第39話
リリアーナ王女が王宮に来てから、私の生活は、これまで以上に目まぐるしくなった。
彼女は、天使のような愛らしさを持つ一方で、まるで春の嵐のように予測不れない行動で周囲を振り回した。
特に、王子殿下への独占欲は強く、私が彼の傍に近づこうとすれば、小さな体を精一杯使って邪魔をしてくる。
その度に、私は苦笑いを浮かべながら、そっと身を引くしかなかった。
しかし、人形を探し出した一件以来、彼女は私に少しずつ心を開き始めているようだった。
時折、私を見上げて、無邪気な笑顔を見せることもあった。
その笑顔を見るたび、私の心は温かくなる。
この幼い王女もまた、私にとって、大切な存在になりつつあった。
王宮の空気は、依然として重く、緊迫していた。
隣国からの宣戦布告、そしてセレフィーナ王女の「返還要求」の謎は、未だ解けないままだった。
王子殿下は、戦場へと赴いてから、まだ帰還していない。
彼の無事を祈りながら、私は毎日を過ごした。
王宮内では、兵士たちの訓練の音が響き渡り、人々の顔には、不安と疲労の色が浮かんでいた。
そんな中、私は自分の仕事に没頭するしかなかった。
それが、私にできる、唯一のことだったから。
ある日の午後、リリアーナ王女が、執務室で王子殿下の帰りを待っていた。
彼女は、王子殿の机の傍で、色鉛筆を握り、真剣な顔で絵を描いている。
私は、彼女の傍で、静かに王子の執務室を整えていた。
その時、執務室の扉が勢いよく開かれ、一人の伝令が飛び込んできた。
彼の顔は、泥と汗で汚れ、息を切らしている。
私とリリアーナ王女は、ハッと息を飲んだ。
伝令は、王子殿下に深々と頭を下げると、震える声で言った。
「国王陛下!王子殿下が…王子殿下が、敵軍と交戦し、窮地に陥っておられます!援軍を…援軍をお願いいたします!」
その言葉は、私の耳に突き刺さった。
「窮地」
その言葉が、私の頭の中で何度も反響する。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
王子殿下が、危険な状況にいる。
その事実が、私の心を締め付けた。
手が、微かに震える。
リリアーナ王女は、伝令の言葉を聞き、絵を描いていた手を止め、青ざめた顔で私を見上げた。
その瞳には、恐怖の色が浮かんでいる。
「お兄様が…お兄様が危ないの…?」
彼女の声は、か細く、震えていた。
私は、彼女の小さな体を抱きしめたい衝動に駆られたが、それよりも先に、頭の中が真っ白になった。
王子殿下が、危ない。
それだけが、私の心を支配していた。
国王陛下は、伝令の言葉に、苦渋の表情を浮かべている。
彼は、すぐに重臣たちを集め、緊急の会議を開いた。
私は、その会議に、侍女として同席した。
会議室には、重い空気が満ちている。
重臣たちは、援軍を出すべきか否か、激しい議論を交わしていた。
しかし、現在の王国の兵力では、援軍を出すことは非常に困難な状況だった。
兵士の数も、物資も、足りない。
もし、援軍を出せば、王都の防衛が手薄になり、隣国に攻め込まれる危険性がある。
しかし、王子殿下を見捨てれば、この国の未来はない。
誰もが、苦悩の表情を浮かべていた。
会議が長引き、夜が更けていく。
私は、会議室の隅で、静かに王子の無事を祈り続けていた。
その時、不意に、王子殿下の声が会議室に響き渡った。
彼は、映像魔法で、遠く離れた戦場から、直接会議に参加していたのだ。
彼の顔は、疲労と泥で汚れていたが、その瞳には、依然として強い光が宿っていた。
彼の声は、かすかに掠れていたが、その中には、はっきりと覚悟が込められていた。
「父上、重臣の皆様。私は、このままでは、敵軍に突破されてしまいます。どうか、私のことは…」
王子の言葉は、会議室に衝撃を与えた。
彼は、自分を見捨てて、王都の防衛を優先しろと言っているのだ。
重臣たちの顔には、悲痛な表情が浮かぶ。
国王陛下もまた、苦渋の表情で息子を見つめていた。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
彼が、自らを犠牲にしようとしている。
そんなことは、絶対にさせない。
私は、王子殿下のために、何ができるだろうか。
その時、私の脳裏に、ある記憶が蘇った。
幼い頃、王女としての教育で学んだ、地形学と、隠れた抜け道に関する知識。
この王国の地形には、敵軍が気づいていない、秘密の抜け道が存在する。
それは、かつて、王家の者だけが知る、緊急時の脱出路だった。
もし、この抜け道を使えば、援軍を最小限の兵力で送り込み、敵軍の背後を突くことができるかもしれない。
それは、非常に危険な賭けだった。
しかし、彼を救うためには、これしかない。
私は、意を決して、国王陛下に声をかけた。
「国王陛下!わたくしに、一つ、ご提案がございます!」
私の声は、会議室に響き渡った。
全ての視線が、私に集まる。
重臣たちは、驚いたような表情で私を見つめている。
王子殿下もまた、映像越しに、私に視線を向けた。
彼の瞳には、驚きと、そしてかすかな疑問の色が浮かんでいる。
私は、深呼吸をし、落ち着いた声で、自分の知る抜け道について説明し始めた。
地図を広げ、指でその場所を示す。
重臣たちは、私の言葉に耳を傾け、その表情は驚きから真剣なものへと変わっていく。
彼らは、これまでその抜け道について知らなかったのだろう。
国王陛下もまた、私の説明に熱心に耳を傾けていた。
やがて、国王陛下は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「ロゼ…その抜け道は、確かに存在するのか?」
国王陛下の声は、静かだが、その中には強い期待が込められていた。
私は、迷わず頷いた。
「はい、国王陛下。わたくしが、幼い頃に…偶然、知ったものでございます」
私の言葉に、国王陛下の顔に、希望の光が差した。
重臣たちもまた、興奮した様子で議論を始めた。
王子殿下は、映像越しに、私をじっと見つめていた。
彼の瞳には、驚きと、そしてかすかな感動の色が浮かんでいる。
私は、彼の視線から逃れるように、そっと俯いた。
私の過去が、また一つ、露見してしまった。
しかし、彼を救うためなら、それでいい。
その思いが、私の心を突き動かしていた。
私の提案は、国王陛下に受け入れられた。
援軍は、私の教えた抜け道を通って、王子殿下の元へと向かうことになった。
私は、その作戦の立案にも加わり、抜け道の詳細な情報や、注意すべき点などを、軍部の高官たちに説明した。
私の知識が、彼を救う。
その喜びが、私の心を温かく包み込んだ。
しかし、同時に、私自身の身の安全への不安も募る。
これ以上、私の過去に関する情報が露見すれば、私の正体がバレてしまうかもしれない。
その恐怖が、私の心の奥底に、常に広がっていた。
援軍が出発した後、私は執務室で、王子の無事を祈り続けていた。
リリアーナ王女は、私の傍で、不安そうな顔で座っている。
彼女は、まだ幼いけれど、この緊迫した状況を敏感に感じ取っているようだった。
その時、執務室の扉がノックされ、セレフィーナ王女が姿を現した。
彼女の顔は、どこかやつれているように見えたが、その瞳には、私への明らかな敵意が宿っている。
彼女は、私を見るなり、冷たい声で言った。
「あなた、一体、何をしたの?隣国から、わたくしの返還を要求する伝令が来たわ!なぜ、わたくしがこの国から追放されなければならないの!」
セレフィーナ王女の声は、怒りに震えていた。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
やはり、彼女は、私がシミを落としたことで、何か影響を受けたのだろうか。
しかし、私は、平静を装い、深々と頭を下げた。
「セレフィーナ殿下。わたくしには、何のことか分かりかねます」
私の言葉に、セレフィーナ王女は鼻で笑った。
「とぼけるつもり?あなたが、あのシミを落としたことで、隣国の外交官が、私に対して激しく立腹したのよ!そして、この国に滞在することすら許さないと、返還を要求してきたのよ!」
彼女の言葉は、私の心を深く切り裂いた。
まさか、私のシミ抜きが、そこまで大きな影響を与えていたなんて。
私の心は、混乱していた。
私のせいで、彼女がこんな状況に陥ってしまったのだろうか。
しかし、同時に、彼女の言葉の裏に隠された真意を探ろうとした。
なぜ、シミを落としただけで、返還要求にまで発展するのか。
そこに、何か、私が知らない理由があるはずだ。
その時、リリアーナ王女が、私の服の裾をぎゅっと掴んだ。
彼女は、不安そうな顔でセレフィーナ王女を見上げていた。
「メイドさんを、いじめないで!」
リリアーナ王女の声は、幼いながらも、はっきりとセレフィーナ王女への反抗心を含んでいた。
セレフィーナ王女は、リリアーナ王女の言葉に、驚いたような表情を見せた。
そして、すぐに怒りに顔を紅潮させた。
「この小娘!わたくしに逆らうつもり!?」
彼女は、そう言って、リリアーナ王女に手を伸ばそうとした。
私は、咄嗟にリリアーナ王女を庇うように、前に出た。
私の体は、微かに震えていたが、彼女を一人で危険な目に遭わせるわけにはいかない。
その時、執務室の扉が再び開かれ、国王陛下が姿を現した。
国王陛下は、セレフィーナ王女の行動に、厳しい視線を向けた。
「セレフィーナ姫。リリアーナに、そのような無体な真似は慎みなさい」
国王陛下の言葉は、静かだが、その中には明確な叱責が込められていた。
セレフィーナ王女は、国王陛下の言葉に、慌てて手を引っ込めた。
彼女の顔は、怒りと屈辱で歪んでいた。
国王陛下は、セレフィーナ王女に、静かに言った。
「隣国からの返還要求については、真摯に受け止め、対応を検討している。しかし、貴殿がこの王宮で騒ぎを起こすことは、決して許されることではない」
国王陛下の言葉は、セレフィーナ王女に突き刺さった。
彼女は、何も言い返すことができず、屈辱的な表情で執務室を後にした。
国王陛下は、セレフィーナ王女が去った後、私とリリアーナ王女に優しい視線を向けた。
彼は、リリアーナ王女の頭を優しく撫でた。
「ロゼ、リリアーナを守ってくれて、ありがとう」
国王陛下の言葉に、私の胸は温かくなった。
私は、深々と頭を下げた。
リリアーナ王女は、私の服の裾をぎゅっと掴んだまま、安心したように私の腕の中に顔を埋めた。
その温かさが、私の心を温かくした。
私は、彼女を抱きしめながら、この小さな命を、必ず守ると心に誓った。
その日の夜、私はリリアーナ王女の寝室にいた。
彼女は、私の膝の上で、絵本を読み聞かせてもらっていた。
王子殿下は、未だ帰還の報せがない。
私は、彼女を安心させるように、優しい声で物語を読み続けた。
物語が終わると、リリアーナ王女は、私の顔を見上げた。
その瞳は、何かを尋ねるように輝いている。
「ねえ、メイドさん…お兄様のこと、好きなの?」
リリアーナ王女の突然の言葉に、私の心臓は、激しく跳ねた。
全身の血液が、顔に集中する。
頬が、火が付いたように熱くなる。
まさか、この幼い王女に、そんなことを聞かれるなんて。
私は、慌てて言葉を濁そうとした。
「リリアーナ殿下、何を…わたくしは、ただ、王子殿下の専属メイドとして…」
私が言うと、リリアーナ王女は首を傾げた。
「だって、メイドさん、いつもお兄様のこと、心配そうに見ているもん。それに、お兄様も、メイドさんのこと、すごく大切にしているみたいだし」
彼女の言葉は、私の心を鋭く突き刺した。
私の行動が、そんなにも分かりやすかったのだろうか。
そして、王子殿下も、私を「大切にしている」
その言葉が、私の心臓を激しく脈打たせた。
まさか。
そんなはずは。
そう、自分に言い聞かせるけれど、胸の高鳴りは止まらない。
私の頬は、さらに熱くなる。
リリアーナ王女は、私の反応を見て、無邪気な笑顔で言った。
「ねえ、メイドさん。お兄様とメイドさん、両思いじゃないの?」
その言葉は、まるで雷鳴のように、私の耳に突き刺さった。
「両思い」
その言葉が、私の頭の中で何度も反響する。
私は、言葉を失った。
どうすればいいのか、何も分からない。
心臓が、耳元で大きく鳴り響いている。
私は、慌ててリリアーナ王女の顔から視線を外し、絵本に目を落とした。
しかし、文字が頭に入ってこない。
リリアーナ王女は、私の反応を見て、何も言わなかった。
ただ、私の顔をじっと見つめている。
その瞳には、純粋な好奇心が宿っている。
私は、彼女の言葉を、何度も、何度も、心の中で反芻した。
「両思い」
まさか。
そんなはずはない。
王子殿下が、私のようなメイドを、そんな風に思ってくれるはずがない。
そう自分に言い聞かせるけれど、胸の奥底で、かすかな希望が芽生え始めていた。
彼が私にかけてくれる優しい言葉。
私を見る時の、あの温かい眼差し。
それは、本当に、ただのメイドへの優しさだったのだろうか。
もし、もしも、彼が私に、特別な感情を抱いてくれていたとしたら。
その考えが、私の心を甘く、そして切なく締め付ける。
しかし、同時に、それは許されない感情だという理性も働いていた。
私は、ただのメイド。
彼は、この国の王子。
この身分の差は、あまりにも大きい。
報われない恋だと、ずっと自分に言い聞かせてきたのに。
リリアーナ王女の無邪気な一言が、私の心の奥底に秘められていた感情を、大きく揺さぶった。
私は、静かに絵本を閉じ、リリアーナ王女をそっと抱きしめた。
彼女の小さな体が、私の腕の中で温かい。
私の心は、彼への深い愛情と、報われない恋の苦しみで揺れ動いていた。




