第112話 女子会は大騒ぎ? ベリアル直伝「隠密の心得」
「いい、みんな。よく聞いて。隠密の本質っていうのはね、単に気配を消して『透明になる』ことじゃないんだよ。それはただの魔術やスキルの話。本当に高度な隠密っていうのは、そこに存在しているのに誰にも意識されない……つまり『風景になる』ことなんだ!」
宿の裏庭。大きなユグドラシルの影で、ベリアルが熱っぽく語っていた。ゴーグルを額に上げ、忍び装束の裾をはためかせながら、彼女は目の前に並んだ「弟子」たちを見渡す。
そこには、興味津々の様子のマルタ、ジューゴ以外の感性に触れて少し戸惑い気味のアムネ、そして「面白そうだから」と付き添いで参加しているリナの姿があった。
「風景、ですか……?」
アムネが不思議そうに首を傾げる。ベリアルはニヤリと笑い、人指し指を立てた。
「そう。石ころや空気と同じになるの。というわけで! 今日は実践編だよ。ターゲットは厨房のザック。彼が今まさに焼き上げたばかりの『特製おつまみクッキー』を、誰一人として気づかれずに盗み出す……名付けて、隠密つまみ食い作戦、スタート!」
「ええっ!? ザック師匠に見つかったら、私、一週間は皿洗いの刑ですよ!」
マルタが悲鳴を上げるが、ベリアルは聞く耳を持たない。
「大丈夫。私の指導があれば、ザックの鋭い鼻だって誤魔化せるよ。リナもお姉さんとして手本を見せてあげて!」
「ふふ、いいわよ。ジューゴの眷属として、気配を殺す訓練にはなるものね」
リナが余裕の笑みで応じ、四人の奇妙な隠密ごっこが始まった。
戦場は、活気あふれる夕刻の厨房である。
ザックは細身の体躯を軽やかに躍らせ、しゃがれた通りの良い声で指示を飛ばしながら、オーブンから焼き立てのクッキーを取り出していた。香ばしいバターと蜂蜜の香りが厨房を満たす。
「よし、マルタ! こいつを冷ましておけよ。宿泊客へのサービス用だ、手ぇ出すんじゃねぇぞ!」
ザックがカウンターの端にトレイを置き、背を向けて次の仕込みに入った。
今だ――。影で待機していたベリアルが合図を送る。
まず動いたのはマルタだった。彼女は「風景になる」という教えを忠実に守り、皿洗いの動線に紛れて、ごく自然な動作でカウンターへと近づく。それは「つまみ食いに行く者」の動きではなく、あくまで「忙しく働くスタッフ」としての動作だった。
続いてアムネが、換気口から精霊の風を送り込み、クッキーの香りをザックの鼻から遠ざける。
さらにリナが、厨房の入り口でわざとザックに声をかけ、彼の注意を逸らした。
「ザック、今日の夕食のメインディッシュ、少しだけ火入れの相談をしたいのだけれど」
「お、リナさんか。いいぜ、そいつは……」
ザックが完全にリナの方を向いた瞬間、最後尾のベリアルが音もなく跳ねた。
その動きはまさに風。マルタが死角を作り、アムネが気配を中和し、リナが視線を奪う。四人の完璧な連携により、ベリアルの小さな手がトレイから三つのクッキーを掠め取った。
一分後。宿の廊下の角に集まった四人は、手の中にある戦利品を見つめて顔を見合わせた。
「やった……! やりました、成功です!」
マルタが声を押し殺して歓喜に震える。ザックの目は、文字通り節穴だった。
「すごいです、ベリアル様。本当に、風景になったみたいでした……!」
アムネも頬を上気させて喜んでいる。リナもまた、いたずらが成功した子供のような顔で笑った。
「まさかあのザックを出し抜けるなんてね。ベリアル、あなたの教え方、意外と筋がいいわ」
「あはは! 当然だよ! これこそが遊戯の四天王、ベリアル直伝の……」
ベリアルが誇らしげに胸を張り、勝利の咆哮を上げようとした、その時だった。
「……天井裏に三人。樽の影に一人。……お前ら、そこで何やってるんだ?」
頭上から、低く、どこまでも冷徹な、しかし聞き慣れた声が降ってきた。
四人の動きが、氷漬けにされたかのようにピタリと止まる。
ギギギ、と錆びついた人形のように首を上げると、そこには二階のテラスの手すりに腰掛け、いつの間にかコーヒーを飲んでいるジューゴの姿があった。
彼の瞳は、空間干渉によって宿の隅々までを「管理」している者の目だった。
「じ、ジューゴ様……いつからそこに……?」
アムネが震える声で尋ねる。ジューゴは溜息をつき、手元のカップを置いた。
「最初からだ。リナが不自然にザックに話しかけた時も、アムネが風の精霊を不器用に動かした時も、マルタが挙動不審にカウンターへ近づいた時も。……全部筒抜けだ」
「嘘でしょ!? 私、完璧に風景になってたはずなのに!」
ベリアルが地面を叩いて悔しがる。ジューゴはテラスから軽やかに飛び降り、四人の前に着地した。
「ベリアル、お前の理論は間違っちゃいない。だが、ここは俺が管理する迷宮……いや、宿だ。空気の揺らぎ一つ、魔力の密度一つ、俺の感知から逃れられると思うな」
ジューゴはベリアルの手元にあるクッキーをじろりと見た。
「しかもザックからつまみ食いとはいい度胸だ。……ザック、そこにいるんだろ?」
「へっ、バレてたんじゃしょうがねぇな」
廊下の影から、腕を組んだザックが苦笑いしながら現れた。
「えっ!? ザック師匠、気づいてたんですか!?」
驚愕するマルタに、ザックはしゃがれた声で快活に笑い飛ばした。
「当たり前だ、馬鹿野郎。俺が焼き上げた菓子の数が一つでも合わなきゃ、すぐに気づく。お前らがコソコソやってるのが面白そうだったから、ジューゴの旦那と目配せして乗ってやっただけだよ」
「……っ!」
四人はその場にがっくりと膝をついた。
成功したと信じ込み、有頂天になっていた数分間が、すべてジューゴたちの手のひらの上だったのだ。この落差。まさに天国から地獄。
「おじさん、ズルい! ズルすぎるよ! 管理人の権限を使うなんて、遊戯のルール違反だ!」
ベリアルが子供のように膨れっ面でジューゴを指差す。リナも頬を赤くして、そっぽを向いた。
「……ジューゴ、あなたって本当に可愛げがないわね。少しは騙されたふりをしてくれたっていいじゃない」
「宿の主が客やスタッフの動きを把握してなくてどうする。……ほら、反省したならそのクッキーは返せ。代わりに、まかないの余りのパイをやる。アムネとマルタ、リナも……あんまりベリアルの変な遊びに染まるなよ?」
ジューゴはそう言って、四人の頭を一人ずつ、ぶっきらぼうに、だが優しく撫でて回った。
見破られた悔しさはあったが、その手の温もりに、四人の顔には自然と苦笑いが浮かぶ。
「もう……次は絶対、ジューゴ様も驚かせてみせますから!」
アムネが拳を握って宣言すると、マルタも「私も修行し直します!」と続いた。
ベリアルはジューゴに撫でられた髪を気にしながら、ゴーグルをクイと直して不敵に笑う。
「いいよ、おじさん。受けて立つよ。この宿がボクの完全勝利で埋め尽くされるまで、何度でも『遊び』を仕掛けてあげるからね!」
「……やれやれ。これじゃあ、宿の警備レベルをもう一段階上げなきゃならんな」
ジューゴの困ったような、それでいてどこか嬉しそうな独り言は、女子たちの賑やかな笑い声にかき消されていった。
こうして、「女子会」という名の隠密修行は、宿の主の圧倒的な力の前に敗北を喫したが、彼女たちの絆はより一層、強固なものとなったのである。
ご拝読ありがとうございます。ミッションつまみ食い!子供にありがちな無邪気ないたずら遊び。ジューゴがいたら、隠密なんてそりゃ無理だよな(汗)
さて次回は、第113話『宿の静寂と、忍び寄る「重山」の足音』をお送りいたします。お楽しみに!!




