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第38話


隣国からの宣戦布告と、セレフィーナ王女の「返還要求」という予想外の知らせは、王宮にさらなる混乱をもたらした。

会議室に残された私と王子殿下の間に、重い沈黙が広がる。

王子殿下は、疲れたように深く息を吐き、机に広げられた地図に視線を落としていた。

彼の肩は、重く、その背中からは、深い苦悩が伝わってくる。


「返還要求」

その言葉が、私の頭の中で何度も反響する。

前回の会談では、隣国は「王女を要求」してきたはずだ。

それが、なぜ「返還を要求」に変わったのだろうか。

そして、その要求が、なぜ今になって出てきたのか。

様々な疑問が、私の心を支配した。

セレフィーナ王女の身に、一体何が起こったのだろう。

もしや、私がドレスのシミを落としたことが、彼女の何らかの計画を狂わせたのだろうか。

そんな考えが、私の脳裏をよぎる。

同時に、この新たな展開が、王子殿下の戦況にどのような影響を与えるのかという不安も、私の心を締め付けた。

私は、彼の傍に静かに歩み寄り、そっと彼の背中に手を置いた。

彼の体は、固く、そして冷たかった。

その冷たさが、私の指先から、心の奥底まで染み渡る。


「殿下…」


私が声をかけると、王子はゆっくりと顔を上げた。

彼の瞳は、深く沈み、その奥には、激しい困惑と、そして怒りの色が浮かんでいる。


「ロゼ…この状況で、なぜ隣国はセレフィーナ殿下の返還を要求してきたのだ。理解に苦しむ…」


王子の声は、かすかに震えていた。

その声に、彼の心の動揺がはっきりと見て取れた。

私は、彼の言葉に何も返すことができなかった。

ただ、彼の傍にいて、彼の苦悩を分かち合いたい、その一心だった。

王子は、深く息を吐き、静かに言った。


「戦が始まろうとしている今、このような要求は、明らかに我々を動揺させるためのものだろう。だが、セレフィーナ殿下の身に何があったのか。それが気がかりだ」


彼の言葉は、重く、その言葉一つ一つに、国の未来を背負う者の苦悩が滲み出ていた。

私は、彼の言葉を聞きながら、どうすれば彼を支えられるのか、必死で考えていた。

私にできることは、ごくわずかだけれど、それでも、彼の力になりたい。

その思いが、私の心を突き動かした。

私は、そっと彼の手に自分の手を重ねた。

彼の指は、冷たく、そして力なく震えていた。


「殿下…どのような状況であろうと、わたくしは殿下の傍におります。殿下のご決断が、この国の未来を切り開くと、わたくしは信じております」


私の声は、かすかに震えていたが、その中には、彼への揺るぎない信頼が込められていた。

王子は、私の言葉に、驚いたように顔を上げた。

彼の瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。

その視線に、私の心臓は小さく跳ねた。

彼の表情は、一瞬、戸惑いを見せた後、かすかに口元を緩めた。

その笑顔は、月の光に照らされた夜のように、優しく、そしてどこか切なげだった。


「ロゼといると心が落ち着くな」


王子の言葉は、私の心を温かく包み込んだ。

「心が落ち着く」。

その言葉の響きに、私の心臓は激しく脈打った。

彼が、私をそこまで必要としてくれているなんて。

それは、メイドとしての私への感謝なのだろうか。

そう、自分に言い聞かせるけれど、胸の高鳴りは収まらない。

私の頬は、さらに熱くなる。

私は、彼に視線を合わせることができず、ただ俯くことしかできなかった。

こんなにも嬉しいのに、こんなにも苦しい。

彼の温かい視線が、私を包み込んでいる。

その温もりが、私の中に、新しい感情の嵐を巻き起こしていた。

王子は、私の手をそっと握り返すと、静かに言った。


「お前は、いつも俺の想像を超えてくる」


王子は、しばらくの間、私の手を握り続けた。

その温かさが、私の全身に染み渡っていく。

このまま時間が止まってしまえばいいのに。

しかし、その思いは、私の中の秘められた願いでしかなかった。

私は、彼の傍で、ただ静かに佇んでいた。

私の心は、彼への深い愛情と、報われない恋の苦しみで揺れ動いていた。

そして、王国の未来が、大きく揺れ動いている。

不安は尽きないが、私は王子の傍で、彼の選んだ道を、共に歩んでいく覚悟を決めていた。

たとえ、それがどのような結末を迎えようとも。

私は、ただ、彼のために、彼の傍に立ち続けることしかできないのだ。





翌日、王宮に新たな住人がやってきた。

幼い王女。

国王陛下の末娘で、この国の第二王女にあたる方だという。

これまで、病弱であったため、王都から離れた別の宮で療養生活を送っていたけれど、5歳になったのを機に、王城へ移り住むことになったのだという。

私は、その知らせを聞き、驚きを隠せなかった。

まさか、この緊迫した状況で、新たな王族が王城にやってくるなんて。

しかも、5歳の幼い王女。

彼女が、この混乱の中で、無事に過ごせるのだろうか。

私の心には、かすかな不安が広がった。

王女様は、とても可愛らしい方だった。

くるくるとした大きな瞳に、フワフワの金色の髪。

まるで、絵本から飛び出してきたような愛らしさだった。

彼女の名前は、リリアーナ王女。

初めてお会いした時、彼女は私を見上げ、警戒するように、しかし好奇心に満ちた目で私を見つめた。

その瞳は、まるで宝石のように輝いていた。


「あなたが、お兄様のメイドさん?」


彼女の声は、鈴を転がすように可愛らしく、私の心を和ませた。

しかし、次の瞬間、彼女は王子殿下の姿を見つけると、一目散に駆け寄った。


「お兄様!」


リリアーナ王女は、王子殿下に抱きつき、その小さな体で彼にべったりと寄り添った。

王子殿下は、驚いたような表情を見せたが、すぐに優しく彼女の頭を撫でた。

その顔には、普段の厳しい表情とは違う、父親のような優しい眼差しが宿っていた。

その光景は、私にとって、初めて見る王子殿下の姿だった。

そして、その優しい眼差しが、私に向けられたものではないことに、胸の奥で、かすかな痛みが走った。

それは、私だけが知っている彼の姿ではなかった。

リリアーナ王女は、王子殿にべったりとくっついたまま、私をじっと見つめた。

その瞳は、まるで獲物を狙う小動物のように、警戒心を露わにしている。


「あなた、お兄様から離れて!お兄様は、私だけのものなんだから!」


彼女の声は、幼いながらも、はっきりと私への敵意を含んでいた。

私は、思わずたじろいだ。

彼女が、まさか私に、そこまでの敵意を向けてくるなんて。

私は、すぐに頭を下げ、弁解しようとした。


「リリアーナ殿下、わたくしは、王子殿下の専属メイドとして…」


私が言葉を続けようとすると、彼女は私の言葉を遮った。


「メイドは、あっちに行って!お兄様と、二人きりになりたいの!」


彼女は、そう言って、王子殿下の腕にさらに強くしがみついた。

王子殿下は、困惑したような表情を見せた。

彼は、リリアーナ王女の頭を優しく撫でながら、私に視線を向けた。


「ロゼ、すまない。リリアーナは、まだ幼いから…」


王子の言葉は、私への配慮が感じられた。

しかし、その言葉は、私を「ただのメイド」として扱っていることを、改めて突きつけているかのようだった。

私の胸は、締め付けられるようだった。

私は、深々と頭を下げ、その場を後にした。

リリアーナ王女の視線が、私の背中に突き刺さるように感じられた。

この幼い王女もまた、私にとって、新たな試練となるのだろうか。

そう思うと、心が重くなった。




王宮でのリリアーナ王女の生活が始まってから、私の仕事はさらに増えた。

彼女は、まだ幼いため、私を含め数人のメイドが交代で世話をすることになったのだ。

リリアーナ王女は、天真爛漫で可愛らしいけれど、その一方で、王子殿下への独占欲が非常に強かった。

王子殿下が執務室にいる間は、彼女も執務室で遊ぶことを望み、私が王子殿下に近づこうとすると、すぐに間に割って入ってくる。

彼女の小さな手で、私の服を掴み、引き離そうとすることさえあった。

その度に、私は苦笑するしかなかった。


彼女の行動は、純粋な幼い愛情から来るものだと分かっているけれど、それでも、王子殿下との時間が奪われることに、寂しさを感じずにはいられなかった。

ある日のこと、リリアーナ王女は、お気に入りの人形をなくしてしまい、大声で泣き出した。

メイドたちが、慌てて人形を探し回るが、どこにも見つからない。


私もまた、人形を探す手伝いをすることになった。

王宮の広大な敷地を、隅から隅まで探し回ったが、人形は見つからない。

リリアーナ王女の泣き声は、一向に止まない。

王子殿下も、心配そうに彼女の傍に寄り添っていた。

その時、私は、ふと、ある場所を思い出した。

幼い頃、私もよく人形遊びをしていた王宮の片隅にある、秘密の小道。


そこは、あまり人が通らない場所で、もしかしたら、そこに落としてしまったのかもしれない。

私は、王子殿下に声をかけた。


「殿下、もしよろしければ、わたくしが、心当たりのある場所を探してまいります」


私が言うと、王子は驚いたような表情を見せた。

彼もまた、その場所に心当たりがなかったのだろう。

彼は、私を信頼してくれるように、静かに頷いた。


「ああ、頼む、ロゼ」


私は、彼の言葉に背中を押されるように、すぐにその小道へと向かった。

小道は、草木が生い茂り、普段はほとんど手入れされていない場所だった。

私は、注意深く足元を見ながら、進んでいく。

そして、小道の奥に、色褪せたリボンが落ちているのを見つけた。

そのリボンは、リリアーナ王女の人形についていたものだ。


私は、リボンの先を辿っていくと、草むらの奥に、人形が落ちているのを発見した。

人形は、少し泥で汚れていたが、無事だった。

私は、人形をそっと拾い上げ、泥を丁寧に拭き取った。

私の心は、安堵で満たされた。

これで、リリアーナ王女の笑顔が見られる。

その喜びが、私の心を温かく包み込んでいた。

私は、人形を抱きしめ、執務室へと急いだ。

執務室に戻ると、リリアーナ王女は、まだ泣き続けていた。


王子殿下は、彼女を抱きしめ、優しく慰めている。

私が人形を差し出すと、リリアーナ王女は、ハッと息を飲んだ。

彼女の瞳が、人形に向けられると、みるみるうちに涙が止まり、その顔に笑顔が広がった。


「あ!わたくしの人形!ありがとう、メイドさん!」


リリアーナ王女は、人形を受け取ると、満面の笑みで私に礼を言った。

その笑顔は、まるで太陽のように輝いていて、私の心を温かくした。

彼女は、すぐに王子殿下から離れ、人形を抱きしめて跳ね回った。

王子殿下は、私のことを見て、優しい眼差しで微笑んだ。


「ロゼ、よく見つけてくれた。お前は、本当に、いつも俺を驚かせるな」


王子の言葉は、静かだが、その中には深い感謝と、そして私への特別な感情が込められているように聞こえた。

私の心臓は、激しく脈打っていた。

彼が、私を「驚かせる」とまで言ってくれた。

それは、メイドとしての私への褒め言葉なのだろうか。

そう、自分に言い聞かせるけれど、胸の高鳴りは収まらない。

私の頬は、さらに熱くなる。

私は、彼に視線を合わせることができず、ただ俯くことしかできなかった。

こんなにも嬉しいのに、こんなにも苦しい。

彼の温かい視線が、私を包み込んでいる。

その温もりが、私の中に、新しい感情の嵐を巻き起こしていた。

リリアーナ王女は、人形を抱きしめたまま、私に近づいてきた。

彼女は、私の服の裾をぎゅっと掴むと、上目遣いで私を見上げた。


「メイドさん、ありがとう。メイドさん、すごいね!」


彼女の言葉は、純粋な賞賛に満ちていた。

私の胸は、温かいもので満たされた。

彼女が、私に心を開き始めている。

その事実が、私にとって、何よりも嬉しかった。

私は、リリアーナ王女の頭を優しく撫でた。

彼女の小さな手が、私の指に触れる。

その温かさが、私の心をさらに温かくした。

王宮の空は、その日も重く、未来の行方を示すかのようにどんよりと曇っていた。

しかし、私の心には、かすかな光が差し込んでいた。

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