死
死に急ぐルシエルを見て、怒りを露わにしたレナンは、ルシエルの頬を殴った。
そして、ルシエルは聖域の外へとひとり、逃げ出す。
そこでルシエルを襲ったのは、突然の……死?
私の為に、誰かが本気で悲しんだり、怒ることなど。
もう、無いと思っていた。
頬を殴られることなんて…まったくの不意打ちで。
正直、頭の中が真っ白になった。
※
(嫌なことを思い出したな…………)
殴られた頬は、右も左もよく腫れていた。実は、こういった腫れには魔術の治癒は殆ど効かない。何故なら、魔術は傷口を元通りに戻すものではないからだ。治癒力を促進させ、血小板を増やす作用しかない。そのため、裂傷や大きな失血を及ぼすような傷には非常に効果的だが、物理的な地味な痛みには、有効的ではない。
そのことを知ってのレナンの怒りの現れだったとは思えないが、偶然から引きおこされた痛みは、私の頭の中を掻き乱すには、充分すぎるものだった。
(父上にはよく、怒られてこうして頬をぶたれていたものだ)
聖域に背を向け、ずっと西へ向かって歩いていた。別に、西に用事があった訳ではない。昨日は東へ食料を探しに出かけたから、たまたま西を選択しただけであり、南でも、北でもよかった。
レナンが居る聖域から、逃れられればそれでよかった。
(自分で連れてきておいて、都合が悪くなったら逃げ出す…………か。まったく、子どものすることだな)
自分自身にとにかく呆れた。そして失望した。しかし、今は独りの時間が欲しくなった。その欲望からは、逃げ出せなかった。
あまり、過去のことは思い出したくはなかった。特に、家族間のことは、頭の片隅にも、置いておきたくはなかった。葬り去れるものならば、失ってしまいたい。記憶なんて欲しくはない。
私は、酷な人間だと思う。
死に追いやったことを棚に上げ、それまでにされてきた数々を、まだ、根に持っている。許す、許さないの問題ではなく、私が生まれてきてはいけない存在だったのだと、分かっているから……辛いのだと思う、未だに。
私はカガリに、自分自身を重ねているところがあった。
カガリは、生まれながらにして、世界で稀に見るほどの大きな魔力を持っていた。「風の民」のカガリは、「風」を操る「魔族」とただの「人間」を祖先とする、混血児。それゆえに、「風魔石」というものを身に着けている限りは、人間と何ら変わりない姿を保っていられる。しかし、それを外せば「魔族」の力が強まり、髪の色も瞳の色も……本気を出せば、姿すら人間のものではなくなる。
カガリのその能力をいち早く嗅ぎつけたのが、他でもない。この人間界を支配している、絶対王。フロート現国王である、「ザレス」だった。
ザレスのようなただの人間が、何故、「風の民」を……ライロークの存在を知っていたのか。それは、定かではない。探りを入れてみてはいるものの、二十年経った今でも、証拠も何も、得られない。
ザレスの背後に、何かがある。
ジンレートなどという、若僧の神子魔術士レベルではない。
世界史レベルの何かが、バックについていると考えて、甘くはないとみている。
「…………ッ」
唐突だ。
私は、心臓を抉り取られるかのような痛みが突然襲い掛かり、息を詰まらせた。このような激しい痛みは初めてだし、何より、私が病んでいるのは「胸」と言っても呼吸器系だと思っていた。しかし、今痛みを発しているのは、嫌な冷や汗をかかせているのは、肺ではない。妙に心音を鳴らす臓器だ。
「う、ぁ…………くっ、ッ、ゴホゴホッ!」
いつもの痛みまで襲ってくると、身体がガクガクと震え、足元から崩れその場に膝をついた。地面に利き腕である右腕を立て、なんとか身体を支えると、左手で口元を覆った。それでも、一度咳き込んだら、なかなか呼吸が戻らない。
身体がいくら酸素を欲しがっても、肺が受け付けない。心臓に突き刺さるような痛みは増すばかり。
「はっ、ハァ、ハァ、ゥ…………ぅ、…………ぁ」
口元を塞いでも、指の隙間から多量の血が溢れてくる。殴られて、口内を切ったときの血ではない。それはもう、治まっていた。この喀血は、紛れもなくもっと深いところからのものであることは、分かっている。
だから…………止まらない。
(死ぬのか…………ここで)
何故だろう。
はじめて「死」を、怖いと感じた。
「………………ッ」
意識が遠のく。
何も、聞こえなくなっていく。
身体が、冷たく……動かなくなっていく。
「…………ぅ、ぁ」
右腕の力が完全になくなり、ガクンと肘が曲がる。そのまま、不自然な態勢が維持できるはずもなく、地面に倒れ込んだ。身体中が麻痺しているようで「痛み」という感覚以外はない。ただ、痙攣を起こしていることは自覚出来た。
血だまりが出来ていく。口元だけではなかった。腹部の……ラナンに刺された塞ぐことの許されなかった傷口も、完全に開いている。ドクドクと痙攣しているのは、このせいかと、何故か妙に頭が冴えて来た。
このまま、失血死する。
それが、確定した。
目の前に、死の刻印が現れる前に視界を失くそうと、目を瞑る。
怖い。
静かすぎるこの時間と、冷たくなっていく身体の感覚。
いっそ…………死ぬのならばもう、意識を完全に失いたかった。
怯えたまま、動かなくなっていく自分を見届けることが、堪らなく怖かったからだ。
私は、生きることを諦めた。
「…………ル!」
それなのに、たった独りだったはずの私の世界に、他者が入り込んで来た。
視界は閉ざしたままだ。真っ暗な世界には、何も映りこんでいない。それでも、私は確かに「声」を受け止めていた。
そして、その声の主が誰であるのかも、察知していた。この一ヶ月強という時間。ずっと隣に居たものだ。もう、その「少年」が持つ空気を、肌が記憶していた。
「ルシエル!」
レナンの透き通る、凛とした声だった。
「ルシエル、ルシエル! しっかりしろ……おい、まだ生きてるよな!?」
(あぁ、生きている……)
声には、ならなかった。唇を動かすことすら、もう叶わない。ただ、僅かには震えたのかもしれない。レナンの息遣いが、少し落ち着いたのが分かったから、そう判断した。目視できたのだろう、と。
「敵でも居たのか!? その傷……や、でも、気配なんか…………」
「…………」
何とか、身体に力を入れ、起き上がろうとした。しかし、そんなことが出来るはずもない。口を動かすのも出来ない程、力を失くしているのだ。一度、生きることを諦め閉じた瞼も、重すぎて開けられない。
(これが…………死?)
当然ながら、死を経験したことなどない。死後の世界や、それからの世界のことについては、宗教によって考え方は異なる。私の信じてきた「ライエス」という神の教えでは、転生説はあった。また、生まれ変わることはある……と。
しかし、それは「魂」は私かもしれないが、もう「ルシエル」という人間ではない。まったくの別物だと、私は解釈していた。
三十七年という年月で積み上げて来たものが、こうして終わりを遂げ、もう、戻ることはない。それを実感すると妙に口惜しさがこみあげてきたことに、私は自分でも驚いていた。ここまで、自分に執着していたとは……恥ずかしいようで、少しだけ、自分を好きになれていたのだと思え、最期に人間らしさを取り戻せたと感じた。
「ルシエル、今、その傷口塞いでやるから……見せろ!」
「…………」
「ルシエル! 聞いてるのか!? しっかりしろよ…………根性見せろ!」
「…………」
「くそ……っ!」
心地よい風が吹いた。
自分を、少しでも受け入れられたこと。
三十七年かけてやっと、たどり着いた場所。
それが、生まれ故郷だった。
これほど、幸福なことはない。
次世代には、すでに有望な少年少女が育ってきている。
案ずることは無い、もう手放していいのだ。
運命を。
私を。




