19話 戦いに抱く苦悩
黒い闇の中に浮かぶ男の顔。マスク越しに恐怖が伝わる。その表情が歪み、徐々にセリクの顔となっていく……。
剣先に玉状に溜まる血液。それがポタン、ポタンと地面を濡らし、彼の瞳がその色に赤黒く染まる……。
むせかえるような血の臭い。敵の崩れ落ちる音。気味の悪い手応え。頭の中で反響する悲鳴。
何度も、何度も繰り返される幻影は、眼を開いていも閉じていても、闇の中に映しだされて消えることがない。
重苦しくのしかかり、そのたびに恐怖や後悔の念に嘖まれる……。
セリクはゆっくりと身を起こした。冷や汗でビショビショとなった背中が気持ち悪い。
「寝れない……」
口の中は乾ききっていて、舌が上顎に張り付いた。鼻は詰まり、余計に呼吸が苦しい。
とても不快な気分だった……。
「……レイド。もう出てこないのかな」
なぜだか、セリクは夢の中で出会った少年のことを思い出していた。
彼だったら、こういった苦しみに対して、何らかの答えを与えてくれるのではないかとセリクには思われた。そうでなかったとしても、“自分の味方”だと言った以上は、セリクのことを擁護してくれるはずだ。いまはどんなに甘ったれてると思われたとしても、慰めや贖罪の言葉を必要としていたのである。
寝さえすれば出会えると思っていたのだが、レイドはあの日に宿に泊まった時以来は一切姿を見せない。
出会うためには何か条件が必要なのかもしれないが、それが何なのかセリクには皆目検討もつかなかった。
とりあえず、喉の渇きを癒そうと、布団から出て立ち上がって部屋を出る。
隣の部屋のフェーナを起こさぬように忍び足で進み、キッチンでコップに水を汲む。
蛇口さえひねれば水がでるということに最初こそ驚いたものの、慣れてしまえばそんなものなのかと受け入れられてしまえていた。これに比べれば、自動車の方がより不可思議だ。なぜ動くのか、考えてみてもセリクにはまったく解らなかったからだ。
喉を潤し、なんの気なしに振り返ると、礼拝堂に続く扉の隙間から光が漏れていることに気づいた。
もう深夜遅い。礼拝の準備でもしているのだろうかと、セリクは扉を少し開いて中を覗きみる。
礼拝堂の奥。燭台が並べられた祭壇の上に、聖イバン・カリズムが両手を開いている姿が象られたステンドグラスがある。その前に、跪くようにして祈っているマトリックスの姿が目に入った。
邪魔をしてはマズイと思い、セリクは扉をそっと閉めようとする。が、その際にギィッという軋む音が響いてしまった。そういえば立て付けが悪くなっていて、閉まりが悪くなっていたのだ。辺りは静かだったので、それは余計に大きい音に聞こえる。マトリックスが顔を上げた。
「あの…ごめんなさい」
扉を開いて謝るが、マトリックスはいつもの穏やかな笑みを浮かべている。祈りを中断されたことを怒っている様子はなかったので、セリクはホッとした。
「眠れないのですか?」
「はい。マトリックスさんは……この時間にお祈りをしてるんですか?」
「ええ。深夜に祈るのが私のやり方でして……。集中できるんですよ。もしよければこちらへどうぞ」
やっぱり邪魔をしてしまったのだとセリクは少し後悔した。
マトリックスの手招きで、礼拝堂の一番前の席に案内される。
そして、キッチンから温かいココアと膝掛けをもってきてくれた。
「昼間はだいぶ暖かいですが、夜は冷えますからね。身体を冷やさないように」
「ありがとうございます」
マトリックスはセリクの横に座り、ホウッと小さく息を吐き出す。白い息がフワリと漂った。
何も言い出さないのをみると、どうやらセリクから喋るまで待ってくれているようだった。しばらく悩んだあと、セリクは唇を開く。
「……その、たぶん、シャインさんから聞いていると思うんですけれど」
昼間の颯風団との戦いを思い出し、セリクは身を縮こまらせながらボソボソと話し出す。
「ええ。聞いていますよ」
やはりというか、マトリックスには伝わっていた。シャインが報告しないわけがないだろう。
帰宅した時には、マトリックスはちょうど出かけていて、セリクとフェーナは食事もそこそこにすぐに寝てしまったのだ。もちろん、セリクはただ横になっていただけなのだが…。
「自警団を兼ねている以上、対人戦を想定していないと言えば嘘になります」
それが叱責のように聞こえて、セリクはますます落ち込む。
「かといって、今回のことでセリクくんのへの評価が変わったわけではありません」
マトリックスは優し気に微笑んで見せた。
「私たちの目的は、敵を倒すことではありません。“防衛した”……そういう意味であれば、セリクくんの行為はむしろ評価されるべきです」
「でも……」
「事実、私は龍王を倒すためにこの組織を作ったわけではありません。龍王を……エーディンくんを止めることができれば良いのです。龍王による悲劇を、私は阻止したいのですよ」
倒さずに止められるならば、どんなに良いだろうとセリクも考える。だが、それが理想的であったとして、龍王エーディンは決して甘い相手ではないはずだ。強大な力を振るう龍王に、ただ止めるだけなんて生易しいことが通用するのだろうか? いや、きっと不可能に違いない。一度だけとはいえ、相対したことのある自分自身が何よりもよく解っていたことであった。
そして、とても龍王ほどとは思えぬ颯風団相手にしても自分どうだっただろうか。はたして、会話などの平和的手段で止める余地があったか? 少なくとも、セリクにはそんな余裕などなかった。話など無駄だからこそ、シャインは迷わずに斬り捨てたのではないだろうかとも思う。
力には力で対抗するしかなく、結果的には相手を殺めることにも繋がるのである。とてつもなく悲しいことだが、それ以外に手段はないとセリクには思われた。
「…止めるだけじゃダメです!」
セリクは首を横に振る。そうではない、と。ここでそのことを慰められるべきではない、と。
「それじゃダメなんです…」
「セリクくん……」
「シャインさんみたいに戦わなきゃ……そうは思うんです。けど、あの時は身体が……固くなって、頭が真っ白で、まったく動かなくなっちゃって。戦わなきゃ、護れない……」
セリクは震えながら、一つ一つ言葉を吐き出す。
「俺、痛いのは辛いって解ってるんです……。だから、自分が傷つくのも……人が傷つくのもイヤだ。でも、龍王エーディンは……倒さなきゃいけない……うっ」
そこまで言って、強い吐き気を覚え、セリクは口元を抑えた。マトリックスはその背中を撫でる。
「セリクくん。決して争い事を好むわけではない君が、エーディンくんを倒さねばならぬ理由を……。もし、私でよければ話してもらえませんか?」
昼間、サラから聞かれた質問と同じ内容だった。疑問に感じていたのはサラだけではなかったのだ。
あの時は話す気などしなかった。しかし、もう自分の中で閉じ込めておきたい感情ではなくなっていた。
青白い顔をして、セリクは小さくコクリと頷く。
「俺、この紅い眼のせいで……。レノバ村から追い出されて、龍王の生贄にされたんです」
生贄という言葉に、マトリックスは顔をしかめた。
「龍王エーディンは……本当に人間を虫けらを潰すみたいに殺すんです。そして、ヤツなら人間を滅ぼすことなんて簡単にできる……そう感じました」
「…ええ。彼の力は、私も目にしたことがあります。危険な相手であることは間違いありません」
「俺……実は“ちょっといいかも”って思っちゃったんです」
「いいかも?」
セリクの言葉に、マトリックスは首を傾げる。
「……はい。俺、エーディンが人間を滅ぼしてもいいんじゃないかって」
顔をクシャクシャにして、セリクは頭を抱える。
「俺、俺……最低だッ。フェーナや……マトリックスさん、シャインさん、ギャンやサラさん……そんな皆がいる世界が、滅びても構わないなんて……。俺、皆から嫌われていたから……俺を嫌う世界なんて……なくなっちゃえって………ホントはそんな風に思ってて……」
煌々と光る紅い眼に、みるみるうちに涙が溢れていく。
「でも、そんな風に考えてちゃダメだって思ったんです。そんなことしても余計に嫌われるだけだって。俺、だから……龍王エーディンを倒したいって考えたんです。皆の敵である龍王エーディンを倒せば……俺、俺は……皆から必要とされると思うから。俺、自分勝手に……そんな風に考えて……だからッ!」
マトリックスは何も言わず、しばらくセリクの背を優しく、優しく撫でた。
しゃっくりをあげながら、セリクは涙を拭き取る。
「……セリクくん。君は聖イバンに似ていますね」
「え?」
唐突に口を開いたマトリックスに、セリクは顔を上げた。
マトリックスの眼は、正面にあるステンドグラスに象られた男を見やっている。
高く輝く太陽を背にし、天空に浮かぶ痩身の男性。悲しみに満ちた顔で地上を見下ろし、全てを包み込むように両手を広げ、白いローブをはためかせている。そんな神々しいワンシーンが色鮮やかに見事に描かれていた。
「イバンって人のことよく解らないけど…。でも、俺はそんな立派な人間じゃありません」
イバン・カリズムのことは、審判の書を書き記し、神々への信仰を広めるために活動した人というぐらいの認識しかセリクは持ち合わせていなかった。
ただ、人々に認められる存在なのだから、それは立派で偉い人なのだろうと漠然と思っていたのだ。
「立派……そうですね。でも、彼の功績が認められたのは、ずっと後の世になってのことなんですよ」
「そうなんですか?」
「布教は最初から順調だったわけではありません。神界凍結によって、神々の寵愛を受けられなくなった人々の心はひどく荒んでいました。そんな中、神々への回帰を謳うイバンを疎ましく思い、迫害する人々すらいたのですよ」
セリクは驚いた顔をする。フェーナも村の人々も、イバンのことを偉大な存在だと口々にしていた。だからこそ、皆から崇められているだけの存在とばかりに考えていたのだ。
「……ご覧なさい。あのイバンの頬の刀傷がどうして出来たか知っていますか?」
イバンの顔を見やると、ちょうど右側の頬の位置に大きな三日月の刀傷が描かれていた。
どんな絵にも、頬に傷が描かれているとは知っていた。長身細身、白いローブ、そして頬の傷、これらが聖イバンの大きな特徴だ。宗教画の絵描きでこれらを描かない人はまずいないことだろう。
しかし、その傷が出来た理由までは解らないとセリクは首を横に振る。
「イバンは神を説いたと同時に、何よりも神を求めた人間でもあります。悩み、苦悩しつつも、彼は……“この世界から全ての苦しみを除こう”としていたのです」
そんなことできるわけがないじゃないか……つい口に出しそうになったが、すでにマトリックスはセリクが何を言いたいのか察しているようだった。小さく頷いてそのまま続ける。
「彼はこう言いました……。『苦しみを除こうとする者は、まず自分自身が苦しみを知らねばならぬ。でなければ、いったい何の苦しみを除けようか?』と。この世界の苦しみを知るために、彼は自らの頬を切り裂いたのだと聞きます」
セリクは眉を寄せた。なぜ、自分を傷つけることが世界の苦しみを除くことと関係しているのかさっぱり解らなかったのだ。
「切り裂くこと自体に意味があったわけではありません。苦しみを一身に背負う証として、自らを傷つけたのです。それは紛れもなく、イバンの決意だったのでしょう。彼の本気を目の当たりにした人々は、ようやく彼の話を真剣に聞くようになったそうですよ」
それだけの覚悟が自分にできるだろうか? そう考えて、セリクは首を横に振った。答えは否だったからだ。
「セリクくん。君は、イバンの言う“苦しみを知る人間”です。だからこそ、誰かが傷つくのを厭い、優しくできる。そして、だからこそ……何者よりも強い」
マトリックスは、セリクの肩を力強く叩く。
「君は自分の感情に反してまで、恐怖の象徴である龍王と戦おうとしています。それは自分勝手なんかでは決してできません。仮に君がそう思ったとしても、私はそうは思いませんよ。迫害を受け、苦悩しつつ……それでも前に進んでいく。私はそんな君にイバンの姿を見ます」
歴史上の偉人と比べられて、なんだかこそばゆい気がしたが、何よりもマトリックスが自分を気遣ってくれたことがセリクには嬉しかった。
「俺、こんなでも……嫌われませんか?」
震える唇で問うのに、マトリックスは「大丈夫ですよ」と大きく頷く。
セリクはそれを信じても良いのではないかと思った。いや、今の彼には信じる以外の道はなかったと言えよう。初めて人に理解してもらえたような気がしていたのだ。
今まで胸に秘めて鬱積していたものを吐き出したお陰で、暗雲に包まれていた視界に一筋の光明が訪れたようだった。
「ありがとうございます。……俺、次は戦えます。いや、戦いますからッ」
セリクは拳を握りしめ、頭を深々と下げる。
マトリックスは、気弱な少年の眼の奥に芯の強いものを見た気がした。しかしそれは一歩間違えれば、すべてを壊してしまうような脅威も孕んでいるように思われてならない。
そんな危険性を感じつつも、マトリックスはセリクを止めることはできなかった。なぜなら、彼にDBで戦うことを許可したのは他ならぬ自分だったからだ。
“戦わなくてもいい”……そう言えれば、どんなに楽かと思う。しかし、シャインと渡り合えるだけの剣士は、龍王を止めるという目的を達成するにはどうしても必要であったのだ。
「……私でよければ、いつでも相談にのりますよ」
「ええ。マトリックスさんと話せてよかったです。……俺、もう寝ます。おやすみなさい」
もう一度頭を下げ、セリクは自分の部屋にと戻って行ったのだった…………。
一人残ったマトリックスは、半分残ったカップの中身をジッと見やる。
それからセリクの足音が聞こえなくなるのを確認して、大きく息を吐き出した。
「……ふう。シャインさん。出てきなさい」
ガタンと、マトリックスの後ろで物音がした。
「ど、どうして……解ったのですか?」
気まずそうな顔をして、シャインが入口側にある柱の影から出てくる。
「彼が生贄の云々の話をした時、思いっきり歯軋りの音がしてましたよ……。まあ、セリクくんは気づかなかったようですが」
マトリックスは台所から新しくココアを入れて来て差し出す。シャインはおずおずとそれを受け取った。
「こんな夜更けに教会に訪れるのはどうかと思いますよ。それも彼を心配してのことなんでしょうが……」
「すみません。どうにも……気になってしまって」
「彼は、あなたが考えているよりも遙かに強いと思いますよ」
マトリックスの言葉に、シャインはコクリと頷く。
「はい。それは解っています。ですが、まだ子供です。人を殺すのことにも、龍王を戦うことにも、こらからもっと深く傷つくことでしょう。私には、それが……」
「傷ついたとしても前に進む子です。その険しき道を選ぶのは彼自身……私たちにはそれを阻む権利はありません」
きっぱりと言うマトリックスに、シャインは辛そうに眉を寄せた。
「何か……してやれることはないのですか?」
「ならば、祈りましょう」
「祈り…ですか?」
シャインは妙な顔をしたが、マトリックスが祈っている姿は嫌いではなかった。だが、信者ではない自分が祈る姿があまりにも似つかわしくなく思えたのでそんな顔をしたのだった。
「そう深く考えずに、シャインさん。人の手に及ばぬところに、神の助けを求めるのは無駄にはならないと思いますよ」
そう言ってマトリックスは、イバンのステンドグラスの前に跪く。
「……聖イバン・カリズムよ。願わくば、汝が導きによりて彼が真理に辿り着くように」
シャインも、おそるおそるマトリックスの真似をして跪いた。そして、居心地が悪そうにしながらも両手を組む。
「………どうぞ、セリクを守りたまえ」
その言葉は偽らざるシャインの本心だった。
マトリックスは静かに頷き、そして再び心から祈りの言葉を捧げたのだった…………。




