は無造作に矢を掴みとり、弧を描く曲射をばら撒いてくる。
弓弦が唸りを上げ、連射を告げた。
二度、三度、四度、五度!
空を裂いて降り注いでくる百本以上の矢の雨を、僕は絶望に染まった眼で見上げた。




