2話 出勤
目覚ましが鳴る少し前に、キョウは目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。布団の中で手を握って、開く。指先にシーツの感触がある。毎朝これを確かめてしまう癖は、たぶんしばらく抜けないだろう。
家には、ほかに誰もいない。
父も沙耶もまだ病院にいて、三人で暮らしていたこの部屋は、キョウが一人で使うには少し広すぎた。台所でパンを焼いて、牛乳を一杯飲んで、流しに皿を置く。テレビをつけると天気予報が今日は晴れだと言っていて、キョウは上着を一枚だけ羽織って家を出た。
駅までの道は、まだ人が少ない。
改札を抜けていく人たちとすれ違いながら、キョウは駅の反対側へ回り込む。パチンコ屋の前を通り過ぎて、細い路地に入る。
少し前まで、この路地を内側からしか知らなかった。
戸の前で立ち止まり、引き戸に手をかける。
「おはようございます」
「おはよう」
カウンターの奥で、店主が帳簿を広げていた。こんな朝早くでも、いつもと同じ場所に、いつもと同じ顔で座っている。
キョウは上着を壁に掛けて、カウンターの内側に入った。
ここで眠り、ここで目を覚ましていた日々が、もうずいぶん昔のことのように思える。実際にはまだ、ひと月も経っていないのに。
「レイ、今日も来るって」
「外回りですか」
「たぶんね」
店主の言った通り、昼前になってレイが戸を開けた。
「行くよ」
挨拶もなしに、それだけ言う。
「まだ何も言ってないですけど」
「言わなくても分かるでしょ」
キョウは店主を見た。店主はひらひらと手を振っている。
キョウは上着を取って、レイのあとに続いた。
「今日はキョウが探して」
駅前のロータリーに出るなり、レイが言った。
「僕がですか」
「この前は見てるだけだったでしょ。今日は、この人だと思った人を私に教えて」
レイはベンチに腰を下ろし、足を組んだ。
キョウはその隣に立って、行き交う人たちを眺める。
この前より、少しだけ見え方が違う気がした。誰もが困っているように見えたあの日と違って、今日は一人ひとりの歩く速さや、目線の向きが少しずつ目に入ってくる。
信号待ちで、何度も腕時計を見ている男。
ベビーカーを押しながら、片手でスマートフォンを操作している女。
ベンチの反対側で、ずっと同じページを開いたまま本を読んでいない老人。
「あの人は」
キョウは老人の方を見た。
「本、さっきから一枚もめくってません」
レイは老人をちらりと見た。
「どう思う?」
「何かを考えてる顔だと思います。でも」
キョウは少しだけ言葉を探した。
「いらないものを抱えてる顔じゃない気がします。どっちかというと、何かを待ってる顔」
しばらくして、老人の前に孫らしい小学生が駆け寄ってきた。老人は本を閉じて、子どもの頭を撫でる。
「当たり」
レイが言った。
「客じゃないってことですか」
「うん。ちゃんと見えてるじゃん」
それから一時間ほど、二人で駅の周りを歩いた。キョウが「この人は」と言うたびに、レイは答えずに「なんで?」とだけ聞き返す。キョウが理由を話すと、レイは頷いたり、首を振ったりした。
当たることもあれば、外れることもあった。
外れたときも、レイは笑わなかった。
「お腹空いた」
昼を過ぎたころ、レイが唐突に言った。
「戻りますか」
「戻らないよ。食べてく」
レイは駅前の通りの先を指さした。チェーンのファミレスの看板が見える。
「外で食べたこと、最近ないでしょ」
キョウは少しだけ考えた。
店にいた間は、レイが持ってきてくれるものか、店主が用意してくれるものしか食べていなかった。その前の二年半は、病院の売店のおにぎりか、家で急いで流し込むものばかりだった。
ファミレスに入ったのがいつだったのか、思い出せない。
「……ないです」
「じゃあ決まり」
店の中は、昼時を少し過ぎて空き始めていた。
窓際の席に通されて、キョウはメニューを開く。写真がたくさん並んでいて、どれを選べばいいのか分からなくなった。
「迷ってる?」
レイが向かいからメニューを覗き込む。
「多いですね」
「多いよ。ファミレスだもん」
「レイさんは何にするんですか」
「ハンバーグ」
即答だった。
キョウはもう一度メニューを見て、結局レイと同じものを指さした。
「真似した」
「迷ったので」
「それ、私の台詞」
注文を済ませると、レイは立ち上がってドリンクバーの方へ歩いていった。キョウも慌ててそれに続く。
グラスに氷を入れて、オレンジジュースのボタンを押す。冷たいグラスが手のひらに張りつくような感触に、キョウは少しだけ驚いた。
席に戻ると、レイは自分のグラスにメロンソーダとオレンジジュースを半分ずつ入れていた。
「それ、混ぜるんですか」
「混ぜるよ。おいしいから」
「子どもみたいですね」
「うるさい」
ハンバーグが運ばれてくる。鉄板の上でソースが跳ねて、湯気が立ち上った。
キョウはナイフを入れて、一口食べた。
熱い。
それから、肉の味と、ソースの甘さと、少しだけ焦げた香ばしさが、順番に口の中に広がっていく。
キョウはしばらく、フォークを持ったまま動けなかった。
「どうしたの」
「いえ」
キョウはもう一口食べた。
「おいしいなと思って」
レイは何も言わずに、自分のハンバーグを切り分けていた。
窓の外を、昼休みの終わったサラリーマンたちが歩いていく。店の中には食器の音と、隣の席の家族連れの笑い声が響いている。
「妹さん、元気?」
レイが言った。
「昨日、五歩歩けました」
「五歩」
「先週は三歩だったので」
「すごいじゃん」
レイはそう言って、メロンソーダとオレンジジュースの混ざった飲み物をストローで吸った。
「そのうち、ここにも来られるようになるかもね」
「ファミレスにですか」
「うん。三人で来れば」
キョウはフォークを置いて、レイを見た。
レイは窓の外を見ていた。
「そのときは、レイさんも来てください」
「私は家族じゃないよ」
「沙耶が、レイさんにお礼を言いたいって言ってたので」
レイは少しだけ黙ってから、ストローを噛んだ。
「……考えとく」
食後に、レイはパフェを二つ頼んだ。チョコレートといちご。
「両方食べるんですか」
「迷ったから」
「最初から一つにすればいいのに」
「キョウ、いちごの方食べていいよ」
「いいんですか」
「そのために二つ頼んだんだよ」
言ってから、レイは少しだけしまったという顔をした。
キョウは何も言わずに、いちごのパフェを自分の方へ引き寄せた。
店に戻ったのは、夕方近くになってからだった。
「おかえり」
店主が帳簿から顔を上げる。
「ただいまー」
レイが丸椅子に座りながら言った。
「どうだった」
「ハンバーグ食べてきた」
「仕事は?」
「したよ。ちゃんと」
レイが答えると、店主は笑ってキョウを見た。
「客は?」
「ゼロです」
「だろうね」
キョウは上着を壁に掛けて、カウンターの内側に戻った。
帳簿を開くと、今日の頁はまだ白いままだった。
「でも」
キョウは言った。
「楽しかったです」
店主は少しだけ目を細めて、それからレイの方を見た。
レイはスマートフォンを眺めていて、何も言わなかった。




