1話 外回り
駅前のロータリーは、昼前の人通りで少しざわついていた。
キョウはベンチの端に座り、行き交う人たちを眺めている。スーツの男、ベビーカーを押す女、制服の高校生、杖をついた老人。誰もが自分の行き先だけを見て、足早に通り過ぎていく。
「どう?」
隣でレイが言った。片手に紙コップのコーヒーを持って、背もたれに深く寄りかかっている。
「どうって言われても」
「困ってそうな人、いた?」
「全員、何かしら困ってそうに見えます」
レイは小さく笑った。
「でしょ。困ってる人なんて、どこにでもいるの」
キョウとレイは、駅裏の路地にある小さな質屋で働いている。時計や指輪のような品物はもちろん、記憶や感情、身体の感覚まで、人が手放したいと思ったものなら何でも預かる店だ。
キョウは少し前まで、その店から一歩も外に出られなかった。自分の目も手足も記憶も、全部を店に預けていたからだ。今はそれを取り戻して、毎朝家から店に通っている。
外を歩けるようになったキョウに、店主はある日、何でもないことのように言った。
外回り、覚えてみたら?
それで今日、こうしてレイの隣に座っている。
「私が探してるのは、困ってる人じゃないんだよ」
レイはコーヒーを一口飲んだ。
「自分の中の何かを、本気でいらないと思ってる人」
「見ただけで分かるんですか」
「分かる人もいる。分からない人の方が多いけど」
レイは顎で、ロータリーの向こうを指した。
バス停の前に、スマートフォンを耳に当てた若い男が立っている。電話の相手に何度も頭を下げて、通話が切れると、画面を見つめたまましばらく動かなかった。
「あの人は?」
キョウが聞くと、レイは首を振った。
「怒られてただけ。明日には忘れてる」
それから、駅の階段の方へ視線を移す。
手すりにもたれて、階段の上を見上げている女性がいた。四十代くらいだろうか。上りかけて、また一段下りる。それを何度も繰り返している。
「あれは、ちょっと気になる」
「どうしてですか」
「行かなきゃいけないところがあるのに、行きたくない顔」
キョウは女性を見た。言われてみれば、そう見えなくもない。
「声かけるんですか」
「かけないよ」
レイはあっさり言った。
「私は直接話しかけないの。近くの人に聞こえるように噂を置いて、あとは本人が自分で探しに来るのを待つ」
「回りくどくないですか」
「いきなり知らない人に、記憶も預かる質屋がありますよって言われたら、どう思う?」
「……僕は直接言われましたよ」
レイの手が、紙コップの上で止まった。
「あれは例外」
「例外」
「普通はやらないの。怪しまれるから」
レイは目をそらして、残りのコーヒーを飲み干した。
「知り合いの知り合いが行ったらしい、って聞く方が、人は急に信じ始めるんだよ。同じ話なのにね」
そう言って、紙コップを潰した。
階段の女性は、結局上らずに、駅の外へ歩いていった。
レイはそれを目で追いかけたが、立ち上がらなかった。
「追わないんですか」
「今日はやめとく。迷ってる人は、一回帰らせた方がいいときもあるから」
キョウは少しだけ意外に思った。
前に店で聞いたレイの話では、見つけた客にはすぐ噂を置いているようだった。
「レイさん、前よりやり方変わりました?」
「さあ」
レイは肩をすくめる。
「キョウが一緒にいるからかもね」
それから、二人で駅の周りを歩いた。
病院の待合室、商店街の喫茶店、公園のベンチ。レイはどこに行っても、少し離れたところから人を眺めて、ときどき小さく首を振ったり、何かを覚えるように目を細めたりしている。
キョウは横で、同じものを見ようとした。
見えるのは、ただの人だった。
公園の砂場の近くで、ベンチに座っている若い父親がいた。膝の上でノートパソコンを開いているのに、画面は真っ暗なままで、ずっと砂場の子どもを見ている。
子どもが転んで泣き出すと、父親はびくりと肩を揺らした。けれど、すぐには立ち上がらない。
「あの人」
キョウは小声で言った。
「立ち上がるの、遅いですね」
「よく見てるね」
レイがちらりと父親を見る。
「疲れてるんだと思う。仕事か、家のことか」
子どもは泣きながら、父親の方へ歩いていく。父親はようやく立ち上がって、子どもを抱き上げた。泣き声が少しずつ小さくなっていく。
父親は子どもの背中をさすりながら、何度も何度も空を見上げていた。
「ああいう人が、たまに来るよ」
レイが言った。
「疲れを預けたいとか、子どもへの苛立ちを預けたいとか」
「預けたら、楽になりますか」
「なるよ。一応」
レイは少しだけ間を置いた。
「でも、店の外でどうなるかは、知ってるでしょ」
キョウは頷いた。
店で何年分もの客を見てきたわけではない。それでも、手放したものの代わりに、何か別のものまで失って帰っていく人たちを、何人も見送ってきた。
父親は子どもを抱いたまま、ベンチの方へ戻ってくる。
すれ違いざま、キョウは思わず声をかけていた。
「すみません」
父親が足を止める。
キョウは少し迷ってから、ベンチの端に置かれたままのノートパソコンを指さした。
「画面、ずっと消えてましたよ。たぶん、寝ちゃってるだけだと思います」
父親はきょとんとして、それから慌ててパソコンを覗き込んだ。キーを一つ押すと、画面に光が戻る。
「あ、ほんとだ。全然気づかなかった」
父親は苦笑いして、子どもを抱え直した。
「ちょっと、ぼーっとしてて」
「あの」
キョウは少しだけ言葉を選んだ。
「ちゃんと寝てますか」
父親は驚いたように瞬きをした。
「……最近、あんまり」
「たまには、誰かに預けて寝た方がいいですよ。子どもさんのこと」
父親はしばらくキョウを見ていた。
それから、小さく笑った。
「そうですね。妻に、そう言ってみます」
父親は子どもを連れて、公園の出口の方へ歩いていった。
レイは、キョウの横に立って、その背中を見送っていた。
「今の、何」
「何って」
「客、一人減らしたでしょ」
「店に来なくていい人だったと思うので」
レイは呆れたように息を吐いた。
「外回りって、客を探す仕事なんだけど」
「分かってます」
「分かってないでしょ」
レイはそう言いながら、少しだけ口の端を上げていた。
夕方、二人は駅裏の路地へ戻ってきた。
路地の入口の角に、小さなベンチがある。そこに、腰の曲がったおばあさんが一人で座っていた。
キョウが会釈をして通り過ぎようとすると、おばあさんが声をかけてきた。
「あんたたち、あの質屋の人かい」
キョウは立ち止まった。
「はい」
「そうかい」
おばあさんは路地の奥、店の戸がある方を見た。
「あそこ、まだやってるんだねえ」
「昔からご存じなんですか」
「私の母さんが若い頃から、あの戸はあそこにあったよ」
キョウは少し驚いて、おばあさんを見た。
八十は過ぎているだろう。その母親が若い頃といえば、ずいぶん昔の話になる。
「母さんもね、一度だけあそこに行ったって言ってた。何を預けたのかは、最後まで教えてくれなかったけど」
おばあさんは懐かしそうに目を細めた。
「店のご主人は、変わったのかい」
キョウはレイを見た。
レイは何も言わずに、路地の奥を見ていた。
「……どうでしょう」
キョウはそれだけ答えた。
おばあさんは「そうかい」とまた言って、それ以上は何も聞かなかった。
戸を開けると、店主がいつもの場所で帳簿を広げていた。
「おかえり」
「ただいま」
レイが先に丸椅子に座り、キョウはカウンターの内側に入る。
「どうだった。初めての外回り」
店主が聞いた。
「客は、ゼロです」
「そう」
「キョウ、一人減らしたよ」
レイが言うと、店主は少しだけ笑った。
「らしいね」
キョウは帳簿の横に置かれた、古い帳簿の背表紙を見た。いつもは奥の棚にしまってあるものだ。今日は、なぜかカウンターの端に出ている。
背表紙の文字はかすれていて、もうほとんど読めなかった。
「店主」
「何」
「この店って、いつからあるんですか」
店主は帳簿から顔を上げずに答えた。
「私より古いよ」
それ以上は言わなかった。
キョウはそれ以上聞かなかった。
代わりに、路地の角に座っていたおばあさんのことを、少しだけ思い出した。




